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55 カディフォル大草原 3

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 その村は草原の中に突然現れた。
 ユルディスの言った通り、平らなように見える草原地方にも、なだらかな丘や谷があって、窪地には必ず泉があり、川が流れている場所もある。所々に黒く見えるのは刈り取られた麦畑であるようだ。
 それは雄大で、心満たされる風景だった。
 馬上のミザリーは飽かず、地平線へと目を遊ばせる。

 美しいけれど、どこか圧迫感のあるグレイシアの都とは大違いね。
 人々の心も、この風景と同じように開放的だといいけれど。

 小さな村をいつくか通りすぎ、ここら辺では一番大きいという、緑の丘を回ると、カドウィン族の族長の町があった。
 そこは環状集落で、レンガ作りの家は多くは平屋で壁に囲まれている。内側は広いようで中庭が造られているようだ。外壁は修理を繰り返して丁寧に作られている。これは以前、戦が多かった頃の名残だろうか?
 近くにはやはり大きな泉があって、空を写し込んでいた。
「綺麗ね。ユールの故郷は」
「何もないところですが」
「そんなことはないわ。草原地方は豊かな土地よ。穀倉地帯だし、鉱物もあるし。ユールのお家は、一番奥の大きな白い家?」
「そうです。よくわかりましたね」
「あの家だけレンガに漆喰しっくいが塗ってあるもの」
 確かにその家は他の家の数倍の大きさがはあって、一部のみ三階建てになっていた。屋根が平たいところは他の家と一緒だが、どこも白く塗られていて、美しい。
 一行は村の入り口を通り抜けた。
 そこは街路というよりも、広い空間に家が不規則に立っているという感じだった。通り過ぎる家々の前にも窓にも、たくさんの顔が見える。
 やがて、大きな白い家の前庭に出る。そこにも人が集まっていた。
 ユルディスはさっと馬から飛び降りると、馬車の中から覗き見をしていたミザリーを助け下ろす。
 その時、ミザリーは家から一人の男が出てくるのを見た。入り口には扉はなく、かなりの奥行きがあるようだ。
「兄上、ただいま戻りました」
 ユルディスはミザリーを下ろすと、背中をまっすぐに伸ばしたまま腰を折った。草原式の礼だろう。
「よく戻った。何年になるか?」
「さぁ、数えることすら忘れるほど、夢中で生きてきましたので」
「確かにな。アサクルには感謝だ」
 大きな鷹は近くの家の屋根にとまり、人々を見下ろしている。
「それで、こちらが」
 ユルディスが背後を振り返り、ミザリーはユルディスの真似をして腰を折った。
「ミザリー・グリンフィルドと申します」
「グレイシア国、グリンフィルド領の後継者殿、であるな。ようこそカドウィンへ。私は族長のジュマ・シャキームだ。まずは中で休まれよ」
 家の中は暖かかった。
 壁が厚く作られているので断熱効果が高いのだろう。
 ミザリーは広い居間に通され、茶の接待を受けると、しばし一人になった。

 ユルディスはすぐに戻ります、と言ったけれど……。

 家の中もやはり白く、窓のない壁には織物が掛かっている。床も同様で、都のものよりも分厚い敷物には、目が細かく複雑な文様が編み込まれていた。
 テーブルはなく、敷物の上にクッションを引いて直に座る様式のようだ。
 お茶は温かくて花の香りがした。この部屋には暖房設備はないが、とても快適な室温だ。
 ミザリーはほっと体の力が抜けるのを感じた。

 なんだかとてもいい気分……。

 ふっと気が緩んで眠くなる。

 ん?
 あれ? なんか急に妙な感じが……。
 口?
 口の中に何か入って……?

「……え? わ!」
 うっかり寝こけていたミザリーが、いきなり眠りの淵から引き戻された時、目の前にあったのは見慣れた男の顔だった。
 ユルディスは夢中になって、ミザリーの口腔に侵入していたのだ。
「……っ!」
 邪険に突き飛ばされ、ユルディスは恨めしそうにミザリーを見上げた。
「これは大変失礼を」
「全然失礼と思っていないでしょう?」
 いつも見下ろされているので、この体勢は新鮮である。
「迎えに来たら、あなたが無防備に眠っていたので、つい……昨夜から……いやもうずっと我慢のしどおしなので」
「だからって、もう少し紳士的な起こし方があるでしょ?」
「草原には紳士などいません。欲しいものを手を尽くして掴み取る男ばかりです」
 そう言って立ち上がったユルディスに、ミザリーは目を見張った。彼はすっかり着替えていて、草原の民の服装、それも普段着ではない衣装を纏っているのだ。
 白い刺繍入りの長衣には青い帯が巻かれ、その上から締められた革のベルトに大ぶりの剣が吊られていた。旅を守ってくれた愛剣の鞘を変えたようだった。結えてあった髪は下ろされ、帯と共布の頭布がまかれている。
 総じて大変立派な装束だった。
「ユルディス、あなた……」
「これから父に会いに行きます」
「……私、こんな格好だわ。言ってくれたら私だって着替えたのに」
 しかし、そもそも荷物はここにはない。手洗い用に桶を渡されただけだ。
「十分です」
「髪だって、乱れてしまったわ」
 今度はミザリーが恨めしそうにする番だった。先ほどの無礼な行いのせいである。ユルディスは宝石と房のついた耳飾りまでつけているというのに。
「あなたはそのままでお美しいです。参りましょう」
「……」
 諦めたミザリーは立ち上がり、せめてこれだけでもと、乱れた髪を下ろして衣服を整えた。草原では女の召使いは付かないのだろうか? しかし、まだ尋ねられる状況ではなさそうだ。
「いいわ。行きましょう」
 廊下を抜け、明るい中庭を囲む回廊を進む。いくつかの建物を通り抜けた奥に、古い木の扉があった。
「こちらです。兄もいます」
「……」
 ユルディスは扉を開けた。
 ミザリーがいた部屋と同じように、そこにも厚地の敷物が敷かれ、たくさんのクッションが置かれていた。真ん中近くにジュマが立っている。その後ろ、一番大きなクッションに痩せた老人が座っていた。ひときわ目を引くのは、長くて白い髪と髭だ。
 老人はゆっくり身を起こし、ミザリーを柔らかく見つめた。その瞳は彼女のよく知る男のものと同じ色だった。
「ようこそ。グレイシア……いやグリンフィルドのお嬢さん」
 声はよく通り、若々しいとミザリーは思った。

 でも、かなりのお年のようだわ。お爺さまとほとんど変わらないような……。

 彼が彼がカディフォル草原の民の大長老、ハルイシュ・シャキームなのだった。


     *****


草原地方や民族イメージを上げました。
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