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40 忘れられた妻 3

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 気がつくと、ミザリーは庭を駆け抜けていた。
 薄暗かった温室から抜け出ると、初冬の光にあふれた庭が眩しく、ミザリーは地面を見たまま走った。
 部屋にたどり着くまでに何人かの召使いとすれ違ったが、誰もミザリーを止めなかったし、仮に止められても振り返りもしなかっただろう。
 今の自室は元の客間だが、彼女の趣味で装飾品などはほとんど取り払っている。机と書棚ばかりが目立つ実用一点ばりの部屋だ。とても貴族の夫人の部屋には見えなかった。
「あああ!」
 後ろ手に扉を閉めると、寝室に飛び込み、それだけは立派な寝台に崩れ落ちる。
「ああああああ!」
 涙こそ出なかったが、抑えていた声を止めることがきず、ミザリーは何年振りかで大声を上げた。厚い樫の扉でへだてられていなれば、さすがに誰かがとんで来たかもしれない。
「私は卑怯者だ! ずるい女だ!」
 ぴしりと敷き詰められたシーツを、両の拳で叩いてミザリーは叫んだ。

 良い人間、正くあろうとしていた。そうでありたかった。
 しかし、それはただの欺瞞ぎまんで自己防衛の言い訳だ。
 ユールが私を好きでいてくれることを、知っていながら彼を利用し、彼の優しさと能力を自分のためだけに使い、彼の心に正面から向き合おうとはしなかった。
 私はルナール様のことが好きなんじゃない!
 かつて、ルナール様との約束を果たすために、努力する自分でいたかっただけだ!

『俺はあなたに申し訳ないことをしてしまった。だが、クレーネに罪はないんだ』

 それは北の小さな農場で、ルナールが行った言葉だ。

 あの時、私の幼い恋の最後の火が消えたんだ……。
 だから、クレーネさんを伴って都に戻ることにも、躊躇ためらいがなかった。
 ルナール様の口づけは私のものではない。最初からそうだった。あの方は私を欲してはいなかったから。
 義務と信頼で抱かれた。わかっていても、嬉しかった。
 でも今は違う。
 だから、彼の唇に違和感を感じ、その感触に耐えきれなかったのだ。

 嫌いになったわけではない。
 関心がなくなったのだ。
 さまざまな経験を経て、ミザリーの心がルナールから離れてしまっただけなのだ。
 今のミザリーは領地の経営や、人々を豊かにする品々を考えることの方が楽しい。
 そして──。

 認めなさい、ミザリー。
 正直になるのよ。
 お前は──。
 私は。

「ユルディスが求めるものが自分で嬉しい」
 かすれた声で呟く。そして言葉にすることでようやく自覚できた。
「私の求める口づけは……」

 嵐の中で酒と共に味わった熱いもの。
 薬草の香りの中で感じたもの。
 それは甘くて苦く、飢えたように私を貪るもの。

 ミザリーは無意識に自分の唇を指でなぞっていた。
 下腹部に今まで感じたことのない疼痛とうつうが広がり、奥の方がぎゅっと締まる。
 女としての自分が悦んでいるのだ。体は心よりも正直だった。

 私はユルディスが好き。
 彼に求められ、触れてほしい。
 自分よりも高い体温で体を包んでほしい。
 私の中に彼を迎え入れたい。

「あ……く」
 ミザリーは苦しくて体を丸めた。まだ呑まれるわけにはいかないのだ。

 ユルディスはこの痛みをずっと我慢している。さっきだってそうだった。
 自分の欲で私を汚そうとはしなかった。
 だから私も正面から向き合うのよ。この痛みと。
 さぁ、ミザリー。
 前に進みなさい!

 寝台の上で体を起こす。
 敷布には大きな窓から午後の光が差し込み、白い海のようだった。
 いつかこんな清潔で暖かい敷布の上で、彼と一緒に朝を迎えることがあるだろうか?
 それは自分次第だと言うことを、ミザリーは知っている。
 欲しいものは待っているだけではだめなのだ。ミザリーはいつも自分で行動し、手に入れてきた。
 
「好きよ、ユルディス……でも、ごめんなさう。もう少し……もう少しだけ待ってちょうだい」
 ミザリーにはまだ、しなくてはならないことが残っている。

 この無意味で不幸な関係を終わらせなくては。
 私がはじめたのだから、私の手で。

「さようなら、ルナール様」
 こぼれた声は、意外にも弱くはなかった。


     *****


少し短くてすみません。
次章からまた次の階段を登ります。
物語はいよいよクライマックスへと向かいます。
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