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11 危なげな夜会 2

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「え?」
 振り返る間も無く、冷やされた布が首筋と背中に当てられる。
 それはひどく気持ちがよく、ミザリーはつい目を閉じて体の力を抜いた。汗がするすると引いていくのを感じる。
「ああ、気持ちがいい……」
「その顔は卑怯です」
「え? なぁに?」
 低い呟きが聞き取れなかったミザリーは、ぼんやりと尋ねた。
「どこに氷があったの?」
「知り合いの厨房の者に頼んで、少し分けてもらったのです」
「ユールは顔が広いのね」
 まだ水が凍る季節ではないから、氷室の氷は貴重品だ。なかなか手に入るものではない。
「生き返ったわ。ありがとう」
「お見事でした」
 それは唐突な言葉だった。
「え? なにが?」
「先ほどの舞踏です」
「ああ、ルナール様ね」
「いえ、ミザリー様です」
「まさか。ルナール様のリードがお上手だったから。私はつられて踊っていただけよ。舞踏は苦手なの」
「いいえ。ミザリー様はルナール様に体を預けているようで、一人で踊っているように見えました」
「……」
 ミザリーは何と答えていいかわからず、首を傾げた。
 久しぶりに体を動かして、楽しかったのは事実だ。しかし、普段無関心なルナールの瞳が、いつになく熱心に自分を見ていたことが嬉しかったのもいなめない。
 結婚して以来、二人であんな風に楽しめたのは初めてだった。
「なにを考えておられます?」
「え? とくになにも」
「……いつか、私とも踊ってくださいますか?」
「ふふふ……そんな機会があれば。でも本当に踊りはそんなに好きじゃないの。今日は仕方なくよ。気を張ったわ」
「そうですね。筋が固くなっています。ここからは少し温めましょう」
「温める?」
「はい。私の故郷ではこのようにして緊張をほぐします。本当は蒸し風呂がいいのですが」
 いつ用意したものか、今度は熱い布が頸椎けいついを包んだ。頸椎は人間の急所である。こんな場所をよく知らない男に預けてもいいのかと思いつつ、ミザリーはその気持ちよさに逆らうことができなかった。
 強い指が布ごしに筋を緩々ゆるゆると揉みほぐすにつれ、体の力が抜けていく。やはり無意識に緊張していたらしい。頬の赤みも薄れただろうか?
「上手ねぇ、心地いいわ……もう少しだけお願い」
 あまりの心地よさに、つい目を閉じてしまう。
「……男にそんな言葉を言ってはいけない」
 ふいにユルディスが指先の力を抜く。意識を飛ばしかけていたミザリーは、ぱっと目を開いた。
「え? 何私か悪いこと言ったかしら?」
「あなたは正直すぎる。優しすぎてすぐ身をゆだねてしまう……危険だ」
「え? 危険? どうして?」
「いいえなんでも。さ、髪も少し整えましょう。少し乱れています」
 ミザリーの返事を待たずに、ユルディスは髪飾りを抜いて緩んだ髪を整えていく。その手つきはジョアンナに負けないほど器用だった。
 男の息が首筋にかかる。
 部屋に鏡がないため、自分が今どうなっているのか、どうされているのかわからない。
 ただ、その指先が愛しむように、丁寧に髪をいているのを感じていた。それはまるで愛撫のように髪と地肌を撫で上げる。髪は男の手に従って、きつくも緩くもなく編み込まれていく。
「……できました」
 男の指が惜しむかのように髪から離れた。
 最初のように脇髪をきっちり結い上げず、ほんの一筋だけ耳の横にふわりと垂らされている。
「お綺麗だ」
 耳元の囁きに驚いたミザリーが思わず振り返ると、真正面に彼の顔があった。
「……っ!」
 勢いよく振り返ったため、唇が一瞬触れてしまったのだ。
 あっ、とミザリーは腰を引いた。
 普段は感情をあまり表に出さないように努めているが、今のミザリーは、非常に狼狽ろうばいしている。
 それは目の前の男にも伝わったのだろう。彼は一瞬目を細めると、そばの化粧箱を指した。
べに。塗りなおしましょうか?」
「い……いいえ、いいえ!」
 声が震えないようにするのがやっとだった。
 夫のルナールは口づけをしない。
 閨での彼は、自分のしたいようにする。経験のないミザリーにはそれが良いのか悪いのか、比べようがないが、乱暴ではないものの、自分の楽しみを優先しているように思っていた。
 女としてのミザリーの体や心をいつくしむ様子は、あまり感じられないのだ。
 だが、この男の自分への触れ方はどうだろう? 忠実な召使として、これは普通のことなのだろうか?
「ミザリー様? 紅は?」
 彼の態度はごく自然なものだった。
「え? ああ……」

 なんだ。馬鹿みたい。
 私だけ焦ってしまった。こんなこと、この人にとっては、なんでもないことなんだわ。故郷の風習だって言ってたし。
 それに、そもそも私からぶつけてしまったんだし、召使いとしてはこれで普通よ。

「い、いえ。このままで大丈夫よ。紅なんかあってもなくても、誰も私なんか見ないわ」
 ミザリーは冗談にしてしまおうと、努めて明るく振る舞ったが、ユルディスのほうは奇妙な表情である。
「……フロア中の男があなたを見ていた」
「え?」
「若い男たちは特には熱心に。そしてルナール様も。気がつきませんでしたか?」
 その声は、心なしか忌々いまいましそうに聞こえる。
「そんなわけないわ。あなたの気のせいよ」
「まさか。やせっぽちの女たちの中で、ミザリー様の姿は際立っていた。男なら誰でもそう思ったはずです」
「まぁ。お上手ね。そんなはずないわよ。田舎娘だと笑っているのなら、わかるけど」
「……」
 ユルディスは小さなため息をついた。そこにジョアンナが駆け込んでくる。
「ミザリー様!? 申し訳ありません。つい席を外しておりました!」
「ジョアンナ、いいのよ。久しぶりにお友だちに会ったのでしょう?」
「本当に申し訳ございません。もしかして、ご気分が悪くなられたのでは?」
「いいえ、ちっとも。舞踏で少しのぼせてしまったから休んでいたの。あなたも息抜きがしたかったのでしょう? すぐ戻ります。一緒に来てくれる?」
 ミザリーは立ち上がり、振り返らずに部屋を出た。舞踏の間はまだまだ賑わしい。夜会は今が最高潮なのだろう。
 控え室にはユルディスだけが残された。
 ミザリーの肌に触れた布を唇に押し当て、背中を丸める。
 男はそうやって、体の奥から突き上げるものを押し込めた。

 つい今まで、俺のものだったのに。

 上背こそないが、コルセットで胸や腰を締め上げた貴婦人達の中で、凹凸の豊かなミザリーが踊る様子は、男達の密かな関心の的だったのだ。
 よくしなる腰、丸みのある肩、柔らかい髪に飾られた白いうなじ、そして体勢によってほんの少し覗く乳房の曲線。
 自分のパートナーから目を逸らして見惚れてしまい、相手に叱られている青年もいたというのに、ミザリーだけが気がついていない。
 ルナールは、自分が手に入れたものの価値に、ようやく気がつきはじめている。
「なぜ……なぜだ! なぜ、もっと早く出会えなかった?」
 ユルディスはミザリーを見た男、触れた男を、全員八つ裂きにしてしまいたいと思った。
「俺の飢えは永久に満たされることはないのか……!」
 ふり上げた拳が壁にめり込むが、構うものではない。男の叫びはミザリーに届くことはないのだ。
「だが……このままではおかない。草原の鷹の名にかけて!」
 冷えた瞳が危険な光を放った。

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