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10 危なげな夜会 1
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ナイトン伯爵家は、王宮の催しや儀式を取り仕切る家柄だけあって、その屋敷は子爵家のものよりも立派で豪壮だった。
広いホールには、数えきれないほどの明かりが灯され、どこにも陰がない。
その中を幾組みもの貴族や、その子女がさざめいていた。
大きな入り口からホールに入り、エルトレー子爵夫妻、そしてルナールに腕を預けたミザリーが進む。人々の視線が集まるが、夫妻もルナールも慣れっこらしく、落ち着き払って知り人と挨拶を交わしている。
特にルナールは、その美貌と新婚ということもあって、若い令嬢達からの注目を浴びているようだ。人々は彼を見て、そしてミザリーに視線を流し顔を見合わせる。それは決して気分のよいものではない。
金色の空気の中で、ミザリーは自分だけが黒い烏のようではないかと思い始めていた。
舞踏の前の歓談でも、特にミザリーに話しかける者はいなかった。
仕方がないのでミザリーは、テーブルに盛られた料理や酒類を鑑賞したが、見栄えのわりに良い素材を使っていないことは一目でわかった。魚も肉も新鮮でないのを誤魔化すために、派手な色のソースがたっぷりかかっている。
思い切って酒の入ったグラスを手に取ったが、酸味が強く芳醇とはいいがたい。
この人達がグリンフィルドの極上の果実酒を飲んだらどう思うか、ミザリーの商魂がちらりと燃えた。客たちはこれが普通のように杯を重ねている。
ミザリーは気がついていた。
この屋敷も立派で、見えるところは華々しいが、廊下の奥は暗く、敷物には古い汚れがこびり付いていることを。
見栄を張って夜会を催しているが、伯爵家とて内情は決して楽ではないのかもしれなかった。おそらく都の貴族の多くがそうなのだろう。
談話室は、たくさんの楽しげなおしゃべりで満たされている。料理と香水の混じった匂いや、貴婦人の髪から溢れる髪粉で空気は澱んでいるが、誰一人気にするものはない。
ここではみんな仮面を被っている。
きっと本当の顔を見せない。見せてはならないのね。
召使い達は、飲み物を持って人々の間を歩き回ったり、壁際に控えたりしている。そこにはユルディスの姿もあった。
彼はミザリーと目が合うと、微かに頷いた。その仕草に勇気をもらって、ミザリーはルナールの側に立った。
ルナールは、若い友人や令嬢たちと気の利いた会話をこなし、時々ミザリーに話を振ってくれる。
「我が妻は馬術が得意なんだよ、なぁミザリー」
「はい。馬は好きです」
ルナールが答えやすい話題を選んでくれたことに感謝する。少しは気を遣ってくれているのだろう。
「それはすごい! 確か、グリンフィルドは良い馬の産地だと聞きますな。都にもいい馬場がありますよ。今度是非どうですか?」
そう尋ねたのは、士官の制服を着た青年だ。ルナールの友人の一人だろう。
「ありがとうございます」
「申し遅れました。僕はダーラム・フォンテヌーといいます」
「ミザリーですわ」
「ダーラムは、俺の隊の中で一番馬術が優れているんだよ」
「おだてるなよ。今夜の主催のナイトン伯も馬が好きだから、お前のおまけでこんな宴に呼んでもらっただけさ。それにしてもたんぽぽのように可愛い奥方で羨ましいよ」
「まぁ、ダーラム様。たんぽぽにたとえられて喜ぶ女がいるかしら? まぁでも、確かにそんな感じの方ですわね」
令嬢の一人が小さな棘を放った。しかし、ミザリーはそのたとえは好ましいと思う。たんぽぽは可愛く強い草花だ。
「さぁ。準備が整ったようだぞ。さぁ、我が妻よ。行こうか」
「はい」
歓談の後は、お決まりの舞踏である。ミザリーはショールをジョアンナに預けた。
最初の曲はゆっくりした円舞曲から始まった。ミザリーは舞踏が好きではなかったが、運動神経はいい方なので、難なくルナールのリードについていける。
「上手いではないか。次の曲はどんどん早くなるぞ。大丈夫か?」
ルナールは感心したように言った。
「大丈夫です」
舞踏を盛り上げるように音楽は陽気に早くなり、年配の人々はどんどん踊りの輪から外れていく。フロアには舞踏が得意な若い男女だけが残された。
「やるな、ミザリー」
「はい」
ルナールはさすがに武官だけあって、体幹が強い。
しかしミザリーもだてに領地の管理で走り回っていたわけではない。大きく体を回されても足取りは乱れなかった。
女にしては引き締まった手足や腰は、優美さに欠けるがしなやかで、ぐいと覆いかぶされても脚力で耐えられる。ショールを外した胸元からは、豊かな丸みがのぞいていた。
「そら!」
調子に乗ったルナールがミザリーを回転させ、宙に舞う勢いでミザリーは舞う。ドレスの裾が持ち上がった刹那、形の良い足が覗いた。
「思いがけず楽しかったぞ」
数曲続けて踊ったルナールは、子爵家の席にミザリーを送りながら言った。少し息が上がっている。
「私もです。ルナール様」
「ルナール様、次は私を誘ってくださいな!」
「私も!」
「おお! もちろんお嬢様方、私でよければ」
待ち構えていた令嬢たちに、ルナールは座る暇もない。彼は積極的な令嬢の手を取って再びフロアに出て行った。
「田舎育ちは激しい動きが得意なのねぇ。頬が真っ赤よ、みっともないわ」
「はい、お義母様。久しぶりに少し汗をかきました。身なりを整えてまいります」
せっかく楽しめたミザリーは、セリアナの嫌味を聞く気にはなれず、ジョアンナがいるはずの控室に向かった。途中誰かから声がかかったようだが、行儀良く会釈して躱した。この澱んだ空気の部屋から一刻も早く出たかったのだ。
舞踏室を出たところに立っていたのは、ユルディスである。
「まぁ! そんなところにいたの? 中にいると思ったわ」
「はい。ミザリー様が出られたので、すぐに向こうの扉から退出しました」
「ああ……」
使用人たちは廊下にもいる。しかし、用を待つというよりは他家の召使と喋ったり、息抜きをするのが目的のようだった。
「ジョアンナは?」
「生憎、古なじみの友人を見つけたらしく、そちらの控え室に行ってしまいました。すぐに戻ると言っていたのですが」
ユルディスはすぐにミザリーの様子に気がついた。
「暑いのでしょう? 少し涼まれた方がいいですね」
「そうね」
ミザリーはエルトレー家の控え室に滑り込む。そこは廊下の端にあった。
「こちらを」
腰を下ろすと、すぐに冷たい飲み物が小卓に用意され、喉が渇いていたミザリーは一気に飲み干した。
「ありがとう。久しぶりに踊って熱くなってしまったの。少しだけ休むわ」
「布を濡らしてまいりましょう」
「お願い。頬の赤みを取らないと」
この部屋に鏡はないが、頬はますます紅潮しているようだ。ミザリーはハンカチで胸元の汗をぬぐった。蒸れたコルセットが苦しかった。
長く席を外すわけにはいかない。社交界の寵児ルナールと結婚したミザリーは、良くも悪くも皆に注目されているのだ。しかし、義母にみっともないと言われた頬の赤みがそんなにすぐに取れるだろうか?
あいにく扇を持っていない。義母に借りればよかったのだろうが、今更ホールに戻ることもできず、ミザリーは少しでも体を冷やそうと、手で顔をあおいだ。
「お手伝いいたしましょう」
気がつくと、ユルディスが傍に立っていた。
広いホールには、数えきれないほどの明かりが灯され、どこにも陰がない。
その中を幾組みもの貴族や、その子女がさざめいていた。
大きな入り口からホールに入り、エルトレー子爵夫妻、そしてルナールに腕を預けたミザリーが進む。人々の視線が集まるが、夫妻もルナールも慣れっこらしく、落ち着き払って知り人と挨拶を交わしている。
特にルナールは、その美貌と新婚ということもあって、若い令嬢達からの注目を浴びているようだ。人々は彼を見て、そしてミザリーに視線を流し顔を見合わせる。それは決して気分のよいものではない。
金色の空気の中で、ミザリーは自分だけが黒い烏のようではないかと思い始めていた。
舞踏の前の歓談でも、特にミザリーに話しかける者はいなかった。
仕方がないのでミザリーは、テーブルに盛られた料理や酒類を鑑賞したが、見栄えのわりに良い素材を使っていないことは一目でわかった。魚も肉も新鮮でないのを誤魔化すために、派手な色のソースがたっぷりかかっている。
思い切って酒の入ったグラスを手に取ったが、酸味が強く芳醇とはいいがたい。
この人達がグリンフィルドの極上の果実酒を飲んだらどう思うか、ミザリーの商魂がちらりと燃えた。客たちはこれが普通のように杯を重ねている。
ミザリーは気がついていた。
この屋敷も立派で、見えるところは華々しいが、廊下の奥は暗く、敷物には古い汚れがこびり付いていることを。
見栄を張って夜会を催しているが、伯爵家とて内情は決して楽ではないのかもしれなかった。おそらく都の貴族の多くがそうなのだろう。
談話室は、たくさんの楽しげなおしゃべりで満たされている。料理と香水の混じった匂いや、貴婦人の髪から溢れる髪粉で空気は澱んでいるが、誰一人気にするものはない。
ここではみんな仮面を被っている。
きっと本当の顔を見せない。見せてはならないのね。
召使い達は、飲み物を持って人々の間を歩き回ったり、壁際に控えたりしている。そこにはユルディスの姿もあった。
彼はミザリーと目が合うと、微かに頷いた。その仕草に勇気をもらって、ミザリーはルナールの側に立った。
ルナールは、若い友人や令嬢たちと気の利いた会話をこなし、時々ミザリーに話を振ってくれる。
「我が妻は馬術が得意なんだよ、なぁミザリー」
「はい。馬は好きです」
ルナールが答えやすい話題を選んでくれたことに感謝する。少しは気を遣ってくれているのだろう。
「それはすごい! 確か、グリンフィルドは良い馬の産地だと聞きますな。都にもいい馬場がありますよ。今度是非どうですか?」
そう尋ねたのは、士官の制服を着た青年だ。ルナールの友人の一人だろう。
「ありがとうございます」
「申し遅れました。僕はダーラム・フォンテヌーといいます」
「ミザリーですわ」
「ダーラムは、俺の隊の中で一番馬術が優れているんだよ」
「おだてるなよ。今夜の主催のナイトン伯も馬が好きだから、お前のおまけでこんな宴に呼んでもらっただけさ。それにしてもたんぽぽのように可愛い奥方で羨ましいよ」
「まぁ、ダーラム様。たんぽぽにたとえられて喜ぶ女がいるかしら? まぁでも、確かにそんな感じの方ですわね」
令嬢の一人が小さな棘を放った。しかし、ミザリーはそのたとえは好ましいと思う。たんぽぽは可愛く強い草花だ。
「さぁ。準備が整ったようだぞ。さぁ、我が妻よ。行こうか」
「はい」
歓談の後は、お決まりの舞踏である。ミザリーはショールをジョアンナに預けた。
最初の曲はゆっくりした円舞曲から始まった。ミザリーは舞踏が好きではなかったが、運動神経はいい方なので、難なくルナールのリードについていける。
「上手いではないか。次の曲はどんどん早くなるぞ。大丈夫か?」
ルナールは感心したように言った。
「大丈夫です」
舞踏を盛り上げるように音楽は陽気に早くなり、年配の人々はどんどん踊りの輪から外れていく。フロアには舞踏が得意な若い男女だけが残された。
「やるな、ミザリー」
「はい」
ルナールはさすがに武官だけあって、体幹が強い。
しかしミザリーもだてに領地の管理で走り回っていたわけではない。大きく体を回されても足取りは乱れなかった。
女にしては引き締まった手足や腰は、優美さに欠けるがしなやかで、ぐいと覆いかぶされても脚力で耐えられる。ショールを外した胸元からは、豊かな丸みがのぞいていた。
「そら!」
調子に乗ったルナールがミザリーを回転させ、宙に舞う勢いでミザリーは舞う。ドレスの裾が持ち上がった刹那、形の良い足が覗いた。
「思いがけず楽しかったぞ」
数曲続けて踊ったルナールは、子爵家の席にミザリーを送りながら言った。少し息が上がっている。
「私もです。ルナール様」
「ルナール様、次は私を誘ってくださいな!」
「私も!」
「おお! もちろんお嬢様方、私でよければ」
待ち構えていた令嬢たちに、ルナールは座る暇もない。彼は積極的な令嬢の手を取って再びフロアに出て行った。
「田舎育ちは激しい動きが得意なのねぇ。頬が真っ赤よ、みっともないわ」
「はい、お義母様。久しぶりに少し汗をかきました。身なりを整えてまいります」
せっかく楽しめたミザリーは、セリアナの嫌味を聞く気にはなれず、ジョアンナがいるはずの控室に向かった。途中誰かから声がかかったようだが、行儀良く会釈して躱した。この澱んだ空気の部屋から一刻も早く出たかったのだ。
舞踏室を出たところに立っていたのは、ユルディスである。
「まぁ! そんなところにいたの? 中にいると思ったわ」
「はい。ミザリー様が出られたので、すぐに向こうの扉から退出しました」
「ああ……」
使用人たちは廊下にもいる。しかし、用を待つというよりは他家の召使と喋ったり、息抜きをするのが目的のようだった。
「ジョアンナは?」
「生憎、古なじみの友人を見つけたらしく、そちらの控え室に行ってしまいました。すぐに戻ると言っていたのですが」
ユルディスはすぐにミザリーの様子に気がついた。
「暑いのでしょう? 少し涼まれた方がいいですね」
「そうね」
ミザリーはエルトレー家の控え室に滑り込む。そこは廊下の端にあった。
「こちらを」
腰を下ろすと、すぐに冷たい飲み物が小卓に用意され、喉が渇いていたミザリーは一気に飲み干した。
「ありがとう。久しぶりに踊って熱くなってしまったの。少しだけ休むわ」
「布を濡らしてまいりましょう」
「お願い。頬の赤みを取らないと」
この部屋に鏡はないが、頬はますます紅潮しているようだ。ミザリーはハンカチで胸元の汗をぬぐった。蒸れたコルセットが苦しかった。
長く席を外すわけにはいかない。社交界の寵児ルナールと結婚したミザリーは、良くも悪くも皆に注目されているのだ。しかし、義母にみっともないと言われた頬の赤みがそんなにすぐに取れるだろうか?
あいにく扇を持っていない。義母に借りればよかったのだろうが、今更ホールに戻ることもできず、ミザリーは少しでも体を冷やそうと、手で顔をあおいだ。
「お手伝いいたしましょう」
気がつくと、ユルディスが傍に立っていた。
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