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8 子爵家の内情 2
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それからの一ヶ月、ミザリーは朝から晩まで屋敷内の物の流れ、使用人や出入りの業者にかかる費用を細かく調べ続けた。
そこでわかったのは、この家の金銭の流れを最、初から最後まで把握している人間が、屋敷内に一人もいないということだ。
厨房や庭園、馬が一頭しかいない厩、敷布や衣類などの布製品、それぞれの場所で必要な品の発注と支払をする人間はいるのだが、全体の金銭の流れは、執事のピエールでさえも正確には知らないと言う。
これは先代から続き、経理に明るい人間がこの家にいなかったと言う証だろう。本家でこれでは、領地の収益を要領のいい代理人に掠め取られたのも無理はない。
ミザリーの持参金で、当面の借金は返済できたようだが、このままでは遠からず、この屋敷を手放さなくてはならないだろう。
ミザリーは、古ぼけた背もたれの椅子に倒れ込んだ。
でも、そうならないために私が呼ばれたんだ。
──妻という役割で。
夫のルナールは、しばらく休暇をとって、ミザリーが尋ねたことに正直に答えてくれた。
彼も、金銭的なことには無関心だったが、この家の財政が傾いていることは承知していて、自分の乗る馬以外は馬車でさえ売ったと言った。それからは必要な時だけ銀行から借りているという。
しかし、子爵や夫人は、彼以上にそう言う方面には疎く、渋々いくつかの宝石や先祖伝来の絵画骨董を手放し、急場を凌ぐだけだったらしい。
「全て俺たちの責任だ。金は湯水のように湧くものではない」
ミザリーは、少なくともルナールが華やかな見かけのわりに、贅沢三昧をしていないことにほっとした。
しかし彼とて貴族だから、公務や社交で恥をかくわけにはいかない。人前で体裁は整えないといけないのだ。
「そこで君の出番だ。好きにやっていい。世間知らずの母には俺から強く言い含めておく」
三度目にミザリーを抱いた後、彼はそう言って部屋を出て行った。
婚姻による休暇が終わり、今日から王宮に出仕するのだ。今後は数日置きにしか家に帰らないという。
「はぁ~」
ミザリーは執務室の天井を見上げた。四方の隅に蜘蛛の巣がはっている。
まずは、不必要な消耗品の出費をできるだけ抑えて……そして、申し訳ないけどやっぱり維持管理に必要最低限の使用人を残して、暇を出すしかないわ。
でも、怒られるだろうなぁ……。
「失礼いたします。ミザリー様」
ユルディスが入ってきた。
「お言いつけの名簿を作ってまいりました」
「ありがとう。早速見せてくれる?」
ミザリーは力強い筆跡で認められた二枚の書類を受け取ろうとしたが、彼は渡そうとせず脇のテーブルの上に、軽食を並べ始める。
「ユルディス?」
「これは後で。朝からずっと仕事をされています。少しご休憩を」
「え? ああ……そうだったっけ」
そういえばケイトが昼食を知らせにきた時も、断ったのだった。
子爵家では、夕食以外は自分の好きな時間に部屋に持ってこさせることができる。ミザリーは朝食は部屋で、昼食はこの執務室で食べるのが常だった。
「どうぞ」
そこには食べやすいように小さく切ったパンに、肉の燻製、茹でた野菜を挟んだものが置いてあった。温かいスープもある。
「後でいただきます」
「いいえ、召し上がってからでないと、この名簿はお見せできません」
ユルディスは一番遠いテーブルに書面を置くと、机を片付けて料理を並べてい。
「……わかったわ。いただきます。おじいさまも、空っぽの胃袋から知恵は出てこないとよく言ってたっけ」
仕方なくミザリーは、野菜や薄肉を挟んだ小さなパンを手に取った。
「美味しいわ」
「私が作りました」
「なんでもできるのね」
「教えを乞うことは嫌ではありません。どんなものが自分に向いているか、わかるからです。自分を客観視することがうまくやる秘訣です」
「その通りね。あ、お茶も美味しいわ」
「はい。もう、ジョアンナに負けないくらい上手に淹れられます。さぁ、スープもどうぞ。これも私が作ったものです」
そう言ってユルディスは、ミザリーの前に湯気のたつスープを置いた。
彼の差し出した名簿とは、暇を出す召使いの名を記したものだ。
この一ヶ月で、ユルディスが優れた観察眼を持っていることを知ったミザリーは、自分の仕事を手伝うように頼んだ。
それは、屋敷の各部に不必要な人数や、働き方の良くない召使いを選定することだった。自分だけでは屋敷内の全てに目を配ることができないと思ったからだ。
その点ユルディスはこの屋敷では新参者で、色素の濃い彼を馬鹿にして、本性を見せる召使いも多い。
彼の仕事は早かった。
名簿には長く勤めていても仕事に誇りを持たず、怠けたり品物をくすねたりしていた召使いの名前が載っていた。それは、ミザリーの見立てとほぼ同じだが、もっと厳しいものだったのである。
「……二十名はいるわね」
「二十二名です」
「でも、これだけの人数をすぐ、辞めさせるわけにはいかないわ。いくらなんでもいないよりはマシだし」
「いない方がマシな人です。いたほうがマシな人は除いてあります。でも、そうですね。先ず一月以内に、特に怠惰で狡猾な半分をやめさせましょう。それを見た残りがどう出るかで、二月後の人選が決まります」
「なるほど……あなたってすごいのね」
「何度か死線をくぐり抜けてきましたから」
「……そういえば、ランサール将軍の推薦があるってことは、あなたは相当信頼されていたのね
ミザリーは召使いのお仕着せの上からでもわかる、彼の鍛え上げられた体つきを見て言った。何げない動きにも無駄がない。
「正規兵ではないと言ってたわね?」
「ええ。国を出て、大陸を放浪していたところ、ランサール閣下に拾っていただき、世話係として仕えました」
「世話係? なんでそんな経緯に?」
「私は故郷を離れ、世界を知るためにこの国を放浪していたのです。たまたま滞在していた北の街で、偶然ランサール将軍閣下をお助けしたことがあり、その縁でお供することに。この国の正規の学校を出ておりませんので、ただの軍属としてですが」
「ランサール将軍はこの国の英雄だわ。その方に見込まれたのだから、相当なものなのね」
「便利な使いっ走りと思われたのでしょう」
「……謙遜がすぎるわね。私には剣術や体術はわからないけど、あなたが優れた戦士だってことはわかるわ。ランサール将軍を助けたっていうのも、きっとお命を助けたのでしょう?」
ユルディスは一瞬だけ驚いたようだが、すぐに元の静かな顔に変わった。
「なんとなくそう思ったの。違う?」
「まぁ、そうも言えるかもしれません。旅の途中で偶然戦闘に遭遇して」
「そんな偶然って、あるのかしら?」
ミザリーはこれでもか、というようにユルディスを見つめた。彼は少し笑って顔を逸らす。
「たまたま崖の上から戦闘が見えたのです」
「どんなだったの?」
「将軍は味方の数が少なく劣勢だったのに、勇敢に戦っていました。若い兵士の盾になって」
「しかし、ノスフリントの伏兵がランサール閣下の背後に迫ったのを見て、私は思わず崖を滑り降りたのです」
「そして将軍をお助けしたのね」
「そんな大層なものではありませんが、結果的にはそうなりました。その後戦争が終わってから、私がこの国のことを学びたいというと、こちらを紹介してくださったのです」
「そうだったの……」
ミザリーはユルディスが言わなかった言葉の中に、彼の働きぶりを感じた。
学校を出ていないと言っていたが、この名簿の筆跡は紛れもなく、教養を持った人間のものだ。この一か月の仕事ぶりを見ていても、まだまだ計り知れない能力を感じる。
「ミザリー様」
ユルディスは、ミザリーを見つめた。
「なぁに?」
「その者たちに暇を申し渡すのは、私にお任せください」
「でもそんな……」
「大丈夫です。恨まれるのには割と慣れております。なぜ自分が辞めさせられるのか、全て伝えます。少しでも利口なものなら、そこが落としどころだと思うでしょう」
「……」
それは脅しだった。
もしかしたら彼は不正の証拠を握っていて、次の仕事への紹介状を書かないか、あるいはもっと厳しい罰を与えるつもりだと、ミザリーは思った。
「お任せを。ミザリー様はその後のことを考えてください。私のことはいかようにも使ってくださって結構です。私をどうかあなたのお役に」
ユルディスはミザリーの前で片膝をつき、右腕を胸に当てる風変わりな姿勢をとった。草原地方の習わしだろうか?
「そんなことをしなくてもいいのよ」
ミザリーは男の手を取って立ち上がらせようとしたが、逆にしっかりと握り込まれてしまう。
「いいえ。これは私の自分への誓いでもあります。私は」
男はミザリーを見上げる。その薄い瞳が強い熱を持った。
「ミザリー様のために働く。あなたの片腕として」
*****
Twitterにミザリーの執務室のイメージ。
そこでわかったのは、この家の金銭の流れを最、初から最後まで把握している人間が、屋敷内に一人もいないということだ。
厨房や庭園、馬が一頭しかいない厩、敷布や衣類などの布製品、それぞれの場所で必要な品の発注と支払をする人間はいるのだが、全体の金銭の流れは、執事のピエールでさえも正確には知らないと言う。
これは先代から続き、経理に明るい人間がこの家にいなかったと言う証だろう。本家でこれでは、領地の収益を要領のいい代理人に掠め取られたのも無理はない。
ミザリーの持参金で、当面の借金は返済できたようだが、このままでは遠からず、この屋敷を手放さなくてはならないだろう。
ミザリーは、古ぼけた背もたれの椅子に倒れ込んだ。
でも、そうならないために私が呼ばれたんだ。
──妻という役割で。
夫のルナールは、しばらく休暇をとって、ミザリーが尋ねたことに正直に答えてくれた。
彼も、金銭的なことには無関心だったが、この家の財政が傾いていることは承知していて、自分の乗る馬以外は馬車でさえ売ったと言った。それからは必要な時だけ銀行から借りているという。
しかし、子爵や夫人は、彼以上にそう言う方面には疎く、渋々いくつかの宝石や先祖伝来の絵画骨董を手放し、急場を凌ぐだけだったらしい。
「全て俺たちの責任だ。金は湯水のように湧くものではない」
ミザリーは、少なくともルナールが華やかな見かけのわりに、贅沢三昧をしていないことにほっとした。
しかし彼とて貴族だから、公務や社交で恥をかくわけにはいかない。人前で体裁は整えないといけないのだ。
「そこで君の出番だ。好きにやっていい。世間知らずの母には俺から強く言い含めておく」
三度目にミザリーを抱いた後、彼はそう言って部屋を出て行った。
婚姻による休暇が終わり、今日から王宮に出仕するのだ。今後は数日置きにしか家に帰らないという。
「はぁ~」
ミザリーは執務室の天井を見上げた。四方の隅に蜘蛛の巣がはっている。
まずは、不必要な消耗品の出費をできるだけ抑えて……そして、申し訳ないけどやっぱり維持管理に必要最低限の使用人を残して、暇を出すしかないわ。
でも、怒られるだろうなぁ……。
「失礼いたします。ミザリー様」
ユルディスが入ってきた。
「お言いつけの名簿を作ってまいりました」
「ありがとう。早速見せてくれる?」
ミザリーは力強い筆跡で認められた二枚の書類を受け取ろうとしたが、彼は渡そうとせず脇のテーブルの上に、軽食を並べ始める。
「ユルディス?」
「これは後で。朝からずっと仕事をされています。少しご休憩を」
「え? ああ……そうだったっけ」
そういえばケイトが昼食を知らせにきた時も、断ったのだった。
子爵家では、夕食以外は自分の好きな時間に部屋に持ってこさせることができる。ミザリーは朝食は部屋で、昼食はこの執務室で食べるのが常だった。
「どうぞ」
そこには食べやすいように小さく切ったパンに、肉の燻製、茹でた野菜を挟んだものが置いてあった。温かいスープもある。
「後でいただきます」
「いいえ、召し上がってからでないと、この名簿はお見せできません」
ユルディスは一番遠いテーブルに書面を置くと、机を片付けて料理を並べてい。
「……わかったわ。いただきます。おじいさまも、空っぽの胃袋から知恵は出てこないとよく言ってたっけ」
仕方なくミザリーは、野菜や薄肉を挟んだ小さなパンを手に取った。
「美味しいわ」
「私が作りました」
「なんでもできるのね」
「教えを乞うことは嫌ではありません。どんなものが自分に向いているか、わかるからです。自分を客観視することがうまくやる秘訣です」
「その通りね。あ、お茶も美味しいわ」
「はい。もう、ジョアンナに負けないくらい上手に淹れられます。さぁ、スープもどうぞ。これも私が作ったものです」
そう言ってユルディスは、ミザリーの前に湯気のたつスープを置いた。
彼の差し出した名簿とは、暇を出す召使いの名を記したものだ。
この一ヶ月で、ユルディスが優れた観察眼を持っていることを知ったミザリーは、自分の仕事を手伝うように頼んだ。
それは、屋敷の各部に不必要な人数や、働き方の良くない召使いを選定することだった。自分だけでは屋敷内の全てに目を配ることができないと思ったからだ。
その点ユルディスはこの屋敷では新参者で、色素の濃い彼を馬鹿にして、本性を見せる召使いも多い。
彼の仕事は早かった。
名簿には長く勤めていても仕事に誇りを持たず、怠けたり品物をくすねたりしていた召使いの名前が載っていた。それは、ミザリーの見立てとほぼ同じだが、もっと厳しいものだったのである。
「……二十名はいるわね」
「二十二名です」
「でも、これだけの人数をすぐ、辞めさせるわけにはいかないわ。いくらなんでもいないよりはマシだし」
「いない方がマシな人です。いたほうがマシな人は除いてあります。でも、そうですね。先ず一月以内に、特に怠惰で狡猾な半分をやめさせましょう。それを見た残りがどう出るかで、二月後の人選が決まります」
「なるほど……あなたってすごいのね」
「何度か死線をくぐり抜けてきましたから」
「……そういえば、ランサール将軍の推薦があるってことは、あなたは相当信頼されていたのね
ミザリーは召使いのお仕着せの上からでもわかる、彼の鍛え上げられた体つきを見て言った。何げない動きにも無駄がない。
「正規兵ではないと言ってたわね?」
「ええ。国を出て、大陸を放浪していたところ、ランサール閣下に拾っていただき、世話係として仕えました」
「世話係? なんでそんな経緯に?」
「私は故郷を離れ、世界を知るためにこの国を放浪していたのです。たまたま滞在していた北の街で、偶然ランサール将軍閣下をお助けしたことがあり、その縁でお供することに。この国の正規の学校を出ておりませんので、ただの軍属としてですが」
「ランサール将軍はこの国の英雄だわ。その方に見込まれたのだから、相当なものなのね」
「便利な使いっ走りと思われたのでしょう」
「……謙遜がすぎるわね。私には剣術や体術はわからないけど、あなたが優れた戦士だってことはわかるわ。ランサール将軍を助けたっていうのも、きっとお命を助けたのでしょう?」
ユルディスは一瞬だけ驚いたようだが、すぐに元の静かな顔に変わった。
「なんとなくそう思ったの。違う?」
「まぁ、そうも言えるかもしれません。旅の途中で偶然戦闘に遭遇して」
「そんな偶然って、あるのかしら?」
ミザリーはこれでもか、というようにユルディスを見つめた。彼は少し笑って顔を逸らす。
「たまたま崖の上から戦闘が見えたのです」
「どんなだったの?」
「将軍は味方の数が少なく劣勢だったのに、勇敢に戦っていました。若い兵士の盾になって」
「しかし、ノスフリントの伏兵がランサール閣下の背後に迫ったのを見て、私は思わず崖を滑り降りたのです」
「そして将軍をお助けしたのね」
「そんな大層なものではありませんが、結果的にはそうなりました。その後戦争が終わってから、私がこの国のことを学びたいというと、こちらを紹介してくださったのです」
「そうだったの……」
ミザリーはユルディスが言わなかった言葉の中に、彼の働きぶりを感じた。
学校を出ていないと言っていたが、この名簿の筆跡は紛れもなく、教養を持った人間のものだ。この一か月の仕事ぶりを見ていても、まだまだ計り知れない能力を感じる。
「ミザリー様」
ユルディスは、ミザリーを見つめた。
「なぁに?」
「その者たちに暇を申し渡すのは、私にお任せください」
「でもそんな……」
「大丈夫です。恨まれるのには割と慣れております。なぜ自分が辞めさせられるのか、全て伝えます。少しでも利口なものなら、そこが落としどころだと思うでしょう」
「……」
それは脅しだった。
もしかしたら彼は不正の証拠を握っていて、次の仕事への紹介状を書かないか、あるいはもっと厳しい罰を与えるつもりだと、ミザリーは思った。
「お任せを。ミザリー様はその後のことを考えてください。私のことはいかようにも使ってくださって結構です。私をどうかあなたのお役に」
ユルディスはミザリーの前で片膝をつき、右腕を胸に当てる風変わりな姿勢をとった。草原地方の習わしだろうか?
「そんなことをしなくてもいいのよ」
ミザリーは男の手を取って立ち上がらせようとしたが、逆にしっかりと握り込まれてしまう。
「いいえ。これは私の自分への誓いでもあります。私は」
男はミザリーを見上げる。その薄い瞳が強い熱を持った。
「ミザリー様のために働く。あなたの片腕として」
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