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出会えたこと 後編
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ハサミで切ろうとしたが、細い糸なのに固くて一本切るだけでも大変だった。
もたもたしてる間にも風の勢いは増すばかりだ。チョコレートの箱も庭の雑草も次々と穴へ吸い込まれていった。
「火はないか?!焼き切った方が早いっ。」
火が着くようなものは持ってきてない。でも仏壇にはライターが置いてたはずだ。
家の中へと走っていって仏壇の引き出しをひっくり返してなんとかライターを探し出し、転びそうになりながらも急いで庭に引き返してみて呆然とした。
蜘蛛の巣の中は既に空間が歪むほどの膨大な風が吹き荒れ、全てのものを引き裂いて飲み込もうとしていた。
真人がこちらに向かってなにか叫んでいたが、声さえもこちらには届かないっ……
きっと来るなと言っているんだろうけれど、徐々に穴へと引き寄せられていく真人を見殺しになんか出来るわけがないっ……!
迷わず巣の中へと飛び込み、四つん這いになって一歩一歩踏ん張りながらようやく真人のところまで辿り着いた。
「来るなと言っただろ!!」
「そうなの?!早くしろって聞こえた!」
ライターの火を着けようにもこんなに風が強いとなかなか着かない。
風を遮ろうと体勢を変えた瞬間、体があおられ宙に浮いた。
しまった……吸い込まれる─────!!
抵抗する間もなく吹っ飛ばされて行った穴の直前で、誰かに腕を掴まれた。
目も開けられない砂嵐のような中で力強く私の体を抱き寄せると、そのまま巣の外へと連れ出してくれた。
「……ったく、出来もしないのに無茶しやがって。」
それは真人だった。
って、あれ?なんで真人?
ついさっきまで糸に絡まって身動きが取れずにいたのに……
それになんだかいつもと違う。髪や肌の色素が薄いというか全体的に透けてるというか……
全く状況が飲み込めず思考回路がショートしている私を見て、真人は呆れたようにため息をついた。
「幽体離脱したんだよ。そうしないと助けようがなかったからな。」
「へっ……?!」
幽体離脱っ……体から魂が分離しちゃうアレですか?!
すごいっ……真人ってそんなことも出来るの!!
「最初っからそれをすれば良かったのに!」
こんな奥の手を隠してただなんて、思わず文句を言ってしまった。
「簡単に言うなド素人が!この術はリスクがデカいんだ。霊体のままだと生命線が消えて元の体に戻ることが不可能になる。」
そう言うと頭から伸びる線を指さした。どうやらこれが生命線というものらしい。
指ほどの太さの白っぽい線が30センチほど、頭のてっぺんからゆらゆらと生えていた。
「これっていつ消えちゃうの?」
「数秒後かも知れないし、一週間後かも知れない。消えたら強制的にあの世行きだ。」
数秒後の方だとしたら一刻も早く体に戻らないといけない。
庭を見ると蜘蛛の巣は消え、雑草は根元から全て抜き取られて狭間の穴があった場所には巨大な落とし穴が残されていた。
もしかして真人の体も……吸い込まれたあ?!
「どうしよう、真人の体が無いよ!」
慌てて振り向くとさっきまでいた霊体の真人もいなくなっていた。
もうあの世に強制送還されてしまったのだろうか。
ウソでしょ………
庭を走り回って真人の名前を何度も呼んだが返事はない。大粒の涙がとめどなく溢れてきた。
泣いてる場合じゃないのは分かっているけれど、真人が死んだかも知れないと考えるだけで胸が苦しくなって涙が止まらなかった。
そうだ珀……珀ならなんとかしてくれるかも……!
裸足のまま森へと駆け出そうとしたら後ろから呼び止められた。
真人だと思い振り向いたのだけれども、そこには誰もいなかった。気のせいだったのだろうか……
「下だ下。下を見ろ。」
視線を下げると地面には死んだはずのニャ太郎がちょこんと座っていた。
「……ニャ太郎が、喋った……?」
私の言葉にニャ太郎は違うという風に首を左右に振った。そして嫌そうにチッと舌打ちをした。
「俺だ。こいつの体、ちょっと借りるぞ。」
────────────っ!!!
まま、ま、真人─────────!!
「なんで真人がニャ太郎の中に入ってるの?!」
「仕方ないだろ、緊急避難だ。霊体のままだと生命線が消えるって言っただろ。」
猫になった真人は大きく伸びをしたり尻尾をフリフリさせたり前足で顔を擦ったりしていた。
体と魂のズレを調節しているらしいのだが、その仕草があまりにも可愛いすぎて悶絶しそうになった。
「とりあえずは大丈夫そうだな。」
真人は肉球を見ながら安心したように呟いた。
語尾にニャって付けて喋ってくれないかな……
私達は森の中を通って珀の元へと急いだ。
「若が猫に変化とはこりゃ大傑作でござる!」
「あれまあ、こんなに可愛くなっちまってえ。」
「いつもの色男が台無しですなあっ。うひゃひゃひゃひゃ」
珀のところで酒を飲んでいた落ち武者達が大盛り上がりで真人のことをいじり倒してきた。
珀が窘めなかったら小一時間は続いていただろう。
「くっそこいつら……元に戻ったら全員滅してやる!」
真人は血管が切れるんじゃないかってくらいブチ切れていた。怖い怖い……
珀は真人が猫になったことに別段慌てる様子はなく、巨大な蜘蛛の妖魔の話をしても落ち着き払っていた。
「そうかい、そのまま二人共吸い込まれていたらどこに行ったかも分からないところだったねえ。良い判断さ、さすが真人だ。」
「さすがではないだろ。俺が糸に捕まりさえしなければこんな事態にはならなかったんだから。」
真人の尻尾がくねくねと動いている。これは猫がご機嫌な時にする仕草だ。
本当は珀から褒められて嬉しかったようだ。
「それで、狭間には有象無象の妖魔がいるわけだけど、真人は体が吸い込まれる時になにか対策はしたのかい?」
「それなら糸魚川翡翠を身に付けていたから大丈夫だ。」
「華夜の勾玉か。なら安心だね。」
真人のお母さんの肩身のペンダントのことだ。あれを身に付けている者には悪意のある霊は触れられないと言っていた。
返しといて正解だった。
真人は申し訳なさそうに珀を見上げた。
「俺の体……珀に頼んでもいいか?」
珀はにっこり笑うと真人のノドに指を当てて毛並みにそって優しく撫でてあげた。まるで飼い主が猫にするかのように……
一瞬ゴロゴロとノドを鳴らしかけた真人がハッと我に返った。
「珀……おまえも面白がってんだろ?」
珀はいつもの笑い方でククッと楽しそうに肩を揺らした。
多分この状況って大変な事態だと思うのだけれど、みんなのやり取りが可笑しすぎて私もつい笑ってしまった。
真人がますます不機嫌になっていく……
「さて、戯言はこのくらいにして早速出発しようか。皆にも手伝ってもらうよ。」
珀は煙管を深く吸い込み、煙をフーっと三人の落ち武者に吹きかけた。
するとボロボロだった鎧が細工の美しい真新しいものへと変わり、ボサボサだった髪がすっきり整うと勇ましい兜に覆われた。
矢が頭に刺さっていたり内蔵が飛び出たりしていたのに、三人とも凛々しい若武者へと変貌したのである。
「彼らはね、元は名だたる武将だったんだよ。」
立ち姿からも漂う気品からしてあのタチの悪かった落ち武者にはとても見えない。
どうやら性格までお上品になっているようだった。
珀が指を剣のようになぞらえて空中で線を描くと、目の前の地面から襖がせり上がってきた。
四枚組の襖にはひと続きの壮大な極楽絵図が色鮮やかに描かれていた。あの世とこの世の狭間へと繋がる扉なのだそうな……
蜘蛛妖魔が作ったあのはた迷惑な穴とは大違いだ。
珀は真人をひょいと持ち上げると私に渡してきた。
「じゃあ紬ちゃん。真人の体が戻るまで、ニャ人のことよろしくね。」
「ニャ人とか言ってんじゃねえ!!」
珀はクククッと楽しげに笑いながら武将達を従えて襖へと入っていった。
余裕そうに出発していったが、狭間なんてところは行き着く先などない無限に広がる異空間なんだそうな。
私の家の庭が入口だからある程度の座標は絞れるそうなのだが、それでも妖魔がうじゃうじゃいる底なし沼のような闇で人ひとりを探すだなんてさぞかし骨が折れることだろう……
真人は私の腕からぴょんと飛び降りた。
「紬の家に行くぞ。」
「えっ…ここで待たないの、ニャ人?」
「……おまえ、今度その名で呼んだらぶん殴るぞ。」
殴るじゃなくて引っ掻くの間違いじゃないだろうか。もしくは猫パンチ……言いたくてムズムズするけれど、絶対に言えない。
「いくら珀でも数日はかかるだろ。それにこの姿で親父に会うのは避けたい。」
「じゃあそれまで真人は猫なの?」
「そうだよ。くそっ、俺の体……あの世まで飛んでってなきゃいいがな。」
狭間からあの世までは一歩足を踏み間違えたら簡単に落ちてしまうのだという。
真人の体が無事に戻るまでは、決して安心は出来ないのだ。
家に戻り、仏壇にニャ太郎が好きだった煮干しをお供えして手を合わせた。
ニャ太郎…無事に天国に行けたかな。
甘えん坊な性格だし、おっちょこちょいな面もあったから心配だな……
真人を見るとキャットハウスに首を突っ込んでクンクンと匂いを嗅いでいた。
「ねえ真人、私……」
「疲れたから話なら後にしてくれ。少し寝る。」
そう言うと真人は部屋の隅に重ねてあった座布団の上に丸まって寝てしまった。
お母さんとのことがあって真人は陰陽師を辞めたがっているのに、またこんな風に巻き込んでしまった。
真人の苦しみを一緒に背負うとか大口を叩いたくせに、実際私がしたことは真人の足を引っ張っただけ。
いい加減、私と関わるのうんざりしてるよね……
「あーっ、どうしたら真人の役に立てるんだろ~。」
ぶくぶくと湯船に浸かりながら自分の情けなさを痛感していた。
外は日が陰りだし、夜の虫の音が聞こえ始めていた。
あの男の子は一体誰なんだろう───────
元は生きていた一人の人間だったんだよね。
この世への未練があって成仏出来なかった哀れな存在……
あんな恐ろしい蜘蛛の妖魔にまでなってしまう心残りって……なに?
ニャ太郎を殺されたけれど、恨む気持ちにはとてもなれなかった。
なぜあの男の子は私を探していたんだろう。
それを思い出せればあの子も少しは救われるかも知れない。
同い年だったのかな。それとも年下?
どこで亡くなったんだろう……今まで何度か引っ越したことはあったけれど、私のことをずっと追いかけていたのかな……?
長湯で火照りながらもあの子へと繋がる過去はなかったかと必死で思い出していた。
「ちょっと紬!あの庭のバカでかい穴はなに?草むしりをやっといてとは言ったけれど、植木まで引っこ抜いちゃったの?!」
母が仕事から帰ってきたようだ。
庭も綺麗さっぱりな状態だけれど、包丁やハサミなんかも全部穴に吸い込まれてしまっている。これはどう言い訳しようか……
とにかく謝り倒すしかないと湯船から立ち上がったら、風呂場の引き戸がガラリと開いた。
「可哀想にニャ太郎が砂まみれじゃない。洗ってあげなさい。」
……ニャ太郎……じゃないっ………
────────────真人っ!!
「おお、お母さん!まひ…ニャ、ニャ太郎連れてって!早く!!」
「どしたの?いつも一緒にお風呂に入ってるじゃない。」
頼んだわよーと母は真人を置いていってしまった。
わわっ私、今、完全に見られたよね?!
湯船から出た状態だったし……真っ裸、真っ裸見られた!
「言っとくが、はっきりとは見えてない。」
もうそれは見たってことじゃん!そんな気遣いされても余計恥ずかしいだけだから!!
「いいから早くここから出てって!」
「そうしたいのは山々なんだが、この体じゃ扉が開けられん。」
────────ああもうっ!!
湯船に出来るだけ浸かったまま腕だけ伸ばして引き戸に手をかけた。
昔ながらの重いガラス戸で無理な体制だったのもあり、浴槽のヌメリで体が滑ってしまった。
「……いったあ、鼻ぶつけたっ。」
「紬おまえ……わざとやってんのか?」
真人の上に思いっきりすっ転んでしまった。真人の背中に生乳を押し付けるようにして………
「きゃああああ~っ!!」
「わっぷ、止めろ!お湯かけんな!」
「うわぁああ~っ、もうお嫁にいけな~いっ!」
「いいから早くここを開けろ!!」
「重ね重ねご迷惑ばかりおかけして本当にごめんなさい!」
「もういい。おまえのごめんは聞き飽きた。」
穴があったら入りたいとはこのことだ。もう私の謝罪の言葉さえ聞くに絶えないのだろう。
出来ることならばやり直したい。真人と初めて出会うパンツ丸出しのところから全部っ……!
「勘違いしてるようだが、俺はおまえを迷惑だなんて思ったことは一度もないぞ。」
─────────えっ………?
本当だろうか……
だって今までのどれを思い出しても迷惑しかかけていないような気がする。
真人は寝転がっていたベッドから出窓へと飛び乗ると、空に浮かぶ少し欠けた十六夜の月を見上げた。
ほのかな月明かりに照らされた横顔は、またあの悲しげな表情だった。
「珀のこと……どう思う?」
珀を、どう思うかって………?
見た目の美しさを問われてるわけじゃないよね。
頼れる気さくなお兄さんってのもこの場の答えとしては相応しくない気がするし……
私が言い淀んでいると真人が口を開いた。
「珀は……陰陽師の力を途切れさせないために幽霊としてあの屋敷に留まることを選んだ。全てはこの国とこの国に住む人々のため。俺を陰陽師として鍛えあげてくれたのも珀だ。」
きっと珀はそうやって千年もの永き間、自分が持ちうる全ての力を子孫へと注ぎ、ともに戦い、見送ってきたのだろう。
中には悲しい別れもあったはずだ……
「俺も珀の思いには応えたい。でも……その力量が俺にあるのかと揺らいでいる。正しいことも、どうしたらいいのかも分からなくなってる……」
真人は平安時代から脈々と受け継がれてきた西園寺家の裏稼業、陰陽師、30代目だ。
それがどれほど先人達の思いのこもった重要な役目なのか……真人は充分わかっている。
陰陽師を辞めたいということは、決して安易な気持ちで言ったのではない。
だからこそ珀は無理強いをすることはせずに黙って見守り、頼られれば快く引き受けるのだろう……
二人のお互いを思いやる絆が切ないほどに伝わってきた。
師弟、親子、親友、兄弟……どれにも当てはまらない二人の関係がとても羨ましいなと思った。
月を悲しげに眺めていた真人がこちらを振り向き、口元をフッと緩ませた。
「だから、おまえみたいに無理やり引っ掻き回してくれるヤツが、今の俺には必要なのかも知れない。」
真人からの思わぬ発言に耳を疑った。私のことなんて邪魔者以外の何者でもないだろうと思っていたのに……
真人の穏やかな笑顔に私の心がパッと華やいだ。
「私って実は、真人のお役に立ってるってことっ?」
「そこまでは言ってない。」
床にめり込むほどガックリしてしまった。
そりゃそうよね……つい調子に乗ってしまった。
真人は項垂れる私のそばまでぴょんと降りてくると、尻尾でペシペシと叩いてきた。
「でもまあ、出会えて良かったとは思ってる。」
────────ウソっ……!
私は出会うところからやり直したいなどと考えていた。でも真人はそんな風に思ってくれてたんだ……
今まで幽霊が見えることでどれほど孤独を感じてきたか……
出会えて良かったと思っているのは私の方だ。
「どんだけ泣くんだ。泣き虫が。」
「だって、嬉しいんだもんっ。」
真人の隣に引っ越してきて……
本当に、良かった──────────
もたもたしてる間にも風の勢いは増すばかりだ。チョコレートの箱も庭の雑草も次々と穴へ吸い込まれていった。
「火はないか?!焼き切った方が早いっ。」
火が着くようなものは持ってきてない。でも仏壇にはライターが置いてたはずだ。
家の中へと走っていって仏壇の引き出しをひっくり返してなんとかライターを探し出し、転びそうになりながらも急いで庭に引き返してみて呆然とした。
蜘蛛の巣の中は既に空間が歪むほどの膨大な風が吹き荒れ、全てのものを引き裂いて飲み込もうとしていた。
真人がこちらに向かってなにか叫んでいたが、声さえもこちらには届かないっ……
きっと来るなと言っているんだろうけれど、徐々に穴へと引き寄せられていく真人を見殺しになんか出来るわけがないっ……!
迷わず巣の中へと飛び込み、四つん這いになって一歩一歩踏ん張りながらようやく真人のところまで辿り着いた。
「来るなと言っただろ!!」
「そうなの?!早くしろって聞こえた!」
ライターの火を着けようにもこんなに風が強いとなかなか着かない。
風を遮ろうと体勢を変えた瞬間、体があおられ宙に浮いた。
しまった……吸い込まれる─────!!
抵抗する間もなく吹っ飛ばされて行った穴の直前で、誰かに腕を掴まれた。
目も開けられない砂嵐のような中で力強く私の体を抱き寄せると、そのまま巣の外へと連れ出してくれた。
「……ったく、出来もしないのに無茶しやがって。」
それは真人だった。
って、あれ?なんで真人?
ついさっきまで糸に絡まって身動きが取れずにいたのに……
それになんだかいつもと違う。髪や肌の色素が薄いというか全体的に透けてるというか……
全く状況が飲み込めず思考回路がショートしている私を見て、真人は呆れたようにため息をついた。
「幽体離脱したんだよ。そうしないと助けようがなかったからな。」
「へっ……?!」
幽体離脱っ……体から魂が分離しちゃうアレですか?!
すごいっ……真人ってそんなことも出来るの!!
「最初っからそれをすれば良かったのに!」
こんな奥の手を隠してただなんて、思わず文句を言ってしまった。
「簡単に言うなド素人が!この術はリスクがデカいんだ。霊体のままだと生命線が消えて元の体に戻ることが不可能になる。」
そう言うと頭から伸びる線を指さした。どうやらこれが生命線というものらしい。
指ほどの太さの白っぽい線が30センチほど、頭のてっぺんからゆらゆらと生えていた。
「これっていつ消えちゃうの?」
「数秒後かも知れないし、一週間後かも知れない。消えたら強制的にあの世行きだ。」
数秒後の方だとしたら一刻も早く体に戻らないといけない。
庭を見ると蜘蛛の巣は消え、雑草は根元から全て抜き取られて狭間の穴があった場所には巨大な落とし穴が残されていた。
もしかして真人の体も……吸い込まれたあ?!
「どうしよう、真人の体が無いよ!」
慌てて振り向くとさっきまでいた霊体の真人もいなくなっていた。
もうあの世に強制送還されてしまったのだろうか。
ウソでしょ………
庭を走り回って真人の名前を何度も呼んだが返事はない。大粒の涙がとめどなく溢れてきた。
泣いてる場合じゃないのは分かっているけれど、真人が死んだかも知れないと考えるだけで胸が苦しくなって涙が止まらなかった。
そうだ珀……珀ならなんとかしてくれるかも……!
裸足のまま森へと駆け出そうとしたら後ろから呼び止められた。
真人だと思い振り向いたのだけれども、そこには誰もいなかった。気のせいだったのだろうか……
「下だ下。下を見ろ。」
視線を下げると地面には死んだはずのニャ太郎がちょこんと座っていた。
「……ニャ太郎が、喋った……?」
私の言葉にニャ太郎は違うという風に首を左右に振った。そして嫌そうにチッと舌打ちをした。
「俺だ。こいつの体、ちょっと借りるぞ。」
────────────っ!!!
まま、ま、真人─────────!!
「なんで真人がニャ太郎の中に入ってるの?!」
「仕方ないだろ、緊急避難だ。霊体のままだと生命線が消えるって言っただろ。」
猫になった真人は大きく伸びをしたり尻尾をフリフリさせたり前足で顔を擦ったりしていた。
体と魂のズレを調節しているらしいのだが、その仕草があまりにも可愛いすぎて悶絶しそうになった。
「とりあえずは大丈夫そうだな。」
真人は肉球を見ながら安心したように呟いた。
語尾にニャって付けて喋ってくれないかな……
私達は森の中を通って珀の元へと急いだ。
「若が猫に変化とはこりゃ大傑作でござる!」
「あれまあ、こんなに可愛くなっちまってえ。」
「いつもの色男が台無しですなあっ。うひゃひゃひゃひゃ」
珀のところで酒を飲んでいた落ち武者達が大盛り上がりで真人のことをいじり倒してきた。
珀が窘めなかったら小一時間は続いていただろう。
「くっそこいつら……元に戻ったら全員滅してやる!」
真人は血管が切れるんじゃないかってくらいブチ切れていた。怖い怖い……
珀は真人が猫になったことに別段慌てる様子はなく、巨大な蜘蛛の妖魔の話をしても落ち着き払っていた。
「そうかい、そのまま二人共吸い込まれていたらどこに行ったかも分からないところだったねえ。良い判断さ、さすが真人だ。」
「さすがではないだろ。俺が糸に捕まりさえしなければこんな事態にはならなかったんだから。」
真人の尻尾がくねくねと動いている。これは猫がご機嫌な時にする仕草だ。
本当は珀から褒められて嬉しかったようだ。
「それで、狭間には有象無象の妖魔がいるわけだけど、真人は体が吸い込まれる時になにか対策はしたのかい?」
「それなら糸魚川翡翠を身に付けていたから大丈夫だ。」
「華夜の勾玉か。なら安心だね。」
真人のお母さんの肩身のペンダントのことだ。あれを身に付けている者には悪意のある霊は触れられないと言っていた。
返しといて正解だった。
真人は申し訳なさそうに珀を見上げた。
「俺の体……珀に頼んでもいいか?」
珀はにっこり笑うと真人のノドに指を当てて毛並みにそって優しく撫でてあげた。まるで飼い主が猫にするかのように……
一瞬ゴロゴロとノドを鳴らしかけた真人がハッと我に返った。
「珀……おまえも面白がってんだろ?」
珀はいつもの笑い方でククッと楽しそうに肩を揺らした。
多分この状況って大変な事態だと思うのだけれど、みんなのやり取りが可笑しすぎて私もつい笑ってしまった。
真人がますます不機嫌になっていく……
「さて、戯言はこのくらいにして早速出発しようか。皆にも手伝ってもらうよ。」
珀は煙管を深く吸い込み、煙をフーっと三人の落ち武者に吹きかけた。
するとボロボロだった鎧が細工の美しい真新しいものへと変わり、ボサボサだった髪がすっきり整うと勇ましい兜に覆われた。
矢が頭に刺さっていたり内蔵が飛び出たりしていたのに、三人とも凛々しい若武者へと変貌したのである。
「彼らはね、元は名だたる武将だったんだよ。」
立ち姿からも漂う気品からしてあのタチの悪かった落ち武者にはとても見えない。
どうやら性格までお上品になっているようだった。
珀が指を剣のようになぞらえて空中で線を描くと、目の前の地面から襖がせり上がってきた。
四枚組の襖にはひと続きの壮大な極楽絵図が色鮮やかに描かれていた。あの世とこの世の狭間へと繋がる扉なのだそうな……
蜘蛛妖魔が作ったあのはた迷惑な穴とは大違いだ。
珀は真人をひょいと持ち上げると私に渡してきた。
「じゃあ紬ちゃん。真人の体が戻るまで、ニャ人のことよろしくね。」
「ニャ人とか言ってんじゃねえ!!」
珀はクククッと楽しげに笑いながら武将達を従えて襖へと入っていった。
余裕そうに出発していったが、狭間なんてところは行き着く先などない無限に広がる異空間なんだそうな。
私の家の庭が入口だからある程度の座標は絞れるそうなのだが、それでも妖魔がうじゃうじゃいる底なし沼のような闇で人ひとりを探すだなんてさぞかし骨が折れることだろう……
真人は私の腕からぴょんと飛び降りた。
「紬の家に行くぞ。」
「えっ…ここで待たないの、ニャ人?」
「……おまえ、今度その名で呼んだらぶん殴るぞ。」
殴るじゃなくて引っ掻くの間違いじゃないだろうか。もしくは猫パンチ……言いたくてムズムズするけれど、絶対に言えない。
「いくら珀でも数日はかかるだろ。それにこの姿で親父に会うのは避けたい。」
「じゃあそれまで真人は猫なの?」
「そうだよ。くそっ、俺の体……あの世まで飛んでってなきゃいいがな。」
狭間からあの世までは一歩足を踏み間違えたら簡単に落ちてしまうのだという。
真人の体が無事に戻るまでは、決して安心は出来ないのだ。
家に戻り、仏壇にニャ太郎が好きだった煮干しをお供えして手を合わせた。
ニャ太郎…無事に天国に行けたかな。
甘えん坊な性格だし、おっちょこちょいな面もあったから心配だな……
真人を見るとキャットハウスに首を突っ込んでクンクンと匂いを嗅いでいた。
「ねえ真人、私……」
「疲れたから話なら後にしてくれ。少し寝る。」
そう言うと真人は部屋の隅に重ねてあった座布団の上に丸まって寝てしまった。
お母さんとのことがあって真人は陰陽師を辞めたがっているのに、またこんな風に巻き込んでしまった。
真人の苦しみを一緒に背負うとか大口を叩いたくせに、実際私がしたことは真人の足を引っ張っただけ。
いい加減、私と関わるのうんざりしてるよね……
「あーっ、どうしたら真人の役に立てるんだろ~。」
ぶくぶくと湯船に浸かりながら自分の情けなさを痛感していた。
外は日が陰りだし、夜の虫の音が聞こえ始めていた。
あの男の子は一体誰なんだろう───────
元は生きていた一人の人間だったんだよね。
この世への未練があって成仏出来なかった哀れな存在……
あんな恐ろしい蜘蛛の妖魔にまでなってしまう心残りって……なに?
ニャ太郎を殺されたけれど、恨む気持ちにはとてもなれなかった。
なぜあの男の子は私を探していたんだろう。
それを思い出せればあの子も少しは救われるかも知れない。
同い年だったのかな。それとも年下?
どこで亡くなったんだろう……今まで何度か引っ越したことはあったけれど、私のことをずっと追いかけていたのかな……?
長湯で火照りながらもあの子へと繋がる過去はなかったかと必死で思い出していた。
「ちょっと紬!あの庭のバカでかい穴はなに?草むしりをやっといてとは言ったけれど、植木まで引っこ抜いちゃったの?!」
母が仕事から帰ってきたようだ。
庭も綺麗さっぱりな状態だけれど、包丁やハサミなんかも全部穴に吸い込まれてしまっている。これはどう言い訳しようか……
とにかく謝り倒すしかないと湯船から立ち上がったら、風呂場の引き戸がガラリと開いた。
「可哀想にニャ太郎が砂まみれじゃない。洗ってあげなさい。」
……ニャ太郎……じゃないっ………
────────────真人っ!!
「おお、お母さん!まひ…ニャ、ニャ太郎連れてって!早く!!」
「どしたの?いつも一緒にお風呂に入ってるじゃない。」
頼んだわよーと母は真人を置いていってしまった。
わわっ私、今、完全に見られたよね?!
湯船から出た状態だったし……真っ裸、真っ裸見られた!
「言っとくが、はっきりとは見えてない。」
もうそれは見たってことじゃん!そんな気遣いされても余計恥ずかしいだけだから!!
「いいから早くここから出てって!」
「そうしたいのは山々なんだが、この体じゃ扉が開けられん。」
────────ああもうっ!!
湯船に出来るだけ浸かったまま腕だけ伸ばして引き戸に手をかけた。
昔ながらの重いガラス戸で無理な体制だったのもあり、浴槽のヌメリで体が滑ってしまった。
「……いったあ、鼻ぶつけたっ。」
「紬おまえ……わざとやってんのか?」
真人の上に思いっきりすっ転んでしまった。真人の背中に生乳を押し付けるようにして………
「きゃああああ~っ!!」
「わっぷ、止めろ!お湯かけんな!」
「うわぁああ~っ、もうお嫁にいけな~いっ!」
「いいから早くここを開けろ!!」
「重ね重ねご迷惑ばかりおかけして本当にごめんなさい!」
「もういい。おまえのごめんは聞き飽きた。」
穴があったら入りたいとはこのことだ。もう私の謝罪の言葉さえ聞くに絶えないのだろう。
出来ることならばやり直したい。真人と初めて出会うパンツ丸出しのところから全部っ……!
「勘違いしてるようだが、俺はおまえを迷惑だなんて思ったことは一度もないぞ。」
─────────えっ………?
本当だろうか……
だって今までのどれを思い出しても迷惑しかかけていないような気がする。
真人は寝転がっていたベッドから出窓へと飛び乗ると、空に浮かぶ少し欠けた十六夜の月を見上げた。
ほのかな月明かりに照らされた横顔は、またあの悲しげな表情だった。
「珀のこと……どう思う?」
珀を、どう思うかって………?
見た目の美しさを問われてるわけじゃないよね。
頼れる気さくなお兄さんってのもこの場の答えとしては相応しくない気がするし……
私が言い淀んでいると真人が口を開いた。
「珀は……陰陽師の力を途切れさせないために幽霊としてあの屋敷に留まることを選んだ。全てはこの国とこの国に住む人々のため。俺を陰陽師として鍛えあげてくれたのも珀だ。」
きっと珀はそうやって千年もの永き間、自分が持ちうる全ての力を子孫へと注ぎ、ともに戦い、見送ってきたのだろう。
中には悲しい別れもあったはずだ……
「俺も珀の思いには応えたい。でも……その力量が俺にあるのかと揺らいでいる。正しいことも、どうしたらいいのかも分からなくなってる……」
真人は平安時代から脈々と受け継がれてきた西園寺家の裏稼業、陰陽師、30代目だ。
それがどれほど先人達の思いのこもった重要な役目なのか……真人は充分わかっている。
陰陽師を辞めたいということは、決して安易な気持ちで言ったのではない。
だからこそ珀は無理強いをすることはせずに黙って見守り、頼られれば快く引き受けるのだろう……
二人のお互いを思いやる絆が切ないほどに伝わってきた。
師弟、親子、親友、兄弟……どれにも当てはまらない二人の関係がとても羨ましいなと思った。
月を悲しげに眺めていた真人がこちらを振り向き、口元をフッと緩ませた。
「だから、おまえみたいに無理やり引っ掻き回してくれるヤツが、今の俺には必要なのかも知れない。」
真人からの思わぬ発言に耳を疑った。私のことなんて邪魔者以外の何者でもないだろうと思っていたのに……
真人の穏やかな笑顔に私の心がパッと華やいだ。
「私って実は、真人のお役に立ってるってことっ?」
「そこまでは言ってない。」
床にめり込むほどガックリしてしまった。
そりゃそうよね……つい調子に乗ってしまった。
真人は項垂れる私のそばまでぴょんと降りてくると、尻尾でペシペシと叩いてきた。
「でもまあ、出会えて良かったとは思ってる。」
────────ウソっ……!
私は出会うところからやり直したいなどと考えていた。でも真人はそんな風に思ってくれてたんだ……
今まで幽霊が見えることでどれほど孤独を感じてきたか……
出会えて良かったと思っているのは私の方だ。
「どんだけ泣くんだ。泣き虫が。」
「だって、嬉しいんだもんっ。」
真人の隣に引っ越してきて……
本当に、良かった──────────
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