【完結】廃嫡された王太子は沼にハマったようです

久乃り

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51.それを聞いてはいけない

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 波の音が聞こえる。海を見たのはあの時一回きり。ウルゼンから帝国に向かう際、行きの道中で海沿いの道を通った時だ。見た目には随分と遠くに感じたのに、波の音は大きく、まるで耳元で暴れているかのように聞こえたものだ。
 だが今聞こえるのは、小さな音でとても優しい。荒々しさはなく、包み込むような優しい音がエディエットの耳に響くのだった。

「        ぁ」

 口を開いてから、いや、意識がふわりと持ち上がり己の状況の判断が着くまでの間、それはおそらく大した時間では無い。だが、己の体を包み込む温かなものの正体と体にまとわりつくソレがなんなのか理解した時、頭の中には疑問しか浮かばなかった。

「起きたのか?」

 覗き込むように近づいてきたのは琥珀の瞳。波打つ湯の光を受けて輝きはいつもより強い。

「な、ぜ」

 なぜ湯の中にいるのか分からなかった。風呂には入った。セシルの指示で湯殿担当の侍女はそれは念入りにエディエットを洗い上げた。それから、記憶が確かなら、倒れたのはまだ室内で、その拍子に花瓶を巻き込んだとか、茶や食べ物をこぼしたことも無いはずだ。

「お前の汚れを落としている」

 アラムハルトはそう言って柔らかな布でエディエットの耳の後ろを拭った。そこから首筋におりて、反対側も同じように拭い、顎の下を丁寧に拭う。温かな湯がその度に揺れて、耳元で聞こえた波の音はこれなのだと知ったのだ。

「汚れ、て、いる?」

 エディエットは目を見張ってアラムハルトを見た。何が汚れていると言うのだろうか。アラムハルトの剣で怪我などしていない。室内で倒れたのだから、土や埃など付かなかったはずだ。

「お前は、私に黙って外出をして男にあっていたな。そのようなこと許されるわけがなかろう。何処を触られた?そのような汚れはあり全て落としてやる」

 アラムハルトの手がエディエットの体をゆっくりと拭う。柔らかな布の感触が肩から腕を通り、そうして胸を撫でて腹へと移動しようとした。

「         !  っ! !!」

 エディエットがアラムハルトの手を払い除けた。急に身を起こし、アラムハルトの腕から逃れる。かすれた悲鳴を上げてアラムハルトに向かっ待て湯をまきあげた。

「ディどうしたと言う。落ち着きなさい」

 最初の湯をかけられた時は驚き対処が出来なかったアラムハルトだが、所詮は風呂の湯だ。落ち着いてシールドを張ればなんてことは無い。エディエットが湯船の端で魔力を放出しているのだ。小さな竜巻が起きているのか、湯船の湯が巻き上げられて辺りに飛び散っている。そんなものがいくつもあって、そのせいでエディエットの顔がよく見えない。
 だが、悲鳴に近い声を上げ、両手で頭を抱えるような体勢を取っているのだけはわかった。それはまるでなにかに怯えているようだった。

「ディ、どうしたと言う」

 アラムハルトはゆっくりと手を伸ばすが、エディエットが次々と小さな竜巻を作り湯を巻き上げるから、どうにも近づけない。シールドを張ったまま近づけば何とかなるかもしれないが、その場合エディエットの作りだした小さな竜巻がどうなるのか予想が付かなかった。

「陛下、如何なさいましたか?」

 護衛の騎士が扉の向こうから声をかけてきた。どうやらエディエットの掠れた悲鳴と、おかしな水音に反応したのだろう。飛び込んでこないのは、皇帝たるアラムハルトが呼ばないからだ。

「大事無い。下がっていろ」
「はっ」

 返事は返ってきたが、そこから護衛騎士の気配が消えることはなかった。呼ばれればいつでも直ぐに飛び込んで来るだろう。だが、ここが湯殿である以上護衛騎士を入れる訳にはいかないのだ。だからアラムハルトはゆっくりと考える。一体なぜエディエットが取り乱したのかを。

「ディ、落ち着きなさい」

 アラムハルトは極力声を押えてみるが、エディエットは両手で頭を抱えたまま掠れた悲鳴を上げ、湯殿の中で体を小さく曲げている。魔法を放っているせいで、エディエットの周りの湯の高さが随分と低くなっているから、溺れることは無さそうだ。
 だが、そのせいでアラムハルトが近づくのが、だいぶ困難になっている。思わず舌打ちしたくなったのは、ここが閨では無いことだ。そのせいで魔法が使えてしまう。エディエットは取り乱しているのか、はたまた寝ぼけているのか判断画つかないが、掠れた悲鳴とあの態度から察するに前者だろう。
 声をかけても反応しないのであれば、強行突破するしかないのだが、できるだけエディエットを傷付けないよう動きたいのがアラムハルトの本音だ。

「ぁ、ぅあ……っくない」

 エディエットがなにか呟いているのが聞こえた。よく見ればエディエットは両手で耳を塞いで頭を振っていた。そうしてなにか呟いているのだ。

「ディ、何を言っているのだ」

 エディエットが放つ魔力によって生み出された小さな竜巻を、アラムハルトはゆっくりと握りつぶしていく。そうやって近付けば、ようやくエディエットの呟きが聞き取れた。

「ぼくは、悪くない。   痛いことをされたんだ」

 エディエットの体に触れようとし手伸ばした手を、アラムハルトは寸で止めた。

「ぼくは汚れてなんかいない。ぼくはっ」

 不意にエディエットが顔を上げ、伸ばされていたアラムハルトの手を打ち払った。魔力が乗っていなければ、大したことは無い。
 打ち払われた手をそのままに、アラムハルトはエディエットを見た。翡翠の瞳は揺れて、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。

「ぼくはぁ   汚れて  なんかぁ   いないっんだ」

 エディエットが叫びながら魔力を放った。純粋にアラムハルトを押し退けようとする風の圧だ。これにはさすがに問答無用でシールドを張ると、ぶつかりあった場所が近すぎたため湯船のお湯が激しく波打った。
 シールドを張ったアラムハルトに湯はかからなかったけれど、魔法で風の圧を放ったエディエットにはそのまま湯が降りかかる。

「あっ」

 頭上から大量の湯が降りかかり、エディエットが両腕で顔を覆った。今まで周りにあった小さな竜巻が巻き上げていた湯が湯船に戻り回りの水位が上がったために、膝をついたエディエットはそのまま湯船の中にしゃがみこむように崩れてしまった。

「ディ」

 アラムハルトが慌ててエディエットの腕を掴むが、既に体からは力が抜けていた。

「ディ?」

 抱き寄せてみれば小さな呼吸音が聞こえるが、エディエットの体は冷たかった。
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