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32.ある日の思い出と決意のこと
しおりを挟む帝国の皇帝が即位する度に何かしら血なまぐさい事がおきるのが常であった。始まりは周辺の公国を束ねることからで、そのうち魔獣の襲撃への対抗策からの併合などで国は次第に大きくなり巨大な帝国へと姿を変えたのだ。
それに伴い、帝国を束ねる貴族のトップに立つのは最初の公国の公主からなり、帝国に君臨する皇帝の地位にはそこから一人が選ばれるようになった。むろん持ち回りではなく、議会でより良い一人が選ばれる。そのためのありとあらゆる力を欲するあまり、公主同士の争いは度々起きていた。
帝国の安定のため、いつしか皇帝の直系が後継となるようになり、その子を成すために公主の血族から一人が正妃として召されるようになった。そのため、正妃の地位が争いの火種になるようにはなったが、皇帝の地位を争うよりは遥かに害が少なくて済む。皇帝の正妃は、直系の血を守るため外に出ることをしなくなった。
「アルネットよ、よく見なさい」
戴冠式の際、隣に立つ父親に言われアルネットはゆっくりと視線をそちらへと向けた。本日は帝国の皇帝の戴冠式だ。国教会の司祭が恭しく王冠を掲げているのが見えた。今、まさに、新しい皇帝が誕生するのだ。
そうして、アルネットはその皇帝に嫁ぐ身だ。未来の夫と教えられてきた男ではあるが、今この瞬間に帝国最高位の男となったのだ。
「なんて神々しいのでしょう」
朱色のマントには純白の毛皮が縫い付けられ、身に纏う衣装もまた、朱色。金の飾りが取り付けられ、足元を飾るブーツもまた朱色に染められている。それらは全て、皇帝たる地位に着くものは血の犠牲の上に立つことを意味していた。帝国の創世の歴史から、血の流れなかったことなどない事の戒めでもある。
たくさんの宝石に彩られた王冠はさぞや重いだろう。本来なら跪く皇帝の手を司祭が取り立ち上がるのだが、本日の皇帝は自力で立ち上がった。頭に乗せられた王冠はぶれることなく輝きを放つ。
自らの力で立ち上がり、錫杖を手にした皇帝は己の治世の始まりを高らかに宣言したのだ。
「あのお方の……」
アルネットは身震いをした。
――――――――――
戴冠式に参列出来たのは帝国の貴族のみ。国民は国教会の外に集まり高らかになる鐘の音を耳にして歓声をあげた。
新しい皇帝の誕生は新しい時代の幕開けである。城下町では祝いの酒が振る舞われ、菓子が撒かれた。それを目当てにあちこちから人が集まり、城下町に人が溢れかえる。
そんななか、近隣諸国から新皇帝への祝辞が届く。国の旗を掲げた馬車が次々と皇帝の城へと入っていく。さすがに、皇帝への貢物を狙うバカはいない。そんなことが知れれば皇帝への攻撃と見なされるからだ。届いた品々を前に使者が目録を読み上げる。皇帝は黙ってそれを聞いて品を眺めるだけだ。
そして、それをただ見ているだけなのに、アルネットはどうしようもなく心が踊っていた。どれひとつとして自分のものでは無いと言うのに、あれらの品々を受け取り、恭しく頭を下げられるその至高の存在の妃となる自分をただ、想像する。
もちろん、帝国の貴族たちも祝いの品を届けるが、近隣諸国には及ばない。それでも、渡さない訳にはいかないのだから大変な事だ。アルネットももちろん祝いの品を渡す予定だ。夜になれば、夜会が開かれそこから三日三晩催されるのだ。これはまだ始まりに過ぎない。
「こちらをぜひ陛下に」
そう口にしてアルネットは自らの瞳の色をした宝石を飾り付けたブローチを捧げた。婚約者であるから、自分の色を送るのはごく自然な事だ。皇帝の瞳は琥珀色であるけれど、アルネットの瞳は青だ。だからサファイアで彩ったブローチを作ったのだ。
「わが婚約者からの品、確かに受け取った」
品物とアルネットの顔を交互に見て、皇帝たるアラムハルトは答えた。公の場で婚約者を知らしめるのは必要な事だ。そうしなければ、無知な令嬢がよからぬ事を考えてしまうからだ。
そうして夜になり、夜空を色とりどりの花火が飾る頃、不夜城のごとく皇帝の城は豪華絢爛な明かりを灯しての宴が始まった。三日三晩、帝国の貴族たちが祝いの言葉を並べ、近隣諸国からの祝いの品が並べられ、踊り子が舞踊り楽団が曲を奏でる。
広間だけでなく庭にまで人が溢れ、酒の匂いと化粧の匂い、次から次へと並べられる食べ物の匂いがごちゃ混ぜになり、アルネットは少々気分が悪くなってきた。だがそれでも、皇帝の婚約者としてこの場を離れる訳にはいかなかった。公主の娘であるアルネットから見れば、どの貴族令嬢も格下であるのにも関わらず、何故か挑むような目を向けてくる。
だからアルネットは、涼しい顔をして皇帝の側に立っていた。特に何をする訳でもないのだが、アルネットと皇帝の結婚式は一年後に執り行われるから、新皇帝誕生の祝いにきた近隣諸国の使者や貴族たちに顔を見せておくのも大切なことだった。
「…………」
目録を読み上げる少し小柄な青年を皇帝が目を細めて見つめていた。酒を飲み時間も随分と経過してからのことだから、流石の皇帝も疲れが出てきたのかもしれない。一瞬そうアルネットは思ったのだけれど、隣に立つ宰相に耳打ちした言葉がアルネットの耳に入る。
「あれは目録には載っていないな」
「陛下、何をおっしゃいますか」
小声で宰相が叱責するが皇帝は素知らぬ顔だ。目録を届けた侍従が小首を傾げるのを見て皇帝が手のひらで合図を送る。
侍従がゆっくりと下がると、目録を渡した使者は一礼をして赤い絨毯の上を歩いて行った。皇帝の目がその背中を追っている。それが、何を意味するのか気になってアルネットは耳をそばだてた。
「あれは献上されないのか?」
「陛下、あの使者はウルゼンの王太子ですよ」
「姫の代わりではなかったのか?」
口の端を軽く上げて皇帝が紡ぎ出す言葉にアルネットの心がざわめく。
「何をおっしゃいますか。国王の名代ですよ」
「そうか、つまらぬな。こんなものよりあれをよこせばいいものを」
「ウルゼンは魔獣の森のあちらの国ですからね。こちらに庇護は求めないでしょう」
「森に阻まれて責め落とせないということか」
「落とす気ですか」
そんなやり取りをしている間に次の使者がやってきて跪く。目録を侍従の掲げる盆に乗せ、それが皇帝に読まれるのを固唾を飲んで見守っている。それを何度も見ていたはずなのに、たまたま聞こえてきた皇帝の戯れの言葉がアルネットの耳から離れなかった。
「布ばかり増えていくな」
「下賜すれば良いのです」
皇帝が目録を摘んで宰相に渡す。つい先程までなら皇帝に献上された上質な織物を下賜されると聞いて心が踊っていたはずなのに、今は何も感じなくなってしまった。アルネットは先程の青年の姿を探した。ここから動くことは出来ないけれど、目線だけで探せば直ぐにその背中が見つかった。艶やか黒髪に姿勢の良い佇まい。帝国の貴族たちと比べれば線の細い体。肌は褐色だけれど、やはり帝国の貴族と比べれば淡い。
だから皇帝の食指が動いたのかとアルネットは思う。帝国や周辺の小国の男たちは女を守るために屈強な体をしているものが大半だ。それなのに、纏う色は似通っているのに、なんと違う体つきだろう。その線の細さを確認しているうちに、件の青年の背中は人混みに消えてしまった。
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