66 / 66
66.来る者拒まず春の嵐の来訪者
しおりを挟む
66
「義隆様」
ノックの音に続いて声をかけられ、何事もなくドアが開いた。ふたつの旅行カバンを手にして入ってきたのは秘書の田中だ。
「手間をかける」
ベッドからゆっくりと田中に向かって歩く義隆は全裸だ。
「義隆様、せめて何か羽織ってください」
「備え付けのバスローブが小さいんだ」
「左様でしたか。ではこちらが役に立つかと思います。旅館の女将が渡してくれました」
2つのカバンを持つ腕の上に乗せられた風呂敷包を義隆に手渡した。
「お代を弾まなくてはならないな」
「そのように手配致します」
「おじい様からの就職祝いにケチをつける訳にはいかないからな」
手にした風呂敷包をテーブルの上で広げれば、中には旅館の浴衣が入っていた。春を思わせる萌黄に襟元に淡い桃色がはわせてある。
「返品は不要との事です」
「気を使わせてしまったな」
一枚を手に取り袖を通す。体格のいいアルファの義隆が着ても、借り物感がまるでない仕立ての良いものである。
「旅行かばんはどちらに置きましょうか?」
田中は当たり前の顔で部屋の中に入ってきて、部屋の中を軽く見渡した。クローゼットのようなものはなく、壁にハンガーが直接かけられる仕様になっていた。
「そのソファーの上においてくれ。それと飲み物と食べ物なんだが……」
義隆が言い終わる前に田中が紙袋を出してきた。いったいどうやってこんなに大量の荷物を運んできたのか、はなはだ疑問ではあるものの、義隆はそれをありがたく受け取った。
「さすがは女将といったところか」
紙袋の中身は泊まっていた旅館からだった。一口サイズに握られたおにぎりに、綺麗にカットされた果物、それから旅館で人気の温泉水を使ったパンのサンドイッチ。この地域の天然水のペットボトルも入れられていた。
「重箱に入っているのが義隆様のお食事になります。温かいうちにお召し上がりください。重箱は食べ終わりましたら部屋の外に出しておいてください。回収しますから。それと、お食事についてリクエストがあればおっしゃってください。女将が誠心誠意対応しますと申し出てくださいましたから」
「ずいぶんと対応がいいな」
「一之瀬家は何代にもわたっての上客ですからね。御贔屓客ではあります」
「おじいさまにご連絡をしておこう」
「お願いいたします」
「貴文様のご家族と会社には私が連絡いたしますのでご心配なく」
「すまない」
田中はいったんラブホテルの事務所に戻ると、一之瀬家お抱えのシークレットサービスのリーダーと顔を合わせた。
「お疲れ様です。島野さん」
「お疲れさん。まさかうちの愚息が役に立つ日が来るとは思いませんでしたよ」
「実に素晴らしい偶然です」
「そういったところも、さすがは一之瀬様ってとかなんでしょうけどね」
「私は一度東京に戻り報告しなければいけません。あとはお任せしても?」
「了解。旅館から食事が届いたらお届けすればいいんでしたよね?」
「女将自ら来てくださいますので、間違うことはないでしょう」
「了解。ここのオーナーってやつはいまだに来ませんけど?どうします?」
「来るまで放置でいいでしょう。経営者として職務怠慢がすぎますからね」
「了解。お気をつけて」
田中が駐車場に出てみれば、身だしなみを整えた妹の麻子が立っていた。
「お兄様、東京にお戻りになるのでしょう?私も連れて行ってくださいな」
「真也は如何しました?」
「真也さんは私を置いて帰ってしまいましたのよ。ひどすぎません?私、あの部屋に一人で泊まりましたの。寂しかったですわ」
「寂しい思いをしているのは……」
「ですから、私も連れて行ってくださいな。お兄様」
「さっさと乗りなさい」
当たり前の顔をして麻子は助手席に座る。
「お兄様、私朝ごはんがまだですの」
「安心なさい。私もだ」
その日の午後、杉山家に来客があった。
「父さんやばい。外に停まった車、絶対に一之瀬様よ」
「どうしてわかった?」
「だって貴文が乗っていったやつの新型だもん」
「なんだって?」
リビングのソファーに座り、唯一の楽しみである競馬を観ていた父親は驚いて立ち上がり窓の外を凝視した。さして広くもない庭の低い塀の向こうにキラキラ光るこのあたりに似つかわしくない超が付くほどの高級車が停まっているのが見えた。たとえレースのカーテン越しでもはっきりとわかってしまう重厚なボディーだ。
「お父さん、大変」
パタパタとスリッパの音を立てながら母親がリビングに入ってきた。
「わ、わかってる。わかってるぞ。み、みんなで玄関に行こう」
父親がそう提案した時、インターホンが高らかに鳴った。
「貴文さんをいつまでも裸のまま寝かせていてはいけないな」
昨夜は若気の至りで飲まず食わずで、貴文の体を清めてそのまま寝入ってしまった。風邪をひかないように暖房を強めに設定したら空気がやたらと乾燥した気がする。布団の中で抱きしめて、唯一持っていた飲み物は貴文が途中のコンビニで買ったスポーツドリンクだった。春限定のベリー味なのだと言って、嬉しそうに買っていた。何とか貴文に飲ませはしたものの、明らかに足りてはいないだろう。
義隆は紙袋からペットボトルを一本取り出すと、一気に飲み干した。自分の食事の前に貴文に何か着せた方がいいのではないかと思い、義隆は貴文の旅行鞄に手をかけた。さすがに浴衣一枚では下半身が冷えるだろう。
「貴文さん、俺が用意した下着より自分で用意した下着の方がいいよな?せめてパンツは履いた方がいいだろう」
そうつぶやきながら義隆は貴文の旅行鞄を開けた。中はきちんと仕分けられていて、汚れたものはビニル袋に入れられているらしかった。
「下着と靴下はここか……」
そこの一角に入っていたものを取り出してテーブルの上に並べ、数を数えて義隆は唖然とした。二泊三日の旅行である。肌寒かった時のために薄手のセーターがあるのはわかる。だが、義隆には理解できなかった。
「貴文さん、どうしてパンツが三枚なんですかぁ」
それは貴文が持ってきたパンツの枚数であった。
おしまい
「義隆様」
ノックの音に続いて声をかけられ、何事もなくドアが開いた。ふたつの旅行カバンを手にして入ってきたのは秘書の田中だ。
「手間をかける」
ベッドからゆっくりと田中に向かって歩く義隆は全裸だ。
「義隆様、せめて何か羽織ってください」
「備え付けのバスローブが小さいんだ」
「左様でしたか。ではこちらが役に立つかと思います。旅館の女将が渡してくれました」
2つのカバンを持つ腕の上に乗せられた風呂敷包を義隆に手渡した。
「お代を弾まなくてはならないな」
「そのように手配致します」
「おじい様からの就職祝いにケチをつける訳にはいかないからな」
手にした風呂敷包をテーブルの上で広げれば、中には旅館の浴衣が入っていた。春を思わせる萌黄に襟元に淡い桃色がはわせてある。
「返品は不要との事です」
「気を使わせてしまったな」
一枚を手に取り袖を通す。体格のいいアルファの義隆が着ても、借り物感がまるでない仕立ての良いものである。
「旅行かばんはどちらに置きましょうか?」
田中は当たり前の顔で部屋の中に入ってきて、部屋の中を軽く見渡した。クローゼットのようなものはなく、壁にハンガーが直接かけられる仕様になっていた。
「そのソファーの上においてくれ。それと飲み物と食べ物なんだが……」
義隆が言い終わる前に田中が紙袋を出してきた。いったいどうやってこんなに大量の荷物を運んできたのか、はなはだ疑問ではあるものの、義隆はそれをありがたく受け取った。
「さすがは女将といったところか」
紙袋の中身は泊まっていた旅館からだった。一口サイズに握られたおにぎりに、綺麗にカットされた果物、それから旅館で人気の温泉水を使ったパンのサンドイッチ。この地域の天然水のペットボトルも入れられていた。
「重箱に入っているのが義隆様のお食事になります。温かいうちにお召し上がりください。重箱は食べ終わりましたら部屋の外に出しておいてください。回収しますから。それと、お食事についてリクエストがあればおっしゃってください。女将が誠心誠意対応しますと申し出てくださいましたから」
「ずいぶんと対応がいいな」
「一之瀬家は何代にもわたっての上客ですからね。御贔屓客ではあります」
「おじいさまにご連絡をしておこう」
「お願いいたします」
「貴文様のご家族と会社には私が連絡いたしますのでご心配なく」
「すまない」
田中はいったんラブホテルの事務所に戻ると、一之瀬家お抱えのシークレットサービスのリーダーと顔を合わせた。
「お疲れ様です。島野さん」
「お疲れさん。まさかうちの愚息が役に立つ日が来るとは思いませんでしたよ」
「実に素晴らしい偶然です」
「そういったところも、さすがは一之瀬様ってとかなんでしょうけどね」
「私は一度東京に戻り報告しなければいけません。あとはお任せしても?」
「了解。旅館から食事が届いたらお届けすればいいんでしたよね?」
「女将自ら来てくださいますので、間違うことはないでしょう」
「了解。ここのオーナーってやつはいまだに来ませんけど?どうします?」
「来るまで放置でいいでしょう。経営者として職務怠慢がすぎますからね」
「了解。お気をつけて」
田中が駐車場に出てみれば、身だしなみを整えた妹の麻子が立っていた。
「お兄様、東京にお戻りになるのでしょう?私も連れて行ってくださいな」
「真也は如何しました?」
「真也さんは私を置いて帰ってしまいましたのよ。ひどすぎません?私、あの部屋に一人で泊まりましたの。寂しかったですわ」
「寂しい思いをしているのは……」
「ですから、私も連れて行ってくださいな。お兄様」
「さっさと乗りなさい」
当たり前の顔をして麻子は助手席に座る。
「お兄様、私朝ごはんがまだですの」
「安心なさい。私もだ」
その日の午後、杉山家に来客があった。
「父さんやばい。外に停まった車、絶対に一之瀬様よ」
「どうしてわかった?」
「だって貴文が乗っていったやつの新型だもん」
「なんだって?」
リビングのソファーに座り、唯一の楽しみである競馬を観ていた父親は驚いて立ち上がり窓の外を凝視した。さして広くもない庭の低い塀の向こうにキラキラ光るこのあたりに似つかわしくない超が付くほどの高級車が停まっているのが見えた。たとえレースのカーテン越しでもはっきりとわかってしまう重厚なボディーだ。
「お父さん、大変」
パタパタとスリッパの音を立てながら母親がリビングに入ってきた。
「わ、わかってる。わかってるぞ。み、みんなで玄関に行こう」
父親がそう提案した時、インターホンが高らかに鳴った。
「貴文さんをいつまでも裸のまま寝かせていてはいけないな」
昨夜は若気の至りで飲まず食わずで、貴文の体を清めてそのまま寝入ってしまった。風邪をひかないように暖房を強めに設定したら空気がやたらと乾燥した気がする。布団の中で抱きしめて、唯一持っていた飲み物は貴文が途中のコンビニで買ったスポーツドリンクだった。春限定のベリー味なのだと言って、嬉しそうに買っていた。何とか貴文に飲ませはしたものの、明らかに足りてはいないだろう。
義隆は紙袋からペットボトルを一本取り出すと、一気に飲み干した。自分の食事の前に貴文に何か着せた方がいいのではないかと思い、義隆は貴文の旅行鞄に手をかけた。さすがに浴衣一枚では下半身が冷えるだろう。
「貴文さん、俺が用意した下着より自分で用意した下着の方がいいよな?せめてパンツは履いた方がいいだろう」
そうつぶやきながら義隆は貴文の旅行鞄を開けた。中はきちんと仕分けられていて、汚れたものはビニル袋に入れられているらしかった。
「下着と靴下はここか……」
そこの一角に入っていたものを取り出してテーブルの上に並べ、数を数えて義隆は唖然とした。二泊三日の旅行である。肌寒かった時のために薄手のセーターがあるのはわかる。だが、義隆には理解できなかった。
「貴文さん、どうしてパンツが三枚なんですかぁ」
それは貴文が持ってきたパンツの枚数であった。
おしまい
41
お気に入りに追加
329
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(54件)
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。



学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
お読み下さりありがとうございます。
貴文両親の脳内は年上攻めなんですね、きっと。ꉂꉂ(>ᗜ<*)
姉は何時でもストレート真っ向勝負です。内心ドキドキワクワクしているはずですが、腐女子にならないように抑えに抑えております。
高級車と言えば外国の車でボンネットにエンブレム付きのイメージですが、一之瀬家は国産が好きなのです。でもお下がりですから中古車ですねぇ(*´艸`*)でも、名義はそのまま!
お読み下さりありがとうございます。
一之瀬家お抱えのシークレットサービスがいい仕事してますから(*´艸`*)
きっと週刊誌に「一之瀬様と番様、100円ショップでお買い物!番様は庶民派?」との見出しが踊っていることでしょう。ワイドショーでも取り上げて、情報操作はバッチリですね。
経費で落ちます。
社会人にはたまらん言葉です。しかも自分で申請しなくていいだなんて(ᐡ o̴̶̷̥᷄ ̫ o̴̶̷̥᷅ ᐡ)電子申請結構めんどくさいんですよねぇ
お読み下さりありがとうございます。
オメガバースの世界において、「俺のオメガ」は最強の言葉で御座います。( *´艸`)
言わせたいじゃないですか。アルファ様に、言って欲しいワード第一位ですよ。きっと今年の流行語大賞間違いなしです。ε-(`・ω・´)フンッ
安心してください。
結婚式に招待する。と言う最大の自慢ができますから。お車代は一之瀬家持ちですね。