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第12話 おやすみなさい

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 吉高の連絡で、直ぐに緊急車両がやってきた。しかし、大切な番をもう誰にも触らせたくない一之瀬は、菊地を抱き抱えて乗り込んだ。
 菊地のメディカルチェックをする器具は、全て一之瀬がつけた。医療スタッフたちは何も言えずただ一之瀬のしていることを眺めるだけだ。
 一之瀬は医療系の企業人ではないのに、どの機械が何をするものなのか把握しているようだった。緊急搬送されたのにも関わらず、菊地は特別室に入れられて、巨大なベッドに寝かせられた。この部屋はホテル側がリザーブしている宿泊客用の一室だ。部屋専属の医師と看護師がやってきて菊地の容態を確認した。
 もちろん、一切菊地には触れられないままだ。
 菊地の着ていたものを脱がせ、医療用のパジャマを着せたのも一之瀬だ。ベッドに寝かせたことで菊地の体温が戻ってくると、頬に赤みがさし、呼吸も穏やかになった。

「ん……んぅ」

 意識が戻る際、菊地が鼻から抜けるような声を出した。たったそれどけのことなのに、そばに立っていた田中は何故か睨みつけられた。

「あ、れ?」

 何度も瞬きをして、菊地が目を開けた。あたりの様子をゆっくりと伺っているのか、瞳だけが動いている。

「一之瀬?」

 一之瀬を確認すると、菊地は突然半身を起こして椅子に座る一之瀬と向き合った。

「一之瀬のバカ」
「和真?」
「バカバカバカバカバカ一之瀬のバカ」

 叫ぶように口にした菊地の目からは涙が溢れていた。

「バカぁ、安全だって言ったじゃないかぁ」
「和真、すまない」
「怖かったんだからな、知らないアルファが来て、言葉通じないし」
「そうだな」
「首舐められて気持ち悪いし、フェロモンは臭いし」
「……そうか」

 菊地が口にした一言で、一之瀬のこめかみが小さく痙攣した。一之瀬が菊地につけたGPSの所在は気づかれなかったようだが、番の痕のある首を舐めた。とは由々しき事態である。

「それに、島野くんが……島野くん」

 菊地は目の前で激しく飛ばされた島野を思い出した。波飛沫と共に島野の体が菊地から離れていったのだ。菊地の伸ばした手が届かないほど、激しかった。

「昌也は、大丈夫だ」

 そう言って、一之瀬は菊地の頭を撫でた。

「ホントに? 島野くん無事なの? ……島野くん、死んでない? 生きてる? 怪我してるの?」
「昌也は死んでなんかいない。手当を受けている」
「やっぱり怪我したの? 骨が折れたりしたの? 島野くん……一之瀬が悪いんだからな。一之瀬が命令したから、一之瀬が安全って言ったのに、一之瀬の嘘つき!」

 一気にまくし立てると、菊地は最初よりももっと激しく泣き出した。まるで小さな子どものように癇癪でも起こしているかのようだ。
 何もかもを一之瀬のせいにして、そうしなければ菊地には耐えられない。何もかもを投げ出してしまいたい気持ちでいっぱいなのだ。

「和真、済まない。怖い思いをさせた」

 菊地の頭を撫でていた一之瀬の手が頬を撫でる。唇が何度か目尻を掠め、涙のあとを辿って下へと降りてくる。そうして口の端の辺りを何度か啄むようにしてから、ゆっくりと重ね合わせてきた。
 泣いている菊地の喉から、低い唸り声のような嗚咽が響く。それが一之瀬の唇で塞がれて、途切れがちになり、やがて聞こえなくなった。

「騙すな」
「和真、騙されて?」

 再び一之瀬が菊地の口を塞げば、菊地の手は縋るように一之瀬のシャツを掴んでいた。一之瀬の手が菊地の体を包み込むように回されている。
 田中は足音を立てずにゆっくりと扉に向かい、そして音を立てずに扉を開閉した。その足で向かうのは島野のいる病室だ。こちらもホテルのリザーブしている宿泊客用の部屋になる。護衛担当者に随分な待遇ではあるが、経緯が経緯なためあちらの全面負担での対応だ。

「容態は?」
「腹全面に内出血、肺の一部が潰れた」
「ジェットスキーに跳ねられてその程度で済むとは」
「昌也は跳ねられてはいない」
「映像を見る限り、跳ねられたとしか思えませんが」
「奥様がフロートに乗っていただろう?」
「そうでしたね」
「アレがクッションになったんだ。どちらかと言えば、アレが破裂した衝撃を受けた」
「なるほど、あの派手な音はフロートが破裂した音でしたか」

 田中は島野にかけられたシーツをめくった。内出血した腹が痛々しい色に染まっている。

「酸素マスクはさっきはずした。昌也が嫌がってな」
「内臓に問題は?」
「なかった。本当にあのフロートがいい仕事をしてくれた。何か問題が?」
「奥様が昌也を心配しているんですよ」

 田中はため息混じりに言った。

「友だちと言い張っているからな」
「それで匡様は酷く罵られてましたよ」
「それはこちらでは防ぎようがないな」
「オマケにあのバカイタリア人、奥様の項を舐めたらしいですよ」
「それは、まずいんじゃないか?」
「今は奥様を落ち着かせるために穏やかなふりをしてますが……どうしたものか」
「相当な制裁を科さないとならんだろうなぁ」

 吉高はどうしたものかと頭を悩ませた。相手方とは特に何の取引もしたことが無い。一之瀬グループの会社関連でも、これといった取引の履歴も見当たらない。

「匡様が相手を殺しかねないほどなんですよ」

 菊地がポロリと発した一言で、一之瀬のこめかみが痙攣していたのを田中は見逃してなどいなかった。

「そうだなぁ、ジェットスキーに乗っていた時もサラッと殺す。とか口にされたからなぁ」

 吉高は更に考え込んだ。一之瀬が菊地を手に入れるのにどれほどの歳月と労力を注ぎ込んだのか見てきたからだ。それはもちろん、田中も同じことで、二人は見つめあったまま黙り込んだ。

「ああ、そうだ」

 田中がふと何かを思い出した。

「スペインではオレンジの買い付けをするんですよ」
「それが?」
「奥様はオレンジジュースが好きなんです」
「……どういう意味だ?」
「美味しいものを提供していただきましょう」
「美味しいもの?」

 全くピンと来ない吉高は首を捻る。けれど、田中は楽しそうだ。

「日本人はイタリアの美味しいものが大好きですからね。奥様へのお詫びとして珍しくて美味しいものを提供して頂きましょう」
「そんなんでいいのか?」
「奥様は、三ノ輪家の由希斗様とSNSを始めるんですよ」
「それが?」

 田中の言っていることが、吉高の中では全く結びつかない。

「名家の箱入りオメガの由希斗様と、運命の番で後天性オメガという都市伝説級の奥様ですよ? インフルエンサーとしてはこれ以上ないでしょう?」
「……独占禁止法違反」
「問題ありませんよ。お詫びの品として奥様に献上して頂くんですから。それを奥様のお土産としてショッピングモールに出店している店舗で配ることは何も問題などない」
「その後で販売するんだな」
「そうですね。手に入れられなかった方々が問い合わせをしてくるでしょうから」

 田中は嬉しそうに笑うと、直ぐにメールを作り始めた。恐らく蘇芳に報告と確認をかねて送るのだろう。一之瀬は菊地を宥めるために当分つききっりになるはずだ。護衛の島野はしばらく安静にしなくてはならない。島野の代わりも兼ねるから一之瀬は忙しくなる。なにしろ愛する番にあんなことを言われてしまったのだから。

 ところで島野は起きていた。
 だがしかし、田中と吉高が島野そっちのけで盛り上がるから寝たフリをし続けるしか無かったのだ。

(どっちも俺の心配してねぇし、絶対匡様、はらわた煮えくり返ってるよ)

 体は大して痛くはないけれど、頭が痛くなってきた。とりあえず、ここでいい思いができるようなので享受しようと思うのだった。



 ───────オマケ───────


「なぁ、一之瀬」
「どうした和真?」

 一之瀬に縋り付くようにしている菊地が、不意に真顔になった。そうして怪訝そうな顔をして一之瀬を見る。

「タコとか、そんなの触った?」
「いや、触ってなどいない」
「そう?」

 眉間に皺を寄せ、菊地は一之瀬の腕の辺りに鼻を寄せる。何か不快な匂いを感じ取り、首を傾げた。

「何か、匂うのか?」

 不思議に思って一之瀬が聞く。確かにジェットスキーに乗って海を疾走したから、それなりに潮の匂いが付いてはいるとは思うけれど、片腕だけが匂うというのもおかしな話だ。

「なんか、生臭い? あいつの匂いも嫌な匂いだったけど、一之瀬の腕からもそんな感じがするんだよな」

 もう一度鼻を寄せて匂いを嗅いで、やはり菊地は不快感顕わな顔をした。
 そんな番の顔を見て、一之瀬はふと考えた。そもそも今日はパーティーに参加したのだった。その時、何があったか思い出してみれば、確かに思い当たる節がある。

「そうか、和真。生臭いのか」
「う、うん」
「わかった。一緒に風呂に入ろう。和真もあいつに舐められて気持ちが悪いだろう?」
「え? うん、まぁ、そうだな」

 菊地が曖昧な返事をすると、直ぐに一之瀬が菊地を抱き抱え歩き出した。

「え? 風呂って?」
「部屋に風呂ぐらいついているから安心しろ」

 有無を言わさず一之瀬が菊地を脱がして、そのままそれはそれは丁寧に洗われたのは言うまでもない。
 そして、本日一之瀬が来ていたシャツは生ゴミとして捨てられたらしい。
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