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第3話 楽しみです

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 夕日が見える頃になって、ようやく乗り込んでみれば、菊地はプライベートジェットのプライベートたる所以を知ることになった。

「えぇ」

 海外の大物映画スターがプライベートジェットで記者からの取材を受けながら移動、なんて言うのはワイドショーでみたことがあったが、ソレとはまた別物だった。

「ごめんな和真」

 菊地の驚いている意味をほんの少し誤解した一之瀬が謝る。

「え?なに?」
「リモートでこなせる仕事はやらなくちゃいけないから、ビジネスゾーンがあるんだ」
「ん?リモート?」

 菊地が驚いているのは、飛行機の中に会議室のような設備があったことで、別に新婚旅行なのに仕事を持ち込んでる。と腹を立てた訳では無い。

「あらかた仕事は片付けてきたんだが、会議はリモート参加が出来てしまうんで、な」

 若干歯切れの悪い一之瀬に、菊地はようやく理解が届いた。

「別に俺怒ってないよ?社長さんが一ヶ月も何もしないで休めるわけないもんな」

 菊地はそう言うといかにも社長の椅子といった雰囲気の革張りの椅子に座った。

「すっごーい、フカフカ」

 子どものようにはしゃぐ菊地を見て一之瀬は目を細めるが、すかさず島野が割って入る。

「まずは座席に座って下さい」

 菊地はまったくみていなかったけれど、怖い顔をした一之瀬の護衛が立っていた。昔からいる人だから島野は見慣れているのだけれど、今日初めてみる菊地は絶対に驚くだろう。

「え?座席ってこれなの?」

 今度は座席を見て驚く菊地は、目を何度も瞬かせてまじまじとこれから自分が座るべき座席を見つめた。

「和真、座って?」

 仕方なく一之瀬が菊地を座らせ隣の座席に座った。隣の座席とは言っても離れている。菊地はその座席間の隙間を見てまた驚きの顔をするのだった。

「離陸して安定したら歩けるからな」

 回りをキョロキョロと見ている菊地に言い聞かせるように一之瀬は言って、ベルトをはめた。護衛の島野も指定されている座席に座った。隣には怖い顔をした一之瀬の護衛が座った。
 飛行機で護衛なんて、菊地にバレてからは初めてだ。学生時代も社会人になってからも、あくまでも友人として一緒に出かけていたけれど、この距離感に島野は内心ドキドキしていた。それなのに、菊地はベルトをしめているにもかかわらず、後ろをふりかえって島野の姿を確認してきたのだ。そうして島野の姿を見て嬉しそうに笑うのだ。
 これにはさすがに島野は困った。前を向いて欲しいけど、以前のようにジェスチャーで指示するわけにもいかないし、大きな声を出すのもはばかられる。

「こら和真、ちゃんと座って」

 島野の心の声が聞こえたのか、一之瀬が菊地を嗜めた。プライベートジェットだから、乗る人数も荷物もここにいる人だけだ。菊地が前を向いたのを確認したのか、飛行機が動き出す。

「えー、窓が遠い」

 そんなことを言われても、窓は遠いのだ。窓際の席なんてものは存在しない。菊地の不満そうな声を聞いて、一之瀬が手を伸ばして菊地に何かをしている。後ろに座る島野から見えるのは座席の隙間だけだ。おそらく一之瀬は菊地に何かを言っているのだろう、菊地の不満そうな声の断片が聞こえる。
 安定飛行に入ると直ぐに一之瀬が立ち上がった。隣の菊地が一之瀬の後を着いて移動する。

「ここで会議するの?見ててもいーい?」

 菊地は飛行機でするリモート会議に興味があるらしく、それらの準備をする一之瀬の護衛兼秘書の吉高に視線が釘付けだ。
 吉高は菊地の護衛と違ってアルファなので、まず体が大きい。そして、菊地の護衛と違って強面だ。そのせいもあって、菊地は普段より半歩ほど離れていた。

「和真、こっちにおいで」

 椅子に座って資料を確認していた一之瀬が、菊地を手招きした。一之瀬に呼ばれると直ぐに菊地は一之瀬の元へと移動した。

「飛行機って、インターネット繋がるんだね」
「そうだな。最近は国内線も機内でWi-Fiが接続できるようになっているだろう?」
「ああ、CMでやってるね」

 そんな会話を交わしながらも、菊地は一之瀬ではなく吉高の手元を見続けていた。パソコンの設定を手早くこなし、カメラの向きを合わせている。一之瀬が、目を通している資料の説明までしている。要するに秘書兼護衛ではなくて、護衛もできる秘書ということなのだろう。菊地は一之瀬の脇でたっているのだが、吉高は見上げるほどに大きかった。

「なにか?」

 菊地からの視線に気がついてはいたけれど、ただ単に初めて見るから見られているだけだと思っていたのに、まだ見られ続けていることに吉高はようやく反応をした。

「大っきいなぁ、って思って」

 ベータとして平凡に生きてきた菊地は、男性としては平均的な身長だ。ただオメガとしては大きいだけだから、アルファの成人男性を間近でみて普通に驚いているだけだ。

「身長は198センチございます」

 具体的な数値を教えた方が良さそうだと、聞かれる前に吉高は答えた。何しろこれからリモートで会議をするから、そんなに菊地の好奇心に構ってはいられない。

「2メートルはないんだ。でも、やっぱり大きいなぁ、島野くんはベータだから俺とそんなに身長変わらないけど、やっぱり一之瀬を守るには大きさ必要なんだね」

 菊地は一人納得したようで、一之瀬の傍から離れていった。

「仕事の邪魔はしないから安心して」

 そう言われてしまうと、菊地を隣に座らせるわけにもいかず、一之瀬は吉高と確認し合いながらリモート会議を始めた。
 菊地は同乗しているキャビンアテンダントに飛行機の中の説明をしてもらい、満足していた。歳なんて関係なく、男の子は探検が大好きなものだ。普段見られない飛行機の内部を心ゆくまで見せてもらえて好奇心が満たされた。なぜなら操縦室も見せて貰えたから。
 本来ならダメらしいのだが、菊地に番がいるから機長のアルファに影響は出ないだろう。と機長が招待してくれたのだ。できるだけ菊地を一之瀬から離しておく為の措置だ。オートモードで飛行しているからと言って、記念写真も撮らせてもらえたから菊地はご機嫌だ。
 そのご機嫌なまま座席に戻り、島野から渡されたタブレットに見入る。もちろん島野が菊地に見せたのはこれから向かう現地の情報だ。青い海に白い砂浜、そして海辺に建つチャペル。宿泊施設はコテージでプライベートビーチもついている。

「凄い!海の水が透明だ」

 ダイバーが撮影したらしい映像を見て菊地は興奮を隠せない様子だ。ほんとうに目をキラキラさせて食い入るようにタブレットの画面を見つめている。キレイな海の中を派手な色合いの熱帯魚が泳いでいる。海の水は透明で視界は良好だ。

「スキューバの資格とっておけばあよかったなぁ」
「大丈夫だよ。プライベートビーチでも十分に魚が見られるから」
「本当?」
「シュノーケルで十分だから」

 そう言いながら島野は画像を切替える。ページは宿泊者向けの説明が書かれているページだ。けれど、書かれているのが英語だから、菊地には意味が分からない。

「島野くん、俺英語読めない。英検2級は受験のためにとっただけなの知ってるよね」
「大丈夫、俺は1級とったから」

 こんなところで友だちの裏切りにあい菊地は口をへの字にする。

「書いてある英文を翻訳して流すから聞いて」

 島野が画面を軽く操作すると、タブレットから日本語が聞こえてきた。若干イントネーションがちぐはぐなのは翻訳ソフトの性能によるのだろう。
 菊地は口をへの字に曲げたまま、静かに聞いてくれた。滞在するホテルの禁止事項などを予め知っておいてもらわないと、後々トラブルの元だ。いくら日本の名家一之瀬の番とは言えど、禁止事項は守らなければならない。
 菊地が随分と真剣にタブレットとにらめっこをしてくれたから、一之瀬のリモート会議の間、マイクがうっかり菊地の声を拾うことは無かった。

「和真、熱心だね」

 上から一之瀬の手が降りてきて、菊地の髪をくしゃりと撫でる。菊地の傍らで待機していた島野は静かに菊地のそばを離れた。

「うん、分かりやすかった」

 ずっとタブレットを持っていて疲れたのか、菊地は膝の上に置いて大きく伸びをした。

「熱帯魚を見たいのか?」
「うんそうだね。泳ぎながら見られるなんて凄いじゃない?」

 菊地が無邪気に言ってくるから一之瀬は内心嬉しくて仕方がない。菊地の希望を聞きつつもなんの相談もしないで決めてしまったから、本当は緊張していたのだ。愛する番の口から「こんなんじゃない」「思ってたのと違う」なんて言われたらショックで立ち直れないというものだ。なにしろ、菊地本人の口から「昔は一之瀬が嫌いだった」なんて事も聞かされているのだから。

「ところで和真、そろそろ食事の時間なんだけど」

 一之瀬に言われて菊地はふと時計を見た。タブレットの左上の時刻がなんだか変だ。

「その時計は、たぶん目的地の時刻を表示しているかもしれない」
「なんで?」
「日付変更線をまたぐからな」
「そう、なの?」

 菊地は小首を傾げて一之瀬を見ている。一之瀬は頭の中で素早く考える。菊地はベータとして生きてきて、それなりに優秀だった。もちろん勉強ができる仕事ができる。といった意味合いでだ。けれど、こうしてみるとどこか抜けている。今まで見ていたタブレットでの情報をどんなつもりで受け止めたのか謎だ。

「和真、目的地が分かっていない?」

 一之瀬は確かめるように聞いてみた。

「え?場所は分かってるよ。テティアロア島だよね?」
「場所……何処に位置するかは?」
「それはわからなかった。聞いた事ない島だし。移動に12時間近くかかるって、随分遠いよね?」
「和真、その島はここにあるんだ」

 一之瀬はタブレットで地図を出すと目的地の島を示した。日本から随分遠い。ハワイより遠いのがわかった。確かに日付変更線を超えた先にあった。

「和真が前に言っていたタヒチ島の近くではある。同じフランス領だ」
「へ、へぇぇ」

 説明されたところで菊地にはピンとこなかった。そもそもタヒチが島で国ではなかった事も知らなかったのに、フランス領とか追加の情報も理解力が追いつかないというものだ。
 何度も瞬きを繰り返す菊地を見て、一之瀬は軽く口の端を上げた。一緒に暮らし始めて、菊地のこの仕草は何度も見てきた。その度に可愛いと思っているし、何回でも見たいと思ってしまう。
 だから、島野がタブレットでの説明を菊地にした時、余計なことをしてくれた。と思ってしまったのだが、菊地は注意事項を理解しただけだったことを内心喜んでしまったのだ。
 菊地の変なところで真面目と言うところが幸をなした。と言ってもいいだろう。

「だから、食事をして寝ているうちに日付変更線を超えるからな」
「うん、分かった」

 食事をこのまま座席で食べるようで、キャビンアテンダントさんが会話の途切れたのを上手い具合に察してテーブルのセッティングをしてくれた。メニュー表を渡されて見てみると、それは単なるお品書きだった。どうやら機内で食べるものは既に決まっているらしい。

「凄い!美味しそう」

 出てきた食事は和食で、お椀の蓋をとると中にはハマグリが入っていた。

「うわぁ」

 菊地は一口大に作られた稲荷寿司を口にして、ゆっくりとハマグリのお吸い物を飲んだ。

「美味しい」

 ゆっくりと食事を終えると、今度はピンチョスと呼ばれる物が出された。そして足の付いた細長いグラスが二つ。

「お酒、飲んでもいいの?」

 一之瀬が手にしたのは菊地でも、知っているお高いやつだ。SNSなんかだとオシャレな女子会なんかでイチゴをいれてたりするやつだ。
 こんなタイミングで、ピンク色した泡を出してくるなんて、やっぱり一之瀬はロマンチストなのだろう。

「どうして?和真と俺の新婚旅行なんだよ?お酒がはいった可愛い和真を俺にも見せて?」

 そんなことを言ってグラスにピンク色した泡をそそがれたら断るなんてできるわけが無い。いまは座席になっているけれど、このままベッドにもなってしまう構造だ。うっかり潰れてもなんの問題もない。

「「乾杯」」

 もはや何に?なんて聞くだけ野暮なのだろう。菊地は覚悟を決めてピンク色した泡を口にした。口の中を刺激してくる微かな感触を久しぶりに味わって、ゆっくりと嚥下した。
 グラスを口から離すと、自分を見つめる一之瀬と目が合った。その目元が嬉しそうに弧を描いている。

「炭酸は苦手だったよな?大丈夫か?」

 飲ませておいてそんな心配をする一之瀬がおかしくて、菊地は思わず笑ってしまった。ピンク色したお酒がいいのなら、泡でなくても用意できたはずなのに。

「SNSにあげるのに、こちらの方が映えると由希斗が教えてくれたんだ」

 一之瀬は素直に白状するとイチゴの入ったグラスを菊地のテーブルにおいた。そうして静かにピンク色した泡を注ぐ。

「写真、撮るんだろう?」
「……い、いいの?」

 菊地は一之瀬の顔をみて、それから回りをキョロキョロと見渡した。あの怖い顔をした秘書の吉高に怒られたりはしないのだろうか?

「はい、どうぞ」

 島野が新しいスマホを菊地に渡してきた。人気のある最新モデルだ。4Kで動画の撮影が出来てしまえるのが売りになっている。

「この旅行の為に用意した。俺の番号と島野吉高の番号も入っている」
「ありがとう」

 菊地は早速一之瀬が用意してくれたグラスを写真におさめた。機内の明かりがグラスに反射するのがキレイにおさまった。
 撮れた写真を一之瀬に見てもらいながら、菊地はふと思い出した。

「ねぇ、こーゆーの撮りたい」

 そう言ってグラスを合わせる。けれどその状態にするとスマホのシャッターが押せない。

「お預かりしますよ」

 すかさず島野がやってきて、菊地の撮りたい構図を確認しながらシャッターボタンを押す。何度か確認して、ようやく気に入ったのが撮影できたから、嬉しくて菊地はグラスの中身を一気に飲み干した。

「飲んだらすぐ寝られるって凄いね」

 ふにゃりとした笑顔を一之瀬に向けると、菊地は背中を座席に預けた。大して飲んでいないのに、目元は赤くなって目が潤んでいる。

「ふわふわしてて、気持ちいい」

 そう言い残すと目を閉じてしまった。
 直ぐに座席はフラットにされて、菊地に毛布がかけられる。一之瀬の座席もフラットにしたけれど、一之瀬は菊地の寝顔を眺めながら続きを嗜んだ。
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