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第2話 ただいま準備中
しおりを挟む飛行機が出発するのは夕方なのに、朝から空港に来ていた。
いつもの運転手の高橋が空港まで連れてきてくれて、ラウンジまで案内してくれた。島野がいるから十分だと思ったのだけれど、国際空港は人の出入りが激しいから危険だと言われてしまった。
確かに、菊地は海外旅行なんて一回しかしていないから、全くもって勝手が分かっていなかったし、島野だって初めての旅行の護衛だから、不安ではあった。
空港のラウンジは、プライベートジェット専用なのか、他の人はいなかった。食事も取れると言われたけれど、ショッピングモールのような作りに菊地の興味は完全に奪われていた。
飛行機に乗ったら約十二時間も座っているか寝ているかになるのだから、菊地は今のうちに歩き回っておこうと考えたのだ。たくさんの歩いて疲れてお腹をいっぱいにしたらきっとぐっすりと寝られるはずだ。
「和食のお店が多いんだね」
菊地は普段通りに島野に話しかける。一応護衛なんだけど、島野に接する菊地の態度は完全に友だちのそれだった。だから、傍から見れば仲の良い男友だちか、男性カップルに見えるだろう。何しろ高橋が少し離れているからだ。
お上りさんよろしく菊地は興味のある所にチョロチョロと移動する。その後ろを島野がついて行く。流石に手を繋ぐわけにもいかず、島野は回りの様子を伺いながら常に隣のポジションを取り続けた。
「やっぱり、海外だと生魚食べられないのかなぁ?」
回転寿司の前で菊地が考え込む。一之瀬のたてたプランは一ヶ月もかかる新婚旅行で、映そうな場所での二人っきりの結婚式ツアーだ。南の島でのウェディングから始まりヨーロッパ諸国を回って観光と写真撮影をしまくる。もちろん日本食のお店を日本人がやっていたりもするけれど、そういうところは人気がありすぎて人が多いのだ。アルファの独占欲でそういった店には入れないだろうから、島野はやんわりと伝えなくてはならない。
「日本人が経営する日本食の店はあるけれど、人気があるからな」
「そっかぁ、一之瀬が貸切にしそうだもんな。迷惑かけちゃいそうだから、我慢しよ……うん、だから今食べとこ」
菊地はそう決断して、島野の手を引いた。
「え?」
「お寿司食べよう。お寿司、島野くん」
どうやら菊地は島野と一緒に食べるつもりだったらしい。そんなつもりは全くなかった島野は、離れたところに立つ高橋に目線を送った。
けれど、高橋は島野に向かってシッシッと言うように手を振ってきたのだ。それはつまり、さっさと店に入れ。ということなのだろう。
菊地に引きづられるように店に入ると、すぐに威勢の良い声がかけられた。
席を案内する店員が、チラと菊地の首元に視線を向けたのが分かった。島野が店員の顔を見ると、店員は心得たように奥のボックス席を案内してくれた。不本意だけど、手を繋いでいたのが良かったらしい。番のオメガを見るな。と牽制されたと勘違いしてくれたようだ。割と平凡なベータなのだが、護衛として鍛えていたことで、店員は島野をアルファと勘違いしてくれたようだった。もちろん、そんなやり取りが自分の背後で行われていたことなんか菊地は気づいてなどいない。
「ボックス席、ゆったりしてていいね」
菊地は呑気にそんなことを言いながら、メニュー表を眺めている。島野は内心どうしたものかと考えていた。まだ、公にしてはいないから、菊地があの一之瀬匡の番だとはバレてはいないはずだ。けれど、不特定多数の人が触れられる回転寿司だから、出来れば注文した物を食べてもらいたい。というのが本音だ。
「お客さん、これから出国で?」
カウンターの中から声をかけられて菊地がパッと顔をそちらに向けた。人の良さそうな笑顔を見て、菊地の顔がへにゃりと歪む。
「うん、そう、これから出国なんだ」
「じゃあ、美味いマグロ食べた方がいいね」
「そうだね、マグロ。美味しそう……島野くんも食べよう?」
「あ、うん」
急に話を振られて島野は驚いたけれど、人の良さそうな職人さんは優しい笑顔を島野にも向けてきた。
「二皿でよろしいですか?」
「うん、あっ、いっぱい食べたいから四皿下さい」
菊地が元気よく答えると、職人さんも元気よく返事をする。あっという間にマグロの寿司が乗った皿がの四皿テーブルに並んだ。
「茶碗蒸しも注文しよ。島野くんも食べる?」
「あ、うん」
菊地が楽しそうに注文するから、島野は断ることが出来なくて、茶碗蒸しも食べることになってしまった。
「お客さんはどちらに行かれるんです?」
カウンターの中からの問いかけは、空港店ならではのお約束みたいなものなのだろう。
「うん、あのね……新婚旅行なんだ。南の島で結婚式するの」
菊地はちょっと照れながらも包み隠さず答えてしまった。カウンターの中にいる職人たちからも菊地の首に巻かれたネックガードが見えていることだろう。そうなると厄介なのは、こうして一緒に食事をしている島野が相手だと思われてしまうことだ。
「それはおめでたいですねぇ、じゃあ御祝儀だ」
そんなことを言って、カウンターの中から職人が小鉢を2つ出してきた。
「え? ありがとうございます。これなんですか?」
出された小鉢をまじまじと見つめ、菊地が問うた。小鉢の中に入っているのはオレンジと灰色の混じりあった不思議な物体だ。
「あん肝ですよ。日本ならではの珍味でしょ?」
「うわぁ、俺初めて食べる」
そう言って菊地はほんの少し口に運んだ。
「うわぁ、美味しぃ。お酒……はダメか」
あまり飲んだことは無いけれど、日本酒が合いそうだと考えた菊地は、それでも目の前に座る島野を見て思い直した。
島野は仕事中なのだ。
「大丈夫じゃない? 酔っ払ってなければ飛行機にはのれるから、それに出発までまだ時間あるし」
うっかり抑制剤のことを口にしそうだったけど、朝飲んで、この後は飲まないだろう。何しろ新婚旅行だ。貸切の島にコテージだ。発情期近い菊地のフェロモンが漏れてもなんの問題も無いはずだ。
「え? いいの? じゃあ熱燗ください」
「熱燗も海外じゃそうは飲めないからねぇ」
程なくして出てきた熱燗には、やはりお猪口が二つついてきた。
「はい、島野くん」
菊地が嬉しそうにお酌をしてくるから、断れなくて島野は一口飲んだ。
「美味しいね?」
菊地からトドメのようにそう言われれば、島野は素直に頷いた。これではどう見ても菊地の相手は島野だ。しかも苗字で呼び合う初々しいカップルだと見られているのだろ。
「飲みすぎは……」
「うん、抑制剤飲むから程々にしておくね」
島野が最後まで言う前に、菊地があっさりと口にしてしまった。ますます回りから番の、カップルだと思われる。菊地は全く気にしていないようで、届いた茶碗蒸しを嬉しそうに口に運んでいた。
「うわぁ美味しぃ。俺茶碗蒸し好きなんだけど、自分じゃ上手く作れないんだよねぇ」
「え? そうなの?」
菊地が食事を作っていることを知っている島野は、意外な話を聞いて素直に驚いた。
「うん、卵って火がとおりすぎるとすが出来ちゃうんだよ」
「あ、あのちっちゃい穴のこと?」
「そうそう」
傍から見れば楽しそうな番カップルの食事風景になってしまっているけれど、島野は本当にヒヤヒヤしていた。これは絶対に一之瀬からお仕置コースだ。移動の飛行機で寝かせて貰えないとか、そういうことになりそうだ。
「しめはやっぱり納豆巻きかな?」
「俺はかんぴょう巻がいいな」
けれどやっぱり今までのくせで、しめに注文する巻物を口にしてしまう。そうして半分ずつ交換するのも以前と同じだ。
「ふぅ、食べ過ぎたかなぁ?」
「 時間があるから少し歩けばいいと思うよ」
「うん、そうする」
素直に島野の提案を受け入れて、菊地は会計の時に一之瀬から渡されていたクレジットカードを出してきた。タッチ式だから店員に名義が見られることはなかった。
カード会社のセキュリティに信頼をおきつつ、島野は後ろの高橋が気になっていた。高橋は一定の距離を保って着いてきている。島野はそれに安心しつつ、菊地の散歩に付き合うのだ。
「飛行機で、上手く寝られるかなぁ」
菊地は小さな枕やクッションが並ぶ店でアレコレ手に取って悩んでいた。この手の店で売られている首用の枕やクッションは、パックツアーなんかで飛行機に乗る人むけなのだが、菊地はよく分かっていないらしい。あんまりハッキリ言ってしまうのは、営業妨害になりそうだし、何より偉ぶっているようでよろしくない。
「あのさ、菊地くん」
島野は小声で菊地を呼んで、店の外に連れ出した。そうしてある程度距離を取ってからまた小声で話す。
「菊地くんが乗るのはプライベートジェットで、座席はファーストクラスとほぼ一緒なんだよね」
「え?」
ファーストクラスという単語はきいたことがあるけれど、見たことがないから菊地からすれば夢のような場所である。
「座席がね、寝る時はフルフラットになってほとんどシングルベッドみたいな感じになるんだよ。枕も毛布もあるから普通に寝られるよ」
「え? そうなの?」
菊地が普通に驚くから、逆に島野の方が驚いた。
仮にも一之瀬家の嫡男と番になって新婚旅行に行くと言うのに、ビジネスクラスにでも乗るつもりだったのだろうか? 新幹線のグリーン席と飛行機のファーストクラスを同一と考えていたのだろうか? なんにしたって、菊地はまだまだ素朴なようだ。
「うん、だからお気に入りのタオルとか入れたでしょ?」
「ああ、そういうことだったんだ」
「あのね、菊地くん。匡様は社長業をしてるわけだからさ」
ようやく島野は言いたいことが口にできた。名家の一之瀬の長男で、社長を務めるアルファなのだ。住んでいるところから考えればどんな旅行になるのか想像するのは簡単な事だと思っていたのに……菊地は全く想像なんてしていないのだ。
「ああ、うん、ごめん。俺さぁ、プライベートジェットがどんなのかまったく想像出来てなかった」
「うん、普通そうだよな」
島野だって、護衛の仕事があるからこそ、プライベートジェットがどうなっているのか事前に知り得ただけだ。一般人ベータなら普通は知る必要なんてない事だ。
「それに、そろそろ」
島野は腕時計に目をやった。一之瀬が空港に向かってくる頃だ。フラフラしてないで待っていた方がいいだろう。
「あ、うん……一之瀬が来ちゃうよね」
さすがにそこは察してくれた。けれど、菊地はキョロキョロと辺りを見渡す。
「……こっちだよ、菊地くん」
島野は小さくため息をついて菊地の手を引いた。これでは護衛と言うよりお世話係だ。学生時代はここまでポンコツではなかったから、やはりオメガ特有の発情期が関係しているのかもしれない。新婚旅行中に発情期が来るらしいから、まだ慣れていない菊地はどこか不調になるのだろう。
島野は菊地を目的のラウンジに連れていくと、ようやく一息つけた。高橋が扉付近に静かに立っていてドキリとしたが、菊地は気づいてはいないようだ。
「ここのオレンジジュースも美味しい」
菊地は相変わらずオレンジジュースを貰って飲んでいた。ソファーに座ってくつろぎながら、グラスを持って飲むその仕草はどこか子どもっぽい。多分それがアルファから見れば庇護欲をそそるオメガなのだろう。
沢山歩いたからなのか、菊地はちょっとしたデザートまで口にしていた。気に入ったのか、菊地は体を揺らしながらデザートを食べていて周りの状況に気づいてなかった。
「おまたせ和真」
ゆらゆら揺れる菊地の背後から、一之瀬がそっと抱きついた。
「ふぁ」
余程驚いたのか、菊地の手からスプーンが落ちてしまった。
「ぁあ」
菊地は一之瀬が来たことよりも、スプーンを落としてしまったことの方が重大だったらしく、落ちたスプーンに視線がいったままだ。
「こちらをお使いください」
そんな状態の菊地に、素早く新しいスプーンを差し出して、落ちたスプーンを回収するとコンシェルジュはカウンターの中に隠れてしまった。
「もぉ、一之瀬はぁ脅かすの禁止な」
新しいスプーンでデザートを一口すくうと、それを躊躇いなく一之瀬の口へと運んだ。
「欲しかったらちゃんといって?」
一之瀬の行動の心理が分かっていない菊地は、ニコニコしながら残りのデザートを自分の口に運ぶのだった。
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