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◇ 第壱話:匣ノ怪 ◇
【 第二幕 】1/3
しおりを挟む「あ」
「えっ!?」
二時間目の始まりを告げる、間延びしたチャイムが鳴り終わる寸前。研究室に滑りこもうとして、勢いよくドアノブを引いてしまった友人を制止するには、いささかタイミングが遅すぎた。
扉の真後ろでグラリと傾いた、高さの限界を超えて積まれた本の山。その上に置かれていた、紙の本より厄介なコピー用紙の束。
辛うじてバランスを保っていた、重ねるだけ重ねた文献資料から扉という唯一の支えを奪えばどうなるか。行き着く答えは、ひとつしかない。
「きゃっ!?」
勢いよく雪崩を起こして、廊下まで散乱した大量の本と紙の不意打ち攻撃に、短い悲鳴が上がった。扉を盾に雪崩をやり過ごして、数秒間の沈黙が満ちたのも束の間。
朝香ゼミ唯一の女生徒・上水梨子の八つ当たりじみた叱責の声が響き渡る。
「マツリ先生っ!! せめて床だけは死守してくださいって、何度も言ってるじゃないですかっ!!」
眦を吊り上げて怒った梨子のよく通る声は、研究棟中を駆け抜けた。何事かと自分たちの研究室の扉を開けて顔を覗かせた他の教授陣は『また朝香がやらかして、生徒に怒られているのか』と察した途端。ほけほけと笑いながら、様子見に出した顔を引っ込めていった。
「とりあえず。全員座ってくれと、言おうと思ったんだが……?」
踏み入る者すべてを拒むように散らばった本と史料を印刷したコピー用紙のせいで、座るどころか研究室にすら入れやしない。障害物を踏みつけて越えていかない限り、どう頑張ったって侵入は不可能だ。
研究室の入口から向けられる冷ややかな三対の視線に、朝香がきょとんと首を傾げる。ややあって辺りを見渡して、ようやく酷い有様になっていることを自覚したらしい彼女に、冷静な春樹のツッコミが炸裂した。
「無理に決まってんだろ? この状態でどう座れと?」
「毎度毎度、片付けさせて。悪いとは思っているぞ、心から」
積み重ねられた本の山が椅子の上にまで置かれたあげく、うっかりぶちまけたであろうコピー用紙が広がる床では、椅子を引いて座るスペースを確保することすらできない。
いい加減に部屋の汚さに気付いてくれ、と。言葉の裏側に持たせた含みに、もう一度謝罪の言葉を朝香は口にした。蔑む色のかすかに交じった視線に、さすがに不味いと自覚したらしい。
梨子が到着する、数分前。先に片付けを始めようと思って、研究室に向かったはずの俺たち二人のやる気は、あっけなく削がれた。
細身の人間がギリギリ通れる扉の隙間に、朝香は器用にも身体を滑り込ませた。喋りながら彼女の後ろを着いてきた俺たちは当然、中途半端に開けっ放しにされたままの扉を更に引き開けようとした。
扉を閉めなかったのは、彼女の親切心だったのだろう。けれども、扉に隠れた位置に積み重ねられた本とプリント束の山を視界の端に見つけた瞬間。春樹と揃って、目にも留まらぬ速さで扉を叩き閉じた。
隙間を探して他人の家に上がり込む野良猫じゃあるまいし、自分の研究室に入るだけなのに、何故細心の注意を払わなくてはならないのか。何も考えず扉を開けて普通に入れなくなった時点で、中の惨状に気付いてくれ。
さて、どうする。顔を見合わせて、春樹と真面目に考えた。朝香に片付けろと指図したとしても、更なる混沌とした場を創造される可能性の方が高い。いっそのこと扉を開けて、全部ぶちまけるか。
そうこうしているうちに。決めかねていた俺たちの代わりに、何も事情を知らない梨子が扉を開けてしまった。
どちらにせよ片付けなければならないのだから、それは構わないのだが。目の前に晒された、想像以上に酷い荒れ果てた光景には、現実逃避をしたくなる。
「はあ……新学期早々、片付けか」
「マツリ先生は座っててくださいね。片付かないので」
最初から。俺も、春樹も、梨子も。荒らす張本人を片付けに参加させるつもりは、爪の先程も無い。
下手に横から手を出されると、一向に片付かない。片付ける傍から荒らされていくことは、去年丸々一年かけて学んだ。頼むから、大人しく椅子に座っていて欲しい。
「なら、ついでに。好きに荒らしてくれて構わんから、気になる史料を見つけたら避けておいてくれ。今日は使わんが、来週からの実習授業で使うから、真面目に選べよ」
荒れるところまで荒れきった部屋を、これ以上どう汚くしろと云うのだ。
局地的な突風か大地震でも、知らぬ間に起きたのかと疑いたくなるほど。酷い有様の部屋に比べれば、奥に据えられた教授机と長机数個をあわせて作った手前の作業机の上は、いささかマシなように見える。
もっとも、あくまでもマシなだけだ。うず高く積まれた文献と複写史料の山がいくつも形成されて、今にも崩れそうになっていることに関しては、残念ながら文字通り足の踏み場もない床と、何ら変わりない。
「なあ、春樹。ウチの大学の史料って、確かどっかから借りてるんじゃなかったか?」
「あー……朝香センセイの友達って人から、借りてるとかなんとか。前に聞いた気がする」
「仮にも史料の扱い教えてる人間が。それで許されるのかよ」
「この状況下で。どれもぐちゃぐちゃになってないのが奇跡だよな」
どんなに部屋が汚くても。なにひとつとして散らばった紙物が破れたり壊れたりしていないのが、朝香の研究室の七不思議のひとつだ。
「むしろ、才能だろ……ただ。史料が素で床に転がってたりするところは見たことねぇし、気にかけてることは確かだよな。とりあえず用済みになったコピー用紙が、死ぬほど雑に扱われてることだけは分かった」
「いや、気配るところ違うくね? 部屋の中で踏みつけたり蹴ったりする可能性がなんで初めっから入ってんだよ? おかしくね?」
「考えたら負けだぞ。今すぐ忘れろ」
廊下でそんな会話を交わす横で、梨子の春らしい色味のスカートの裾がふわりと揺れた。見つけたわずかな足の踏み場を目掛けて、彼女は危なげなく着地する。
兎にも角にも。足元に散乱した邪魔な文献類を片付けないことには、研究室に踏み込めやしない。俺たちが無理に中へと入ったとて、キャパオーバーした部屋の物々を外に出す時に身動きが取れなくなって、困るのは目に見えている。
未だ廊下で右往左往している俺たちに、精一杯伸ばされた細腕によって差し出された数冊ずつ重ねられた文献を受け取ると、丸ごと廊下に置き直す。
なんとなしに裏返した一番上にあった本を、衝動的に放り投げそうになった。自分の蔵書さえも出したら出しっぱなしで仕舞わないクセに、赴くままに至る場所の大学図書館から借りた本まで混じっている。
部屋の収容範囲を超えて、溢れかえる前に。ちゃんと返却してくれという願いが聞き入れられるまで、果たして何年かかることやら。想像すらつかない。
「それにしても。今の御時世に、学芸員資格を取ろうなんて。お前たち、正気か? なれる保証どころか、社会に出ても知識を使う機会なんてほとんど無いぞ? あげく、カネにもならない使えない資格と馬鹿にされる」
引越し作業に似た重労働をする俺たちの背にかけられた言葉に、手を止めて振り返る。いったい突然、何を言い出すのか。
机に肘をついて、大仰に溜息を吐いた朝香にだけは、言われたくない言葉である。変と奇妙を限界まで掻き集めて煮こごりにしたような彼女に、変だと言われたのならば。それは、もう世も末だ。
「朝香先生がそれ言っちゃダメじゃないんですか?」
「だが、神無木。就活で利になることもないし、本当に教員免許じゃなくて良かったのか? ウチは教育学部じゃないが、社会科なら中学や高校の教員免許なら取れるわけだし……」
何故だと云わんばかりに傾けられた首に、かすかに内巻きになった毛先がサラリと揺れる。同時に、ほとんど化粧っ気は無いものの、きっちり整えられた眉が下がった。
お前たちの将来が心配だ。そんな表情にぽかんとした後、三方から個性の現れた笑い声が上がる。
「おい。こっちは真剣に言ってるんだが……」
大学内で頂点に君臨する、変人でも。態度や会話の端々に、生徒のことを大切にしているのが滲み出る。ゼミを開講する気が無いのは、好き好んで自分の授業を取る者が居ないと思っているせいであって、生徒と関わるのが決して嫌いだからという理由ではない。
そりゃあ、もう。授業内容やら進め方は、個性豊かの一言に限る。皆から皆まで、独特極まりない。
教授の勢いが凄すぎて生徒が置いてけぼりになる授業は変わっているが、つまらなくはない。ああも深いところまで突き詰めて教える教授は、なかなか居ない。
正直に言うと。史料が語りかけてくると言われたとて、言っている本人の頭の方が大丈夫かと問いたくなるだけだ。人間より文字と対話している時間が多いと、どうやら人間はこうなるらしい。
けれども、クソ面白くもない額面通りの授業をする教授や、何千字もあるレポートを手書きで書いてこいなどと時代に合わない要求を吹っ掛けてくる教授どもに比べれば、朝香のやり方はよっぽど理にかなっている。
「大学でくらい。好きなことしたいじゃないですか」
「そうそう、蒼波に賛成」
「まず史学科に入った時点で、そこから色々とおかしくなったというか……あれ、普通の大学生ってなんでしたっけ?」
日々の面倒ごとを忘れることができるくらい、夢中になれるものが欲しかった。首を傾げた後、ぱあっと手を広げてみせたものの、真面目な顔になった梨子に、春樹と相槌の声が被った。
休みの日は、フィールドワーク。それが無ければ博物館に行って、家に帰ればレポートを書いている。歴史と文化漬けの日々だが、これが存外楽しいと思う自分もたいがい朝香に毒されている。
「お前たちがそれで良いなら構わんが…………ところで。片付けが終わったら、誰か論文の手伝いしないか?」
「千鹿谷、サークルあるんで」
「神無木も疲れたんで、家に帰ります」
「上水も帰りまーす。神社でお勤めあるので」
さっきまでの神妙な空気は、一瞬のうちに散り散りになって壊れた。確信犯のクセして、思い出したように付け足された言葉には、示し合わせたように全員が順々に断りの言葉を並べる。
図書館に頼んでいた資料を代わりに取りに行くくらいなら手伝っても良いが、さすがに論文の内容に関わる重大な手伝いは無理な頼みだ。
「……薄情なゼミ生め」
薄情であれば、研究室の片付けなんてするものか。この世の終わりのような絶望に表情を染めた朝香は、例のごとく締切を踏み倒している真っ最中だった。まったく期待を裏切らないにも程がある。
「……逆にどこをどう考えたら、手伝ってもらえると思ったんですか?」
「お前たちが親切極まりない人間だと思ったからだが? 他に理由があると思うか?」
「自分の研究テーマ振り返ってから言ってください。部屋の片付けと研究手伝うのは、話が違うんですよ」
「……若い知恵を借りようと思ったんだがなぁ」
複写資料で溢れ返った机の上のあちこちを掻き回して、隙間から引っ張りだされたメガネは見なかったフリをした。
最初に探していたのとは全然違う場所から出てきた気がするが、きっと俺の見間違いだ。そう思うことにしよう。
書かなければならない。そんな現実から逃避でもするかのように、唯一確保されたスペースの中で最も遠くへと押しやられていた、白いキーボードがズルズルと引き寄せられる。
きっぱりと手伝いの誘いを断られて、のろのろと動き出した朝香は緩慢な手つきでメガネをかける。数時間ぶりにパソコン画面へと向き直った朝香の表情には、ようやくかすかながらもやる気の色が差し始めた。
「頑張ってください」
「無理だ。煮詰まった」
ぱたぱたとキーボードの上で指を遊ばせつつ、すっぱりと一蹴された言葉に額を押さえる。このまま勢いで作業に集中させようと思ったが、一筋縄で行かないところが彼女らしい。
「……期限いつだったんですか?」
口から溜息だけでは飽き足らず、魂でも吐き出しそうなこの反応は、二三日期限を過ぎたどころの話じゃないだろう。嫌な予感を抱きながらも、訊ねてしまったことを後悔したのは、すぐ後だ。
「失礼だな。確か……一ヶ月前か?」
「どのみち過ぎてるじゃないですか」
数日過ぎた程度であれば、急げばどうにか巻き返せる範疇にあるから尻を叩いていた。だが、ひと月も過ぎているようでは手遅れだ。既に開き直って諦めている朝香には、もはや早く書き上げようとする気が無い。
「不味いな。そろそろ怒鳴り込まれそうだ」
「つべこべ言わずに、集中してください」
ハハッと空笑いした朝香は一転して、苦い茶でも飲まされたかのような渋い顔になる。頬杖をついて転がったカレンダーをめくっていた彼女は、ややあってそれをぱたりと前方へ倒す。
「神無木、ひとつ提案だ。扉の前に集めた本を重ねて置いておくのはどうだ?」
「嫌ですよ。部屋から出られなくなるじゃないですか」
担当編集者が般若を背負って大学に乗り込んで来た数は、優に片手指の本数を超える。しかも、頭には『俺が知る限り』の添え書きの文字がつくから、実際もっと締切を踏み倒している回数は多いはずだ。
穏やかそうな顔をしているクセして、その取り立ては容赦ない。ニコリと微笑まれれば最後、その先には地獄が口を開けて待っている。
原稿を渡さないのであれば、断固として退かない。借金取り顔負けの勢いで原稿の督促にやってくる、トリモチ以上の粘り強さを持つ担当編集者に本気で微笑まれかねないと思ったのか。
至るところにペンで書き込みを加えた机の上の紙束へと手を伸ばした朝香は、不本意そうな表情になる。
程なくして、間を置きながらも響き始めたキーボードを叩く音を背後に聞きながら、俺は再度片付けをする手を動かし始めたのであった。
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