10 / 23
第一幕 人形令嬢の一人舞台
ドロフォノス一家の夜
しおりを挟む
「面倒だねえ。早く決着をつけてしまえばいいのに」
ディフェットは鼻を鳴らした。給仕の持ってきたワインを、自分でグラスにドボドボ注ぎながら続ける。
「亡き王妃サマの故国がなんと言おうが、教会の化石連中がどうごねようが、とっとと茶番を終わらせればいい。そうすれば、あとは『王陛下のおっしゃる通り』さ」
ドロシーはスープをすくう手を止めた。
「そうすんなりといかないのかもしれませんわ。クラウィスと教会だけでなく、王弟殿下もいらっしゃいますもの。あの方もクロッド殿下を王太子に推挙するおひとりです」
「そうだった。北領地に引っ込んでる蛇公爵にはご用心。だけど彼はただの聖女信奉者だろ。婚約者殿が王サマに向いてないって分かれば、いい加減諦めるさ」
「……向いていないかどうかは、分かりません」
「?さっきからどうしたんだい?なにをムキになってるの?ドロシーは婚約者殿に王太子になってほしいのかい?そんなのありえないだろ?」
ディフェットは不思議そうに妹を見つめた。
「クロッド・イグルーシカは、王太子になれない。最初からそういう話だったじゃないか、ドロシー」
ドロシーは美しい柳眉を寄せる。
そうだ。そんなこと分かってるのに、自分はなにを言っているんだろう。彼は始めから王太子になどなれないのだ。それどころか王陛下の言う通りにするならば――
ふとマージン家の舞踏会で、自分の姿を見つけた瞬間のクロッドが脳裏をよぎった。
『どうして、まだここにいるんだ』
彼は、そういう顔をしていた。
招待状に「ふたりで来て」とあるのだから、ドロシーが出席しているのは当たり前のことなのに本気で驚いていた。彼はドロシーが『もう会場にいない』『既に帰っている』と確信していたのだ。――はたして、誰がなんのためにそんなことを彼に教えたのか?
ドロシーは、喉の奥で唸る。
おもむろに子羊の骨付きローストを掴み、そのまま勢いよく噛み千切った。香ばしい身を裂き、腱を剥がし、きれいに骨だけを残して皿に投げ捨てる。唇の端から肉汁が滴るのをぐいと手の甲でぬぐった。
「どうしましょう、お兄様。わたくしはもうこの舞台から降りたくなってまいりました」
「だろうね。ちょっと下稽古が長すぎたのさ」
夜の静寂を縫って、馬の嘶きや車輪の音が聞こえてきた。
「いいときにお帰りになった」
ディフェットが立ち上がり、北側の窓を大きく開く。
外はいつの間にか冷たい雨が降って、肌を突き刺すような夜気が食堂の蝋燭や暖炉の火を激しくゆらめかせた。突風が耳元を掠め、ドロシーの髪を舞い上がらせる。
「おかえりなさい。父さん、母さん」
ディフェットは窓を閉め、ドロシーの座っている黒樫の重厚な食卓、その一番奥の席を振り返った。さっきまでは誰もいなかった席。しかし、今は赤々と燃える暖炉を背景に、奥の席には男が、ドロシーの隣には女が座っていた。
男――ドロフォノス侯爵は、びしょ濡れの円筒帽子とマントを着たまま、椅子に悠々と腰掛けている。火の消えたパイプをくわえ、大げさな身振りで両手を広げた。今夜も大変ご機嫌な様子で、口髭も先までピンと跳ね上がっている。
「ただいま!ドロシー、ディフェット!ふたり揃ってお出迎えとは嬉しいね!」
夫と共に窓から入ってきたドロフォノス夫人は、こちらも優雅に座って、黒い日傘をくるりと回し食堂に雨粒をまき散らす。社交界で『慈母の微笑』と呼ばれる完璧な笑みを浮かべて。
「ひょっとして、なにか悪巧みかしら?可愛い子供たち」
「ええ、ご相談が」と、ドロシーが頷いた。
「わたくしの婚約についてなのですが――」
父侯爵は、気取った仕草で指を鳴らす。
「ああ!実はちょうどその話をしようと思っていたんだ!ドロシーの婚約――というか、それに付随する本契約についてなんだが、どうやら先方の都合で不履行となりそうなんだよ!」
ドロシーは目を瞠る。
「不履行、ですか?」
「残念ながらね。そこで改めて確認しておきたい」
侯爵は身を乗り出して、呆然と見開かれた愛娘の瞳を覗き込む。
「これから、ドロシーは――――どうしたい?」
ディフェットは鼻を鳴らした。給仕の持ってきたワインを、自分でグラスにドボドボ注ぎながら続ける。
「亡き王妃サマの故国がなんと言おうが、教会の化石連中がどうごねようが、とっとと茶番を終わらせればいい。そうすれば、あとは『王陛下のおっしゃる通り』さ」
ドロシーはスープをすくう手を止めた。
「そうすんなりといかないのかもしれませんわ。クラウィスと教会だけでなく、王弟殿下もいらっしゃいますもの。あの方もクロッド殿下を王太子に推挙するおひとりです」
「そうだった。北領地に引っ込んでる蛇公爵にはご用心。だけど彼はただの聖女信奉者だろ。婚約者殿が王サマに向いてないって分かれば、いい加減諦めるさ」
「……向いていないかどうかは、分かりません」
「?さっきからどうしたんだい?なにをムキになってるの?ドロシーは婚約者殿に王太子になってほしいのかい?そんなのありえないだろ?」
ディフェットは不思議そうに妹を見つめた。
「クロッド・イグルーシカは、王太子になれない。最初からそういう話だったじゃないか、ドロシー」
ドロシーは美しい柳眉を寄せる。
そうだ。そんなこと分かってるのに、自分はなにを言っているんだろう。彼は始めから王太子になどなれないのだ。それどころか王陛下の言う通りにするならば――
ふとマージン家の舞踏会で、自分の姿を見つけた瞬間のクロッドが脳裏をよぎった。
『どうして、まだここにいるんだ』
彼は、そういう顔をしていた。
招待状に「ふたりで来て」とあるのだから、ドロシーが出席しているのは当たり前のことなのに本気で驚いていた。彼はドロシーが『もう会場にいない』『既に帰っている』と確信していたのだ。――はたして、誰がなんのためにそんなことを彼に教えたのか?
ドロシーは、喉の奥で唸る。
おもむろに子羊の骨付きローストを掴み、そのまま勢いよく噛み千切った。香ばしい身を裂き、腱を剥がし、きれいに骨だけを残して皿に投げ捨てる。唇の端から肉汁が滴るのをぐいと手の甲でぬぐった。
「どうしましょう、お兄様。わたくしはもうこの舞台から降りたくなってまいりました」
「だろうね。ちょっと下稽古が長すぎたのさ」
夜の静寂を縫って、馬の嘶きや車輪の音が聞こえてきた。
「いいときにお帰りになった」
ディフェットが立ち上がり、北側の窓を大きく開く。
外はいつの間にか冷たい雨が降って、肌を突き刺すような夜気が食堂の蝋燭や暖炉の火を激しくゆらめかせた。突風が耳元を掠め、ドロシーの髪を舞い上がらせる。
「おかえりなさい。父さん、母さん」
ディフェットは窓を閉め、ドロシーの座っている黒樫の重厚な食卓、その一番奥の席を振り返った。さっきまでは誰もいなかった席。しかし、今は赤々と燃える暖炉を背景に、奥の席には男が、ドロシーの隣には女が座っていた。
男――ドロフォノス侯爵は、びしょ濡れの円筒帽子とマントを着たまま、椅子に悠々と腰掛けている。火の消えたパイプをくわえ、大げさな身振りで両手を広げた。今夜も大変ご機嫌な様子で、口髭も先までピンと跳ね上がっている。
「ただいま!ドロシー、ディフェット!ふたり揃ってお出迎えとは嬉しいね!」
夫と共に窓から入ってきたドロフォノス夫人は、こちらも優雅に座って、黒い日傘をくるりと回し食堂に雨粒をまき散らす。社交界で『慈母の微笑』と呼ばれる完璧な笑みを浮かべて。
「ひょっとして、なにか悪巧みかしら?可愛い子供たち」
「ええ、ご相談が」と、ドロシーが頷いた。
「わたくしの婚約についてなのですが――」
父侯爵は、気取った仕草で指を鳴らす。
「ああ!実はちょうどその話をしようと思っていたんだ!ドロシーの婚約――というか、それに付随する本契約についてなんだが、どうやら先方の都合で不履行となりそうなんだよ!」
ドロシーは目を瞠る。
「不履行、ですか?」
「残念ながらね。そこで改めて確認しておきたい」
侯爵は身を乗り出して、呆然と見開かれた愛娘の瞳を覗き込む。
「これから、ドロシーは――――どうしたい?」
10
お気に入りに追加
67
あなたにおすすめの小説
【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!
ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、
1年以内に妊娠そして出産。
跡継ぎを産んで女主人以上の
役割を果たしていたし、
円満だと思っていた。
夫の本音を聞くまでは。
そして息子が他人に思えた。
いてもいなくてもいい存在?萎んだ花?
分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。
* 作り話です
* 完結保証付き
* 暇つぶしにどうぞ
そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。
しげむろ ゆうき
恋愛
男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない
そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった
全五話
※ホラー無し
【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?
つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。
彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。
次の婚約者は恋人であるアリス。
アリスはキャサリンの義妹。
愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。
同じ高位貴族。
少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。
八番目の教育係も辞めていく。
王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。
だが、エドワードは知らなかった事がある。
彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。
他サイトにも公開中。
友達夫婦~夫の浮気相手は私の親友でした~
きなこもち
恋愛
30歳の奈緒子(なおこ)と弘人(ひろと)は結婚5年目の仲良し夫婦。高校生からの同級生で、趣味も話も合い、まるで友達のような関係である。
そんな2人の関係は、奈緒子が十数年ぶりに会った親友、はるかによって徐々に崩れていく。
親友と夫、大切な2人から裏切られた奈緒子は何を思うのか。
拝啓 私のことが大嫌いな旦那様。あなたがほんとうに愛する私の双子の姉との仲を取り持ちますので、もう私とは離縁してください
ぽんた
恋愛
ミカは、夫を心から愛している。しかし、夫はミカを嫌っている。そして、彼のほんとうに愛する人はミカの双子の姉。彼女は、夫のしあわせを願っている。それゆえ、彼女は誓う。夫に離縁してもらい、夫がほんとうに愛している双子の姉と結婚してしあわせになってもらいたい、と。そして、ついにその機会がやってきた。
※ハッピーエンド確約。タイトル通りです。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
[完結]本当にバカね
シマ
恋愛
私には幼い頃から婚約者がいる。
この国の子供は貴族、平民問わず試験に合格すれば通えるサラタル学園がある。
貴族は落ちたら恥とまで言われる学園で出会った平民と恋に落ちた婚約者。
入婿の貴方が私を見下すとは良い度胸ね。
私を敵に回したら、どうなるか分からせてあげる。
もうすぐ、お別れの時間です
夕立悠理
恋愛
──期限つきの恋だった。そんなの、わかってた、はずだったのに。
親友の代わりに、王太子の婚約者となった、レオーネ。けれど、親友の病は治り、婚約は解消される。その翌日、なぜか目覚めると、王太子が親友を見初めるパーティーの日まで、時間が巻き戻っていた。けれど、そのパーティーで、親友ではなくレオーネが見初められ──。王太子のことを信じたいけれど、信じられない。そんな想いにゆれるレオーネにずっと幼なじみだと思っていたアルロが告白し──!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる