揺れる波紋

しらかわからし

文字の大きさ
上 下
62 / 96
第一章

第61話

しおりを挟む
高坂は、まだ体のだるさが抜けきらず、ぼんやりとした頭で着替えを始めた。体は重く、まるで夢遊病者のように動いている。ここ最近の忙殺の疲労が残っているのか、肩や腰に鈍い痛みを感じながらも、なんとか身支度を整えた。寝室では妻の博美がまだベッドに横たわっている。「行ってくる」と小さな声で伝えたが、彼女は眠っているようで反応はなかった。高坂は玄関をそっと開け、外の冷たい空気を吸い込みながら一歩外に踏み出した。

ドアを閉めた瞬間、目の前に広がるのは前の佐々木家の玄関。そこでは大奥様がいつものように玄関前の掃き掃除をしていた。彼女は年配だが、掃除は毎日欠かさないようで、いつもきちんとした姿で庭や玄関先を手入れしている。

「おはようございます」と高坂が元気よく声をかけると、大奥様もすぐに顔を上げて微笑んだ。「おはよう、昨日は生垣を切っていたでしょう?」と、話しかけてくる。

「はい、そうです」と高坂は再び元気に応えた。昨日の作業の疲れがまだ残っているが、元気な挨拶を返すことで気分をリフレッシュさせた。

「高い梯子に上っていたから、心配してたのよ。落ちなければいいなってね」と大奥様は気遣いを込めた言葉をかけた。

「ありがとうございます。大丈夫でしたよ。でも、生垣の剪定が終わったら駐車場をコンクリートで打ち直しますので、お嬢さんにもそう伝えてください」と高坂は返した。

「そんなこと、もう気にしなくていいから。私らもそんなに困ってないから……」と大奥様は申し訳なさそうに微笑む。

「いえ、やりますよ。お世話になっている分、少しでもお返しさせてください。それでは、行ってきます!」と高坂は少し頭を下げてから、足早に出発した。

「行ってらっしゃい、気を付けてね!」と大奥様の声が車に乗り込む高坂の背中に響いた。

高坂が到着した先はいつものホテルの事務所。事務所に入ると、愛美がデスクに座っていた。彼女はすぐに高坂に気づき、「おはようございます」と挨拶してくれた。高坂も軽く会釈しながら応じたが、その後すぐに掃除用具の箒と塵取りを手に取り、いつもの朝のルーティーン作業に取りかかった。

彼はホテルの内外を丁寧に掃き掃除し、外周の蜘蛛の巣を払う。これが日課となっていた。細かい作業に集中することで、心を落ち着かせることができるからだ。しかし、今日は外に出て歩道の側溝が気になった。そこには雑草やゴミが溜まっており、どうしても見過ごすことができない。前回と同じように、彼はしゃがみ込んでその雑草を丁寧に引き抜きスケッパーでこそげ取った。

作業を進めていると、ふと後ろから声を掛けられた。「おはよう!」振り返ると、初老の男性が高坂を見つめていた。「驛前ホテルの高坂さんだね?」

「おはようございます。はい、そうです。高坂翔太です」と、少し驚いた表情で返事をする。この人物は見覚えがないが、彼の名前を知っていることに驚いた。

「私かい? ここのホテルの社長の兄貴だよ」と男性はにこやかに自己紹介をした。

「あっ、はい! 先日ご近所の方からお兄様のことは伺いました」と高坂はすぐに話を合わせた。

「上で燃料屋をやっているから暇な時にでも遊びに来なさい」と言いながら、彼は名刺を差し出した。それを受け取った高坂も自分の名刺を渡しながら、「そのお話も伺っていましたので、ぜひお伺いさせていただきます」と礼儀正しく応えた。

「ほぉ、すごい役職で就職されたんだね」と彼は名刺を見て目を見張った。

「恐縮です」と、やや恐縮しながらも高坂は微笑んだ。

「いつも我が町の玄関口の清掃をしてくれてありがとうな」と言って、その男性は駅舎の方へ向かって歩いていった。

その背中を見送りながら、高坂は不思議な感覚に襲われていた。社長からは一度も激励の言葉をかけられたことがないのに、その兄から感謝の言葉をもらえたことが嬉しかったのだ。そして、先ほどの社長の兄は見た目も立派で、風格を感じさせる人物だった。もっとも言動もさることながら、社長よりも二倍ほど大きな大男だったからかもしれない。高坂は、ホテル周辺を掃除するたびに、こうした様々な人と出会うことに感謝を覚えた。

「社長が何も言わなくても、こうして周囲の人たちが見ていてくれるんだな」と心の中で呟き、彼は再び作業に戻った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...