揺れる波紋

第一章

第57話

高坂が調理場に足を踏み入れると、いつもと変わらず活気に満ちていた。彼は「おはようございます！」と元気よく挨拶し、キッチンの雰囲気を和ませながら中へと進んでいった。シェフはすでに朝のミーティングに向かっており、その場にはいなかったが、スーシェフの神田と三番手の新橋が迎え入れてくれた。

「おはようございます、高坂さん！」と神田が笑顔で声をかける。新橋も負けじと、「今日は高坂さんのために、朝の賄いで鰤と大根の煮付けを作ったんですよ！」と自慢げに言った。

「それは嬉しいな！ 久々に魚料理が食べられるなんて、ありがたいよ。俺、魚が大好きだからさ」と、高坂は心から感謝した様子で伝えた。魚料理には特別な思い入れがある高坂にとって、鰤の煮付けはまさに喜ばしい献立だった。

しかし、新橋は少し困った顔をして続けた。「でも、いつも思うんですけど、煮汁を結構たくさん作って、その後捨てちゃうんですよね。なんだか勿体ないなぁって」

「お客様に出すものじゃないんでしょ？」と高坂が尋ねると、新橋はうなずきながら「そうです、賄いだけのためです」と言った。

高坂は少し考えてから、アドバイスを与えた。「だったらさ、その煮汁を捨てるんじゃなくて、次に使うまで冷凍しておくといいですよ。鰻や焼き鳥のタレと同じように、次回の煮付けの時にその煮汁を足せば、さらに旨味が増すじゃないですか？」

新橋は驚いたように目を見開いた。「あっ、そうか……鰻のタレ！　確かに、それは思いつかなかったです」と、思わず彼は煮汁を試食してみた。

すると、急に新橋がシャックリをし始めた。「ヒック！」と音が出た瞬間、彼は青ざめた顔で叫んだ。「ヤバい！ ヤバい！」

スーシェフの神田がすぐに事情を説明した。「高坂さん、彼、シャックリが一度出ると止まらなくなるんですよ」

新橋も「ヒック！　シェフから『逆立ちして鼻から水を飲めばシャックリが治る』って教わったんですけど、それをやったら死にそうになって……ヒック！」と悲痛な表情で言った。

高坂は苦笑しながら首を振り、冷静に対処法を教えた。「シャックリなら、レモンの輪切りを一枚食べてみて下さい。一発で治りますから。それで治らなかったら救急車です」

新橋はすぐにレモンを取り出し、ペティナイフで皮を切り取ろうとしたが、高坂が手を止めた。「いやいや、皮ごと食べるんですよ」

新橋は戸惑いながらも、言われた通りにレモンの輪切りを皮ごとパクリと口に入れた。そして、驚くべきことに、次の瞬間にはシャックリがピタリと止まった。

「スゲー！」と新橋が感動して叫んだ。「高坂さん、本当にありがとうございます！ 長年の悩みだったんですよ、これでやっと解放されます！」

「シャックリで死ぬ人もいるって聞くしね、何でも聞いてくれれば教えますよ。知ってることなら、惜しみなくシェアしますから」と高坂はにっこり笑って答えた。

高坂が調理場を後にしてカウンターに戻ると、佐藤英子がすでにカウンターの準備を終えていた。彼女は手早く作業を終わらせ、全て整っている様子だった。

「ありがとう」と高坂が声をかけると、佐藤はニヤリと笑い、「調理場が楽しそうだったから、こっちもさっさと終わらせておいたのよ。それで、お駄賃は？」と冗談めかして言った。

高坂は笑いながら、親指を人差し指と中指の間から出して拳を女握りして、ふざけて「近いうちに！」と答えた。その仕草に佐藤は呆れたようにため息をついた。

「相変わらず、高坂さんはバカだね」と、軽く笑いながら返す佐藤の表情には、親しみが込められていた。

高坂は笑い声をこらえきれず、「アハハハハ！」と大声で笑った。彼は、自分のジョークがどこかズレていることを自覚していたが、それでも楽しい空気を作ることができたという満足感があった。

その後、高坂は再び調理場を見回しながら、これからの一日の始まりに思いを馳せた。レストランの朝は忙しいが、その中にも確かな充実感があった。どんな困難があっても、自分なりのやり方でチームを支え、笑顔を引き出す――それが高坂の信念だった。

シャックリが止まった新橋や、冗談を交わした佐藤とのやり取りを思い出しながら、高坂は心の中で「今日もいい一日になりそうだ」と感じ、深呼吸をして仕事に取りかかった。