揺れる波紋

しらかわからし

文字の大きさ
上 下
47 / 109
第一章

第46話

しおりを挟む
高坂はその日、疲労が重くのしかかっていた。いつもより早く切り上げた仕事を終え、妻と共に寮に戻ることに決めた。通常なら、中抜け休憩の間に掃除をして戻るのが習慣だったが、その日は違った。「今日はもう無理だ」と、心の中で静かに言い聞かせる。体が思うように動かない日もある。帰り道、車内で肩を並べる妻に「今日は掃除、なしだし、あの話では心配させて悪かったな」と少し申し訳なさそうに言ったが、妻はただ優しく微笑んで頷いた。

寮の扉を開けて閉めた瞬間、不思議な声が聞こえてきた。「高坂さ~ん!」と響く大声に続いて、玄関を「ドンドンドン」と激しく叩く音。高坂は一瞬、誰かと思ったが、こんな時間に訪ねてくる人は限られている。思わず顔をしかめながら玄関を開けると、見覚えのないご婦人が立っていた。彼女はすぐに笑顔を見せ、「いつも朝早く出て、夜遅くに帰っていらっしゃるから、なかなかお会いできなくて!」と声を弾ませる。

高坂は少し戸惑いながら、「すみません」と頭を下げた。続けて、「すみませんが、どちら様でしょうか?」と丁寧に問いかける。

「申し遅れました。前のお家の佐々木と申します」と、ご婦人は自己紹介をした。

「あっ、あの佐々木さんのお嬢様ですね。街中で美容室を経営されているとか……」高坂は思い出したように頷いた。

「そうなんです」と彼女は微笑んだ。

しかし、彼女の話は穏やかな挨拶だけでは終わらなかった。「実は申し上げにくいのですが、お宅の駐車場の砂利が道路にこぼれ落ちてきて、そのたびに私どもが掃除しているんです」と、彼女は申し訳なさそうに言った。

高坂は内心「またか」と思い、重くなった気分を押し隠しながら、「すみません」と再び頭を下げた。「なるべく早く、コンクリートか何かで補強します」と約束した。

「そうしていただけると助かります」と佐々木夫人は軽く会釈をして帰って行ったが、高坂の心に残ったのはまた一つ増えた問題のことだった。「なんで、こうも次から次へと……隣家の奥様からは生垣の越境の件を言われているし」と彼は運のなさを嘆き、ますます疲れが増していくのを感じた。そんな気分を抱えながら、彼は決断した。「今日はもう寝よう」と。

妻と二人、昼寝をすることにした。布団に入るとすぐに、心地よい眠りが彼を包み込んだ。時間にして三十分ほどが過ぎた頃、再び玄関の方から声が聞こえた。「高坂さ~ん!」また佐々木夫人の声だ。高坂は、ぼんやりとした意識の中で目をこすり、重い足取りで玄関に向かった。

ドアを開けると、今度は彼女が大きな袋を手に持って立っていた。「先ほどは、図々しいことを申し上げてすみませんでした」と彼女は頭を下げながら、丁寧に言った。

「いえ、そんな……」高坂は慌てて返事をしながら、彼女を中に招き入れた。

玄関先での会話が続く。「母から聞いたのですが、高坂さん、この家を買ったわけではなく、ホテルの寮として住まれているんですよね?」佐々木は、少し申し訳なさそうな表情で尋ねた。

高坂は眠気を抑えつつ、「そうですね、そうなんです」と答えた。

「なのに、私ったら図々しいお願いをしてしまって……本当に申し訳なく思っています。これ、韓国のお土産です。少しでもお詫びになれば……」そう言って、佐々木さんは袋の中からお菓子を取り出し、さらに美容室の無料カット券まで渡してきた。

「ありがとうございます」と高坂は素直に受け取ったが、その後すぐに再び布団へと戻り、重たい体を横たえた。

眠りにつく前、彼はぼんやりと考えた。「こんなに疲れているのに、問題はどんどん降ってくる……」しかし、お菓子とカット券に少しだけ癒されたのも事実だった。そして、そのまままた深い眠りへと落ちていった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一人暮らしだけど一人暮らしじゃない

ツヨシ
ライト文芸
心霊スポットから女の子が憑いてきた。

気が付けば奴がいる

篠原 皐月
ライト文芸
 ありふれた沙織の日常生活に、突如入り込んできた得体のしれないモノ……。その正体は誰も知らないまま、一見平穏に沙織とその周囲の人間達が、過ごしていく事になる。  リケジョ志望のクール小学生沙織と、どこか抜けてるゴンザレスの、ドタバタホームコメディ(?)です。  小説家になろう、カクヨムからの転載作品です。

僕の大切な義妹(ひまり)ちゃん。~貧乏神と呼ばれた女の子を助けたら、女神な義妹にクラスチェンジした~

マナシロカナタ✨ねこたま✨GCN文庫
ライト文芸
可愛すぎる義妹のために、僕はもう一度、僕をがんばってみようと思う――。 ――――――― 「えへへー♪ アキトくん、どうどう? 新しい制服似合ってる?」  届いたばかりのまっさらな高校の制服を着たひまりちゃんが、ファッションショーでもしているみたいに、僕――神崎暁斗(かんざき・あきと)の目の前でくるりと回った。  短いスカートがひらりと舞い、僕は慌てて視線を上げる。 「すごく似合ってるよ。まるでひまりちゃんのために作られた制服みたいだ」 「やった♪」  僕とひまりちゃんは血のつながっていない義理の兄妹だ。  僕が小学校のころ、クラスに母子家庭の女の子がいた。  それがひまりちゃんで、ガリガリに痩せていて、何度も繕ったであろうボロボロの古着を着ていたこともあって、 「貧乏神が来たぞ~!」 「貧乏が移っちまう! 逃げろ~!」  心ない男子たちからは名前をもじって貧乏神なんて呼ばれていた。 「うっ、ぐすっ……」  ひまりちゃんは言い返すでもなく、いつも鼻をすすりながら俯いてしまう。  そして当時の僕はというと、自分こそが神に選ばれし特別な人間だと思い込んでいたのもあって、ひまりちゃんがバカにされているのを見かけるたびに、助けに入っていた。  そして父さんが食堂を経営していたこともあり、僕はひまりちゃんを家に連れ帰っては一緒にご飯を食べた。  それはいつしか、ひまりちゃんのお母さんも含めた家族ぐるみの付き合いになっていき。  ある時、僕の父さんとひまりちゃんのお母さんが再婚して、ひまりちゃんは僕の義妹になったのだ。 「これからは毎日一緒にいられるね!」  そんなひまりちゃんは年々綺麗になっていき、いつしか「女神」と呼ばれるようになっていた。  対してその頃には、ただの冴えない凡人であることを理解してしまった僕。  だけどひまりちゃんは昔助けられた恩義で、平凡な僕を今でも好きだ好きだと言ってくる。  そんなひまりちゃんに少しでも相応しい男になるために。  女神のようなひまりちゃんの想いに応えるために。  もしくはいつか、ひまりちゃんが本当にいい人を見つけた時に、胸を張って兄だと言えるように。  高校進学を機に僕はもう一度、僕をがんばってみようと思う――。

ご主人様と僕

ふじゆう
ライト文芸
大切なペットが、飼い主になつくまでの60日間。 突然、見知らぬ場所へやってきた犬のナツは、疑心暗鬼であった。 時には、苛立ちながらも、愛情を注ぐ飼い主。 次第に、ナツの心は、解放されていく。

【完結】マーガレット・アン・バルクレーの涙

高城蓉理
ライト文芸
~僕が好きになった彼女は次元を超えた天才だった~ ●下呂温泉街に住む普通の高校生【荒巻恒星】は、若干16歳で英国の大学を卒業し医師免許を保有する同い年の天才少女【御坂麻愛】と期限限定で一緒に暮らすことになる。 麻愛の出生の秘密、近親恋愛、未成年者と大人の禁断の恋など、複雑な事情に巻き込まれながら、恒星自身も自分のあり方や進路、次元が違うステージに生きる麻愛への恋心に悩むことになる。 愛の形の在り方を模索する高校生の青春ラブロマンスです。 ●姉妹作→ニュートンの忘れ物 ●illustration いーりす様

透明の「扉」を開けて

美黎
ライト文芸
先祖が作った家の人形神が改築によりうっかり放置されたままで、気付いた時には家は没落寸前。 ピンチを救うべく普通の中学2年生、依る(ヨル)が不思議な扉の中へ人形神の相方、姫様を探しに旅立つ。 自分の家を救う為に旅立った筈なのに、古の予言に巻き込まれ翻弄されていく依る。旅の相方、家猫の朝(アサ)と不思議な喋る石の付いた腕輪と共に扉を巡り旅をするうちに沢山の人と出会っていく。 知ったからには許せない、しかし価値観が違う世界で、正解などあるのだろうか。 特別な能力なんて、持ってない。持っているのは「強い想い」と「想像力」のみ。 悩みながらも「本当のこと」を探し前に進む、ヨルの恋と冒険、目醒めの成長物語。 この物語を見つけ、読んでくれる全ての人に、愛と感謝を。 ありがとう 今日も矛盾の中で生きる 全ての人々に。 光を。 石達と、自然界に 最大限の感謝を。

独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~

水縞しま
ライト文芸
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

咲かない桜

御伽 白
ライト文芸
とある山の大きな桜の木の下で一人の男子大学生、峰 日向(ミネ ヒナタ)は桜の妖精を名乗る女性に声をかけられとあるお願いをされる。 「私を咲かせてくれませんか?」  咲くことの出来ない呪いをかけられた精霊は、日向に呪いをかけた魔女に会うのを手伝って欲しいとお願いされる。  日向は、何かの縁とそのお願いを受けることにする。  そして、精霊に呪いをかけた魔女に呪いを解く代償として3つの依頼を要求される。  依頼を通して日向は、色々な妖怪と出会いそして変わっていく。  出会いと別れ、戦い、愛情、友情、それらに触れて日向はどう変わっていくのか・・・  これは、生きる物語 ※ 毎日投稿でしたが二巻製本作業(自費出版)のために更新不定期です。申し訳ありません。

処理中です...