揺れる波紋

第一章

第38話

高坂と博美が中抜け休憩から戻ると、レストランではすでに夕食の準備が整っていた。手際よく進めていたのは、若い女子高生と富田だった。二人に向かって、高坂は感謝の言葉を口にした。

「いつもありがとうね」

その言葉に、女子高生が嬉しそうに微笑む。「高坂さんって、いつも『ありがとう』って言ってくださいますよね？」

富田も笑顔で頷いた。「そう。紳士で礼儀正しいからね」

「いやいや、本当に感謝してるからさ。君たちが頑張ってくれるから、ありがたいと思ってるのは本当だからさ」と高坂はそう言い、洗い場へと向かった。今日の担当は目黒と高田。気心の知れた二人で、彼には少しだけ安らぎを与えてくれる存在だった。

洗い場に入ると、高坂はおどけた調子で声をかけた。「あ～ら、今日の目黒さん、朝よりさらに女っぷりが上がっているし、高田さんも化粧のノリがいいねぇ。もしかして昨夜はお父ちゃんとウフフでもしたんじゃないの？」

目黒は笑いながら返した。「相変わらず口が達者ね！」

高田も苦笑しつつ、「いや～、お父ちゃんとはもう何十年もそんなのないからね」と肩をすくめた。

「俺なんか、エッチなことしか考えてないからさ！　高田さん、俺ならいつでもOKだよ！」と高坂は冗談を続けた。

目黒が「そんなこと言ってないで、はい！　仕事！　仕事！」と軽く彼の尻を叩く。

「イテー！」と叫びながら、笑顔で調理場に向かう高坂。「おはようございます！」と挨拶をすると、神田と新橋が元気よく「おはようございます！」と返してくれたが、シェフは苦虫を潰したような表情で無言だった。

高坂はシェフの前に立ち、大きな声で改めて挨拶した。「おはようございます！　今日もよろしくお願いします！」

しばらく沈黙が続いた後、シェフが口を開いた。「高坂さん、あなたが東京で修業して、このホテルの前身で料理長をしていたこと、さらに二十三年間もの長きに渡ってレストランを経営されてオーナーシェフでおられたこと知りました。今までのご無礼をお許しください」

高坂は心の中で（まさに権威主義者だな）と呟いたが、外面は笑顔を浮かべた。「いや、昔の話ですよ。今はただの平社員ですから、今後ともよろしくお願いします！」

そう言いながら、彼はシェフの腕に自分の腕を絡め、おどけた調子で「よろしくお願いしま～す！」と厨房内に響く声をあげた。その瞬間、厨房内に爆笑が起こり、シェフも驚きながらも苦笑せざるを得なかった。

その時、副支配人の品川が現れ、「シェフ、明日のライメンズクラブの定例会の人数が決定しましたのでご報告です」と言った。

高坂はそれを聞いて、「ちょうどいいところに副支配人！　こっちに来てください！」と品川を手招きした。

「高坂さん、何ですか？」と品川が近寄ってくると、高坂は彼の腕を引き寄せ、もう片方の腕でシェフの腕を絡め取り、二人の間に立って体を左右に揺らしながら、大げさな足踏みを始めた。「皆で協力して、ホテルを盛り上げましょうね～！」

その滑稽な姿に、厨房中は再び爆笑の渦に包まれ、副支配人もシェフも、呆れながらも笑うしかなかった。その光景を、洗い場から見ていた博美も、微笑ましい気持ちでその場を眺めていて愛美はパントリーから見ていた。

夕食は何事もなく無事に終わった。しかし、このホテルでは長年非常識がまかり通ってきた場所であることを考えれば、これからもすんなりとはいかないだろうことは、容易に予想できた高坂だった。