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第一章
第29話
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今朝の高坂は、疲れがたまっていた。いつもなら早起きが得意な彼だが、今日は布団から抜け出すのに苦労した。隣で寝ている妻の博美に「行ってくるよ」と声をかけ、寝室を出る。歯を磨き、髭を剃り、洗顔を済ませた後、部屋干ししてあった洗濯物からシャツとトランクスを選び、スーツに着替える。制服がないので、自分のスーツを着るしかない。
ふと、自分が経営していたレストランや叔父のホテルには制服があったことに気づく。だが、このホテルにはそれがない。だからこそ、大崎が自分のスーツ姿を「格好いい」と褒めた時のことを思い出す。若者に褒められるのも悪くない、そう思うと少し嬉しくなった。
車に乗り込み、通勤の道すがらふと考えた。「湖畔の県営美術館のティールームや驛前ホテル二号館や愛美が言っていた今後の最高級ホテルにも、やっぱり制服はないのだろうか?」ケチな社長と専務の性格を思い返すと、どうにも期待はできそうにない。そんなことを考えていたら、高坂は思わず一人で苦笑いを浮かべた。
特に社長のやり方には疑問がある。彼は無駄に高級な自家用車を何台も持っているくせに、ステーションホテル一号館のフロント横のガラス窓は東日本大震災の時にできた大きな亀裂をいまだに直していない。それどころか、フロントの渋谷が言うには、露天風呂のボイラーも二機のうち一機が故障しているにもかかわらず、修理する気配はないという。
「もしもう一機が壊れたら、お湯が沸かせなくなってお客様に迷惑がかかるだろうに、そんなことも考えないなんて経営者失格だろう」と高坂は心の中で思う。しかし、自分だって経営していた会社を廃業に追い込んだ身だ。偉そうなことは言えないが、それでも他人のことはよく見えるものだ、と自嘲した。
ホテルに到着し、事務所で深夜勤務のフロント職員に挨拶を交わしたところ、愛美がフロントから出てきた。
「私も一緒に清掃させてください」と愛美が言う。
「大社長のお嬢様がやる仕事じゃないでしょう!」と皮肉っぽく返す高坂。
「高坂さん、大社長やお嬢様なんて呼ぶの、やめてください!」
高坂は無言で箒と塵取りを手に取り、社員通用口の周りを掃き始めた。しばらくすると、愛美も同じく箒と塵取りを持って出てくる。
「高坂さん、この灰皿が山盛りですけど、どうしましょうか?」と愛美が聞いてきた。喫煙所の灰皿は、スタッフたちのタバコで溢れかえっていた。
「スーシェフの神田さん、良太君、レストランの大崎さん、パートの佐藤さん、フロント職員全員、和食のスタッフも二人が喫煙者だよね。彼らの嗜好品のために、俺たちが掃除をしてやるのは変じゃないですか?」
「そうですね……」
「タバコを吸わない人は、休憩もしないで働いているんですよ。灰皿が山盛りになろうが火事になろうが、私には関係ないからね」
「じゃあ、私がフロントの社員に注意しておきます」
「お嬢様、まだわかってないようですね?」
愛美は「えっ?」と絶句する。
「仕事は、言われてやるものじゃない。自分で気づいて動く、それがプロですよ」
そう言い残し、高坂は裏通りから表通りへ出て、駅舎前や自転車置き場、そして派出所前を丁寧に掃き清めた。その後、最近見つけた小さなお社の周りも掃除し、手を合わせて参拝した。
仕事を終えた高坂は、箒と塵取りを片付け、車から自作の蜘蛛の巣取り棒を取り出し、ホテルの外周に張り付いた蜘蛛の巣を取り除いていく。その間も、愛美はずっと高坂について回っていた。外が終わると、ホテルの中の蜘蛛の巣取りに取り掛かり、愛美は終始高坂の背中を見つめていた。
ゴミを集めて満杯になったゴミ袋を集積所に持って行き、その足で妻の博美を迎えに行った。
ふと、自分が経営していたレストランや叔父のホテルには制服があったことに気づく。だが、このホテルにはそれがない。だからこそ、大崎が自分のスーツ姿を「格好いい」と褒めた時のことを思い出す。若者に褒められるのも悪くない、そう思うと少し嬉しくなった。
車に乗り込み、通勤の道すがらふと考えた。「湖畔の県営美術館のティールームや驛前ホテル二号館や愛美が言っていた今後の最高級ホテルにも、やっぱり制服はないのだろうか?」ケチな社長と専務の性格を思い返すと、どうにも期待はできそうにない。そんなことを考えていたら、高坂は思わず一人で苦笑いを浮かべた。
特に社長のやり方には疑問がある。彼は無駄に高級な自家用車を何台も持っているくせに、ステーションホテル一号館のフロント横のガラス窓は東日本大震災の時にできた大きな亀裂をいまだに直していない。それどころか、フロントの渋谷が言うには、露天風呂のボイラーも二機のうち一機が故障しているにもかかわらず、修理する気配はないという。
「もしもう一機が壊れたら、お湯が沸かせなくなってお客様に迷惑がかかるだろうに、そんなことも考えないなんて経営者失格だろう」と高坂は心の中で思う。しかし、自分だって経営していた会社を廃業に追い込んだ身だ。偉そうなことは言えないが、それでも他人のことはよく見えるものだ、と自嘲した。
ホテルに到着し、事務所で深夜勤務のフロント職員に挨拶を交わしたところ、愛美がフロントから出てきた。
「私も一緒に清掃させてください」と愛美が言う。
「大社長のお嬢様がやる仕事じゃないでしょう!」と皮肉っぽく返す高坂。
「高坂さん、大社長やお嬢様なんて呼ぶの、やめてください!」
高坂は無言で箒と塵取りを手に取り、社員通用口の周りを掃き始めた。しばらくすると、愛美も同じく箒と塵取りを持って出てくる。
「高坂さん、この灰皿が山盛りですけど、どうしましょうか?」と愛美が聞いてきた。喫煙所の灰皿は、スタッフたちのタバコで溢れかえっていた。
「スーシェフの神田さん、良太君、レストランの大崎さん、パートの佐藤さん、フロント職員全員、和食のスタッフも二人が喫煙者だよね。彼らの嗜好品のために、俺たちが掃除をしてやるのは変じゃないですか?」
「そうですね……」
「タバコを吸わない人は、休憩もしないで働いているんですよ。灰皿が山盛りになろうが火事になろうが、私には関係ないからね」
「じゃあ、私がフロントの社員に注意しておきます」
「お嬢様、まだわかってないようですね?」
愛美は「えっ?」と絶句する。
「仕事は、言われてやるものじゃない。自分で気づいて動く、それがプロですよ」
そう言い残し、高坂は裏通りから表通りへ出て、駅舎前や自転車置き場、そして派出所前を丁寧に掃き清めた。その後、最近見つけた小さなお社の周りも掃除し、手を合わせて参拝した。
仕事を終えた高坂は、箒と塵取りを片付け、車から自作の蜘蛛の巣取り棒を取り出し、ホテルの外周に張り付いた蜘蛛の巣を取り除いていく。その間も、愛美はずっと高坂について回っていた。外が終わると、ホテルの中の蜘蛛の巣取りに取り掛かり、愛美は終始高坂の背中を見つめていた。
ゴミを集めて満杯になったゴミ袋を集積所に持って行き、その足で妻の博美を迎えに行った。
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