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第一章
第18話
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大崎が食器を片付けに行くと、代わりに良太がそっと近づき、少し緊張した面持ちで言った。「一緒に座ってもよろしいでしょうか?」
高坂は笑顔で頷いた。「どうぞ」
良太は椅子に座り、少し申し訳なさそうに言った。「お借りしたあの苛性ソーダなんですが、実は全部使い切ってしまいました」
「あんなにあったのを使い切ったんですか? 石鹸でも作ったのかな?」と高坂は冗談交じりに聞いた。
「いえ、そうじゃなくて……。高坂さんに教えていただいた分量があったのに、汚れを簡単に落とそうとして、全部入れてしまったんです」良太は少し顔を赤らめながら話す。
高坂はやさしく笑いながら答えた。「そうだったんですね。でも、だからといって汚れは落ちなかったんじゃないですか?」
「はい……、同じでしたし、むしろ臭いを取るのが大変で」良太はうつむいたまま、苦笑いを浮かべた。
「まあ、良い勉強になったし、火傷をしなくてよかったですね」
「怒らないんですか?」と良太が不安そうに聞いた。
高坂は首をかしげた。「何で怒らないといけないんですか?」
「厨房でこんな失敗をしたら、普通は怒られますよ」良太は肩をすくめながら答えた。
高坂は軽く頷いて言った。「でも、若い人が経験から学んで、火傷もしなかったなら、それを喜ぶべきじゃないですか?」
良太は驚いたように高坂を見つめた。「高坂さんの考え方は、普通の人とちょっと違いますね」
高坂は笑いながら返す。「私に怒られたいんですか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
「それなら良いじゃないですか。とりあえず、調理場は清潔になったんだし、ね?」高坂は軽く肩を叩いた。
良太は少し安心したように微笑み、「色々教えてくださって、ありがとうございました」と言って席を立った。
「何かあれば、いつでも言ってくださいね」
「はい、その時はよろしくお願いします」良太は丁寧に頭を下げて立ち去った。
高坂は彼を見送りながら、ふと自身の持論を思い出していた。多くの人は上司に「怒られたくない」という心理を抱いている。特にミスをした時、部下はその恐怖に支配されがちだ。今回のように、良太は高坂が事前に分量を教えていたにもかかわらず失敗した。それを隠そうとするのは自然なことだが、高坂はすでに苛性ソーダの残量を把握していたため、良太は隠すことができなかった。
高坂は以前経営していたレストランでも、「ヒヤリハット」の原則を重視していた。重大な事故や災害に至らないものの、危険が潜んでいる事例は必ず報告させるようにしていて記録させたのだ。そのためには、ミスを報告した部下が「怒られない」という安心感が必要だった。そして、そのミスを職場全体で共有し、次の大きなミスを防ぐ努力が重要だと考えていた。
「部下の失敗は上司の失敗と同じだ」というのが、高坂の信念だった。ホテルのシェフのように、毎日のように部下を叱ったり、パワハラをしたりする上司では、部下は萎縮してしまい、小さなミスさえ報告しなくなる。それがやがて大きな事故や失敗につながるのだ。
そもそも、現代において「怒る」という行為は生産的ではないと高坂は思っていた。自分の修業時代、上司や先輩たちはしばしば自分たちのストレスを部下や後輩にぶつけていた。それはただのストレス発散であり、無意味で時代遅れの習慣だと高坂は感じていた。
ふと食器を洗おうと席を立とうとした時、良太が再び現れた。「僕が洗います」と、彼は申し出た。
高坂は優しく笑って言った。「ありがとう。でも、これは私が食べたものだから、自分で洗うのが大切なんです。それが料理を作ってくれた料理人さんや、洗い場の皆さんへの礼儀ですし、感謝の気持ちの表れだからね。このホテルの慣習で一番、良い所はこれですから」
高坂は笑顔で頷いた。「どうぞ」
良太は椅子に座り、少し申し訳なさそうに言った。「お借りしたあの苛性ソーダなんですが、実は全部使い切ってしまいました」
「あんなにあったのを使い切ったんですか? 石鹸でも作ったのかな?」と高坂は冗談交じりに聞いた。
「いえ、そうじゃなくて……。高坂さんに教えていただいた分量があったのに、汚れを簡単に落とそうとして、全部入れてしまったんです」良太は少し顔を赤らめながら話す。
高坂はやさしく笑いながら答えた。「そうだったんですね。でも、だからといって汚れは落ちなかったんじゃないですか?」
「はい……、同じでしたし、むしろ臭いを取るのが大変で」良太はうつむいたまま、苦笑いを浮かべた。
「まあ、良い勉強になったし、火傷をしなくてよかったですね」
「怒らないんですか?」と良太が不安そうに聞いた。
高坂は首をかしげた。「何で怒らないといけないんですか?」
「厨房でこんな失敗をしたら、普通は怒られますよ」良太は肩をすくめながら答えた。
高坂は軽く頷いて言った。「でも、若い人が経験から学んで、火傷もしなかったなら、それを喜ぶべきじゃないですか?」
良太は驚いたように高坂を見つめた。「高坂さんの考え方は、普通の人とちょっと違いますね」
高坂は笑いながら返す。「私に怒られたいんですか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
「それなら良いじゃないですか。とりあえず、調理場は清潔になったんだし、ね?」高坂は軽く肩を叩いた。
良太は少し安心したように微笑み、「色々教えてくださって、ありがとうございました」と言って席を立った。
「何かあれば、いつでも言ってくださいね」
「はい、その時はよろしくお願いします」良太は丁寧に頭を下げて立ち去った。
高坂は彼を見送りながら、ふと自身の持論を思い出していた。多くの人は上司に「怒られたくない」という心理を抱いている。特にミスをした時、部下はその恐怖に支配されがちだ。今回のように、良太は高坂が事前に分量を教えていたにもかかわらず失敗した。それを隠そうとするのは自然なことだが、高坂はすでに苛性ソーダの残量を把握していたため、良太は隠すことができなかった。
高坂は以前経営していたレストランでも、「ヒヤリハット」の原則を重視していた。重大な事故や災害に至らないものの、危険が潜んでいる事例は必ず報告させるようにしていて記録させたのだ。そのためには、ミスを報告した部下が「怒られない」という安心感が必要だった。そして、そのミスを職場全体で共有し、次の大きなミスを防ぐ努力が重要だと考えていた。
「部下の失敗は上司の失敗と同じだ」というのが、高坂の信念だった。ホテルのシェフのように、毎日のように部下を叱ったり、パワハラをしたりする上司では、部下は萎縮してしまい、小さなミスさえ報告しなくなる。それがやがて大きな事故や失敗につながるのだ。
そもそも、現代において「怒る」という行為は生産的ではないと高坂は思っていた。自分の修業時代、上司や先輩たちはしばしば自分たちのストレスを部下や後輩にぶつけていた。それはただのストレス発散であり、無意味で時代遅れの習慣だと高坂は感じていた。
ふと食器を洗おうと席を立とうとした時、良太が再び現れた。「僕が洗います」と、彼は申し出た。
高坂は優しく笑って言った。「ありがとう。でも、これは私が食べたものだから、自分で洗うのが大切なんです。それが料理を作ってくれた料理人さんや、洗い場の皆さんへの礼儀ですし、感謝の気持ちの表れだからね。このホテルの慣習で一番、良い所はこれですから」
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