揺れる波紋

しらかわからし

文字の大きさ
上 下
19 / 56
第一章

第18話

しおりを挟む
大崎が食器を片付けに行くと、代わりに良太がそっと近づき、少し緊張した面持ちで言った。「一緒に座ってもよろしいでしょうか?」

高坂は笑顔で頷いた。「どうぞ」

良太は椅子に座り、少し申し訳なさそうに言った。「お借りしたあの苛性ソーダなんですが、実は全部使い切ってしまいました」

「あんなにあったのを使い切ったんですか? 石鹸でも作ったのかな?」と高坂は冗談交じりに聞いた。

「いえ、そうじゃなくて……。高坂さんに教えていただいた分量があったのに、汚れを簡単に落とそうとして、全部入れてしまったんです」良太は少し顔を赤らめながら話す。

高坂はやさしく笑いながら答えた。「そうだったんですね。でも、だからといって汚れは落ちなかったんじゃないですか?」

「はい……、同じでしたし、むしろ臭いを取るのが大変で」良太はうつむいたまま、苦笑いを浮かべた。

「まあ、良い勉強になったし、火傷をしなくてよかったですね」

「怒らないんですか?」と良太が不安そうに聞いた。

高坂は首をかしげた。「何で怒らないといけないんですか?」

「厨房でこんな失敗をしたら、普通は怒られますよ」良太は肩をすくめながら答えた。

高坂は軽く頷いて言った。「でも、若い人が経験から学んで、火傷もしなかったなら、それを喜ぶべきじゃないですか?」

良太は驚いたように高坂を見つめた。「高坂さんの考え方は、普通の人とちょっと違いますね」

高坂は笑いながら返す。「私に怒られたいんですか?」

「いえ、そういうわけじゃなくて……」

「それなら良いじゃないですか。とりあえず、調理場は清潔になったんだし、ね?」高坂は軽く肩を叩いた。

良太は少し安心したように微笑み、「色々教えてくださって、ありがとうございました」と言って席を立った。

「何かあれば、いつでも言ってくださいね」

「はい、その時はよろしくお願いします」良太は丁寧に頭を下げて立ち去った。

高坂は彼を見送りながら、ふと自身の持論を思い出していた。多くの人は上司に「怒られたくない」という心理を抱いている。特にミスをした時、部下はその恐怖に支配されがちだ。今回のように、良太は高坂が事前に分量を教えていたにもかかわらず失敗した。それを隠そうとするのは自然なことだが、高坂はすでに苛性ソーダの残量を把握していたため、良太は隠すことができなかった。

高坂は以前経営していたレストランでも、「ヒヤリハット」の原則を重視していた。重大な事故や災害に至らないものの、危険が潜んでいる事例は必ず報告させるようにしていて記録させたのだ。そのためには、ミスを報告した部下が「怒られない」という安心感が必要だった。そして、そのミスを職場全体で共有し、次の大きなミスを防ぐ努力が重要だと考えていた。

「部下の失敗は上司の失敗と同じだ」というのが、高坂の信念だった。ホテルのシェフのように、毎日のように部下を叱ったり、パワハラをしたりする上司では、部下は萎縮してしまい、小さなミスさえ報告しなくなる。それがやがて大きな事故や失敗につながるのだ。

そもそも、現代において「怒る」という行為は生産的ではないと高坂は思っていた。自分の修業時代、上司や先輩たちはしばしば自分たちのストレスを部下や後輩にぶつけていた。それはただのストレス発散であり、無意味で時代遅れの習慣だと高坂は感じていた。

ふと食器を洗おうと席を立とうとした時、良太が再び現れた。「僕が洗います」と、彼は申し出た。

高坂は優しく笑って言った。「ありがとう。でも、これは私が食べたものだから、自分で洗うのが大切なんです。それが料理を作ってくれた料理人さんや、洗い場の皆さんへの礼儀ですし、感謝の気持ちの表れだからね。このホテルの慣習で一番、良い所はこれですから」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

妊娠したのね・・・子供を身篭った私だけど複雑な気持ちに包まれる理由は愛する夫に女の影が見えるから

白崎アイド
大衆娯楽
急に吐き気に包まれた私。 まさかと思い、薬局で妊娠検査薬を買ってきて、自宅のトイレで検査したところ、妊娠していることがわかった。 でも、どこか心から喜べない私・・・ああ、どうしましょう。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

カメラとわたしと自衛官〜不憫なんて言わせない!カメラ女子と自衛官の馴れ初め話〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
「かっこいい……あのボディ。かわいい……そのお尻」ため息を漏らすその視線の先に何がある? たまたま居合わせたイベント会場で空を仰ぐと、白い煙がお花を描いた。見上げた全員が歓声をあげる。それが自衛隊のイベントとは知らず、気づくとサイン会に巻き込まれて並んでいた。  ひょんな事がきっかけで、カメラにはまる女の子がファインダー越しに見つけた世界。なぜかいつもそこに貴方がいた。恋愛に鈍感でも被写体には敏感です。恋愛よりもカメラが大事! そんか彼女を気長に粘り強く自分のテリトリーに引き込みたい陸上自衛隊員との恋のお話? ※小説家になろう、カクヨムにも公開しています。 ※もちろん、フィクションです。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...