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第一章
第11話
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「としえー!」
「だからいつも言ってるでしょ! 気安く名前を呼ばないで!」
高坂がレストランのドアを開けた瞬間、激しい怒鳴り声が響いた。驚いてカウンター脇の階段を見ると、踊り場で社長と専務の寿江(としえ)が口喧嘩をしている。彼らはそのまま事務所に入り、さらに大きな声で激しく言い合いを続けていた。専務は背を向けたままだが、社長は憎しみのこもった言葉を次々とぶつけていた。レストラン全体に重い空気が漂い、スタッフたちはピリピリと緊張した雰囲気に包まれていた。
そんな中でも、高坂は洗い場の目黒と鈴木と冗談を交わし、笑っていた。目黒がふとメモ用紙を取り出し、高坂に携帯番号を書いた紙を手渡すと、鈴木も「私も」と言いながら同じように番号を渡してくれた。
「高坂さんが入ってから、社長と専務はおとなしくしてたんだけど、もう我慢の限界なんだと思うよ」と、目黒が苦笑いしながら言った。「毎日のようにあの口喧嘩をしてて、お客さんから『うるさい!』って怒鳴られたことも何度もあるのよ」
高坂は呆れながら、心の中で「こんなことがホテルで許されるなんて信じられない」と思った。それにしても、シェフだけでなく、社長と専務の存在も問題だと感じた。自信家の社長と、全く仕事をしない専務。この二人の意識を変えるのは相当難しいだろうし、自分が何を努力しても無駄かもしれない、昔の社長ではなくなったのかもしれないな、俺もそうだったが初心を忘れてしまうんだよな、とそんな思いが胸をよぎった。
「最悪だな、ブラックなホテルに就職してしまったのか……」後悔が高坂を支配した。
やがて、全員の準備が整い、事務所から出てきた社長が「朝食を始めろ!」と命令した。富田がBGMのCDをセットし、レストランに朝の穏やかな音楽が流れ始めたが、スタッフたちは社長と専務の怒声にすっかり委縮してしまっていた。こんな状態で笑顔の接客などできるはずもない。しかし、高坂はいつも以上に明るく、「おはようございます!」「グッドモーニング!」と大きな声で元気に挨拶をして回った。
朝食が終わり、目黒が休憩のために現れ、周りに誰もいないのを確認してから、可愛い声で「今日、父ちゃんがいないから夜に電話してもいい?」と訊いてきた。「大丈夫ですよ」と私が返すと、目黒は笑顔を浮かべて「ありがとう」と言いながら休憩に入っていった。
富田は中抜け休憩に入り、別の店でのパートに向かった。佐藤も居酒屋「香」で夜のパートがあるため、朝食を取らずに帰って行った。高坂夫妻と大崎は一緒に朝食を取ったが、相変わらず大崎は夫妻から遠い席でいつものカレーを食べていた。高坂は最近の野菜不足を感じていたので、サラダを多めに取り食事を進めた。
少し後、遅番の良太が早めに出勤してきた。「高坂さん、先日教えてもらった苛性ソーダ、貸してもらえませんか?」
「いいよ」と高坂は答えたが、劇薬であることを思い出し、少し心配になった。「後で使い方を教えるから」と言い添えた。良太が着替えに向かおうとすると、高坂は思い立って呼び止めた。「ちょっといいですか?」
「昨日、皆と一緒に何か俺に対して話し合ったりした?」
良太は少し考えてから答えた。「実は、スーシェフの神田さんと副支配人の品川さんが、高坂さんの仕事ぶりを見て、ただ者じゃないからちゃんと礼儀を尽くそうって話になったんです。それで、二人がそれぞれのスタッフにLINEで伝えたんですよ」
「なるほど、それで今朝から皆が先に挨拶してくるんだな。正直、気持ち悪いぐらいだったよ。俺、そんなに偉くもないのにね」
良太はにっこり笑って、「僕だけは高坂さんがすごい人だって分かってますけどね」
「ほんとかな?」と高坂は照れ笑いし、二人は笑い合った。
その後、食事を終えて調理場に行くと、良太はすでに長靴を履いて待っていた。「良太君、この前と同じように、まずボウルに湯を沸かして」
「はい」
「苛性ソーダをこのくらい入れて……ただし、必ず水が冷たい状態で入れないと危ないからね。沸騰してからだと噴き出して火傷する恐れがあるから、気を付けてね」
「はい、分かりました」
「汚れた箇所は、しばらく浸してから擦る。アルミには使わないように。それと、必ずゴム手袋を忘れないでね」
「はい、ありがとうございます」
「あと、絶対にシェフたちには教えたことを言わないように。これ、約束だよ」
「分かってます。安心してください」
高坂夫妻は、その足でタイムカードを押し、レストランのガラス清掃を行いながら、これからのホテルの未来について思いを巡らせていた。
「だからいつも言ってるでしょ! 気安く名前を呼ばないで!」
高坂がレストランのドアを開けた瞬間、激しい怒鳴り声が響いた。驚いてカウンター脇の階段を見ると、踊り場で社長と専務の寿江(としえ)が口喧嘩をしている。彼らはそのまま事務所に入り、さらに大きな声で激しく言い合いを続けていた。専務は背を向けたままだが、社長は憎しみのこもった言葉を次々とぶつけていた。レストラン全体に重い空気が漂い、スタッフたちはピリピリと緊張した雰囲気に包まれていた。
そんな中でも、高坂は洗い場の目黒と鈴木と冗談を交わし、笑っていた。目黒がふとメモ用紙を取り出し、高坂に携帯番号を書いた紙を手渡すと、鈴木も「私も」と言いながら同じように番号を渡してくれた。
「高坂さんが入ってから、社長と専務はおとなしくしてたんだけど、もう我慢の限界なんだと思うよ」と、目黒が苦笑いしながら言った。「毎日のようにあの口喧嘩をしてて、お客さんから『うるさい!』って怒鳴られたことも何度もあるのよ」
高坂は呆れながら、心の中で「こんなことがホテルで許されるなんて信じられない」と思った。それにしても、シェフだけでなく、社長と専務の存在も問題だと感じた。自信家の社長と、全く仕事をしない専務。この二人の意識を変えるのは相当難しいだろうし、自分が何を努力しても無駄かもしれない、昔の社長ではなくなったのかもしれないな、俺もそうだったが初心を忘れてしまうんだよな、とそんな思いが胸をよぎった。
「最悪だな、ブラックなホテルに就職してしまったのか……」後悔が高坂を支配した。
やがて、全員の準備が整い、事務所から出てきた社長が「朝食を始めろ!」と命令した。富田がBGMのCDをセットし、レストランに朝の穏やかな音楽が流れ始めたが、スタッフたちは社長と専務の怒声にすっかり委縮してしまっていた。こんな状態で笑顔の接客などできるはずもない。しかし、高坂はいつも以上に明るく、「おはようございます!」「グッドモーニング!」と大きな声で元気に挨拶をして回った。
朝食が終わり、目黒が休憩のために現れ、周りに誰もいないのを確認してから、可愛い声で「今日、父ちゃんがいないから夜に電話してもいい?」と訊いてきた。「大丈夫ですよ」と私が返すと、目黒は笑顔を浮かべて「ありがとう」と言いながら休憩に入っていった。
富田は中抜け休憩に入り、別の店でのパートに向かった。佐藤も居酒屋「香」で夜のパートがあるため、朝食を取らずに帰って行った。高坂夫妻と大崎は一緒に朝食を取ったが、相変わらず大崎は夫妻から遠い席でいつものカレーを食べていた。高坂は最近の野菜不足を感じていたので、サラダを多めに取り食事を進めた。
少し後、遅番の良太が早めに出勤してきた。「高坂さん、先日教えてもらった苛性ソーダ、貸してもらえませんか?」
「いいよ」と高坂は答えたが、劇薬であることを思い出し、少し心配になった。「後で使い方を教えるから」と言い添えた。良太が着替えに向かおうとすると、高坂は思い立って呼び止めた。「ちょっといいですか?」
「昨日、皆と一緒に何か俺に対して話し合ったりした?」
良太は少し考えてから答えた。「実は、スーシェフの神田さんと副支配人の品川さんが、高坂さんの仕事ぶりを見て、ただ者じゃないからちゃんと礼儀を尽くそうって話になったんです。それで、二人がそれぞれのスタッフにLINEで伝えたんですよ」
「なるほど、それで今朝から皆が先に挨拶してくるんだな。正直、気持ち悪いぐらいだったよ。俺、そんなに偉くもないのにね」
良太はにっこり笑って、「僕だけは高坂さんがすごい人だって分かってますけどね」
「ほんとかな?」と高坂は照れ笑いし、二人は笑い合った。
その後、食事を終えて調理場に行くと、良太はすでに長靴を履いて待っていた。「良太君、この前と同じように、まずボウルに湯を沸かして」
「はい」
「苛性ソーダをこのくらい入れて……ただし、必ず水が冷たい状態で入れないと危ないからね。沸騰してからだと噴き出して火傷する恐れがあるから、気を付けてね」
「はい、分かりました」
「汚れた箇所は、しばらく浸してから擦る。アルミには使わないように。それと、必ずゴム手袋を忘れないでね」
「はい、ありがとうございます」
「あと、絶対にシェフたちには教えたことを言わないように。これ、約束だよ」
「分かってます。安心してください」
高坂夫妻は、その足でタイムカードを押し、レストランのガラス清掃を行いながら、これからのホテルの未来について思いを巡らせていた。
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