揺れる波紋

第一章

第10話

高坂夫妻が事務所に到着したのは、出勤から一時間後のことだった。夜勤を終えたフロント係の尾島が笑顔で高坂に目を合わせ、「高坂さん、おはようございます！」と元気に挨拶をしてきた。

「おはようございます」と高坂も応じたが、内心では不思議に思っていた。昨日まで、自分の方から挨拶していたはずだ。尾島はいつも視線を避けるような素振りを見せていたのに、今日は何かが違う。少し違和感を覚えながらも、高坂はその感情を抑え、日課に取り掛かった。

まずはホテルの外周の掃除に取り掛かり、駅舎や派出所前も手際よく清掃。そして今日はさらに駅舎隣の自転車置き場まで掃除範囲を広げた。ホテル内部に戻り、蜘蛛の巣もきれいにする。作業を終えるとタイムカードを押し、レストランのカウンター内の準備に入った。

程なくして、富田美紀と佐藤英子が出勤してきた。次に主任の大崎が現れる。高坂がカウンターの準備を進めていると、富田と佐藤がわざわざカウンター前まで来て「おはようございます」と丁寧に挨拶をしてくれた。

「昨日も忙しかったんでしょ？」と佐藤が訊く。 「まぁね」と高坂は簡潔に答える。

その後、主任の大崎が近づき、「高坂さん、おはようございます！」と明るい声で挨拶をした。 「おはようございます」といつも通りに応じる高坂だったが、心の中では驚きを隠せなかった。尾島の挨拶といい、大崎の態度の変化といい、なにかが変わってきていると感じた。皆が少しずつ良い方向へ向かっていることを、高坂は喜び始めていた。

その頃、洗い場のスタッフたちが出勤してきて、一斉にカウンター前で「高坂さん、おはようございます！」と挨拶をしてきた。高坂も笑顔で「おはようございます」と返し、薄化粧をしてきた目黒に目を向け、「あれ、今日は綺麗なんじゃない？」と軽く声をかけると、目黒は照れて頬を染めた。さらに、髪を短く整えた鈴木を見て、「ヘアースタイル変えたんだね。やっぱり美人はショートが似合うよね」と褒めると、鈴木は笑顔で答える。「うちの旦那は全然気づいてくれないのに、高坂さんはすぐに気づいてくれるから嬉しい！」

「旦那さんも気づいてるけど、ただ言葉にしないだけじゃないかな？」 「そうなんだろうけど、それじゃつまらないよね。博美さんが羨ましいわ」と、鈴木は少し寂しそうに笑った。

昨日まで自分から挨拶していたのに、どういう風の吹き回しだろうと、高坂は少し戸惑いを感じていた。

その後、調理場の三番手である新橋が出勤し、続いてスーシェフの神田もやってきた。厨房の窓から顔を出した神田が大声で「高坂さん、おはようございます！」と挨拶をしてきたとき、高坂の違和感はピークに達した。

「いよいよ何かあったんだろうか……」午後になったら良太に訊いてみようと考える。

コーヒーが出来上がり、全員の分をカップに注いでいると、富田がトレーを持ってきて配ってくれた。その時、シェフが厨房に入ってきたが、いつもなら文句を言うところ、今日は一切何も言わない。皆が不思議そうに顔を見合わせ、「今日はイジメはなし？」という雰囲気が漂い、一番驚いていたのは富田自身だった。

高坂はシェフの近くに行き、「おはようございます」と声をかけた。シェフは小さな声で「おはようございます」と返事をした。高坂は「シェフはこれまで誰からもガツンと注意されたことがなかったのかもしれない」と考えながら、その様子を見守った。