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第一章
第8話
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明け方の冷たい空気を感じながら、高坂夫妻はホテルに出勤した。だが、タイムカードを押すことはない。まず箒と塵取りを持って彼らが向かったのは、ホテルの外周だった。駅舎前や交番前も含めて、静かに掃き掃除を始める。遅番や休日でなければ毎朝繰り返すこの行動には、特別な意味があった。些細なことでも積み重ねが大事だと高坂は考えていた。
掃除を終えると、今度はホテルの建物に付着した蜘蛛の巣を取り除く作業に移る。フロント前も丁寧に仕上げ、ようやくタイムカードを押す。そこからはいつものようにレストランのカウンター内の朝の準備が始まる。妻はホールの準備をする。高坂は富田から教わった手順を少しアレンジして、より効率的に進めていく。
富田の教えでは、準備をすべて終えてから牛乳やジュース類を補充することになっていたが、高坂はそれを変えて、まず倉庫から必要な物を補充してから準備を始めることにした。常温保存できる牛乳は日持ちするが、味が劣ることを高坂はよく知っていた。
そんな時、佐藤英子が出勤してきた。台車に載せた牛乳とジュースを押そうとしている高坂を見て、彼女は「おはよう!」と元気よく声をかける。「おはようございます!」と高坂が返すと、佐藤はさりげなく台車を押してくれる。
カウンターの準備が終わり、ホットコーヒーをみんなに配った後、高坂は再びコーヒーメーカーに粉と水をセットし、足りなくなった分をディスペンサーに補充する。大崎がやってきて「おはようございます!」と挨拶するが、その様子に少し違和感を覚える。シェフに意見して以来、大崎の態度が一変していたからだ。以前とは打って変わって、笑顔で親しげに接してくる彼に、高坂はどこか居心地の悪さを感じていた。
その日、富田は休みで、代わりに山中が出ていた。彼女もまた、日本人の夫を持つ中国人だ。やがて料理人たちが出勤してきて、朝食の時間が始まる。山中がCDを入れてBGMを流すが、それは著作権のあるものだった。高坂はふと、ユーセンの安価な契約があるのに、こんな大きなホテルが違法行為を堂々と行っていることに呆れた。この社長は、見栄ばかり張って肝心なことにお金をかけないタイプだと、今更ながら高坂は内心苦笑した。社長は変わったなとも思った。
朝食は何事もなく終わり、賄いの時間が来た。山中は大量の菓子パンや揚げ物、納豆を五パックも皿に載せていた。その様子に高坂は思わず、「そんなに一人で食べるの?」と尋ねた高坂。
「どうせ捨てちゃうんだから勿体ないでしょ?」と山中は平然と言う。そして、使い古したくしゃくしゃのビニール袋に手際よく菓子パンを詰め始めた。驚いた高坂が「それ、持って帰るの?」と訊くと、「そうよ、何が悪いの?」と山中は全く悪びれる様子がない。
このような行為が食中毒を引き起こしたら、ホテル全体の責任になると高坂は感じた。叔父の経営するホテルで修行していた時にも、他のホテルでのヘルプを経験していたが、こんな行動をするパートは見たことがなかった。
「ねえ、山中さん、気になっていたんだけど、朝はバッグがペシャンコなのに、今は何も入れてないのにパンパンだよね。中身を見せてよ」と高坂が冗談交じりに言うと、「いやよ、何で見せなきゃならないの?」と山中は拒む。
「わかった。今日社長に会ったら、山中さんが食材を持ち帰っているって報告するよ」と高坂が言うと、山中はため息をつき、「誰にも言わないでくれる?」と不服そうにバッグを開けた。
中抜けの休憩中に、高坂は良太にこの件を訊いてみた。「山中さんはシェフに毎朝栄養ドリンクや酒を渡していて、シェフは見て見ぬ振りをしているんです」と良太は淡々と答えた。
上から下まで乱れたこのホテルの経営状況に、高坂は驚きを隠せなかった。冷凍庫の物が減るのは、仕入れ担当のスーシェフも把握しているが、何も手を打っていないというのだ。
夕食時、パートたちがそれぞれ「これは社長のやり方だから」「これは専務のやり方だから」と言い訳をしてくる中で、高坂はドリンクのレシピや原価率が全く管理されていないことに気づく。師匠から教わった知識を駆使し、高坂はレシピや原価率を一つずつ整理し、良太に教えてあげようと心に決めた。
高坂は叔父のホテルに勤務していた時に師匠から習った料理と自身が経営していたレストランの料理のレシピと原価率を自身で計算し、全てを一旦、現場ではメモ帳に書き記し、その後は大学ノートに清書した。一九九六年からパソコンを触るようになってからは、エクセルに保存し、コピーしてバインダーに収めていた。そのバインダーを、その内に良太に見せてあげようと思った。
掃除を終えると、今度はホテルの建物に付着した蜘蛛の巣を取り除く作業に移る。フロント前も丁寧に仕上げ、ようやくタイムカードを押す。そこからはいつものようにレストランのカウンター内の朝の準備が始まる。妻はホールの準備をする。高坂は富田から教わった手順を少しアレンジして、より効率的に進めていく。
富田の教えでは、準備をすべて終えてから牛乳やジュース類を補充することになっていたが、高坂はそれを変えて、まず倉庫から必要な物を補充してから準備を始めることにした。常温保存できる牛乳は日持ちするが、味が劣ることを高坂はよく知っていた。
そんな時、佐藤英子が出勤してきた。台車に載せた牛乳とジュースを押そうとしている高坂を見て、彼女は「おはよう!」と元気よく声をかける。「おはようございます!」と高坂が返すと、佐藤はさりげなく台車を押してくれる。
カウンターの準備が終わり、ホットコーヒーをみんなに配った後、高坂は再びコーヒーメーカーに粉と水をセットし、足りなくなった分をディスペンサーに補充する。大崎がやってきて「おはようございます!」と挨拶するが、その様子に少し違和感を覚える。シェフに意見して以来、大崎の態度が一変していたからだ。以前とは打って変わって、笑顔で親しげに接してくる彼に、高坂はどこか居心地の悪さを感じていた。
その日、富田は休みで、代わりに山中が出ていた。彼女もまた、日本人の夫を持つ中国人だ。やがて料理人たちが出勤してきて、朝食の時間が始まる。山中がCDを入れてBGMを流すが、それは著作権のあるものだった。高坂はふと、ユーセンの安価な契約があるのに、こんな大きなホテルが違法行為を堂々と行っていることに呆れた。この社長は、見栄ばかり張って肝心なことにお金をかけないタイプだと、今更ながら高坂は内心苦笑した。社長は変わったなとも思った。
朝食は何事もなく終わり、賄いの時間が来た。山中は大量の菓子パンや揚げ物、納豆を五パックも皿に載せていた。その様子に高坂は思わず、「そんなに一人で食べるの?」と尋ねた高坂。
「どうせ捨てちゃうんだから勿体ないでしょ?」と山中は平然と言う。そして、使い古したくしゃくしゃのビニール袋に手際よく菓子パンを詰め始めた。驚いた高坂が「それ、持って帰るの?」と訊くと、「そうよ、何が悪いの?」と山中は全く悪びれる様子がない。
このような行為が食中毒を引き起こしたら、ホテル全体の責任になると高坂は感じた。叔父の経営するホテルで修行していた時にも、他のホテルでのヘルプを経験していたが、こんな行動をするパートは見たことがなかった。
「ねえ、山中さん、気になっていたんだけど、朝はバッグがペシャンコなのに、今は何も入れてないのにパンパンだよね。中身を見せてよ」と高坂が冗談交じりに言うと、「いやよ、何で見せなきゃならないの?」と山中は拒む。
「わかった。今日社長に会ったら、山中さんが食材を持ち帰っているって報告するよ」と高坂が言うと、山中はため息をつき、「誰にも言わないでくれる?」と不服そうにバッグを開けた。
中抜けの休憩中に、高坂は良太にこの件を訊いてみた。「山中さんはシェフに毎朝栄養ドリンクや酒を渡していて、シェフは見て見ぬ振りをしているんです」と良太は淡々と答えた。
上から下まで乱れたこのホテルの経営状況に、高坂は驚きを隠せなかった。冷凍庫の物が減るのは、仕入れ担当のスーシェフも把握しているが、何も手を打っていないというのだ。
夕食時、パートたちがそれぞれ「これは社長のやり方だから」「これは専務のやり方だから」と言い訳をしてくる中で、高坂はドリンクのレシピや原価率が全く管理されていないことに気づく。師匠から教わった知識を駆使し、高坂はレシピや原価率を一つずつ整理し、良太に教えてあげようと心に決めた。
高坂は叔父のホテルに勤務していた時に師匠から習った料理と自身が経営していたレストランの料理のレシピと原価率を自身で計算し、全てを一旦、現場ではメモ帳に書き記し、その後は大学ノートに清書した。一九九六年からパソコンを触るようになってからは、エクセルに保存し、コピーしてバインダーに収めていた。そのバインダーを、その内に良太に見せてあげようと思った。
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