揺れる波紋

しらかわからし

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第一章

第7話

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明け方の空気がひんやりと肌を刺す中、私は早くに目を覚ました。今日の出勤は遅番だが、昨日、最年少の料理人の良太から魚を下ろす技術を教えると約束した。私は若い情熱に応えるため、中央卸売市場へと足を運んだ。近海で獲れた新鮮なブリスズキイワシサバなどを買い、寮のキッチンで私に魚の下ろし方を教えるためだ。

約束の時間通りに良太は寮に来た。キッチンに立つ高坂は、包丁を握り、最初、一尾の鯖を下し良太に見せ、「やってみなさい」と言って包丁を渡した。良太は最初の頃は中骨に身を沢山付けていたが、徐々に慣れて上手に下すことができた。更に鰯は頭と内臓をはねてから手開きを教えた。

そして鱸の下ろし方を見せた。「こんな感じで」と手取り足取りで彼に教えながら、良太の真剣な表情を横目に、若者の成長に期待を寄せた。大物の鰤も同じように丁寧に扱い、柵取りした刺身を見せて「これを君の母親に持っていきなさい。名刺代わりね」と微笑んだ。

良太の母親はシングルマザーで、礼儀正しい彼の人柄からも、きっと立派な教育をしているに違いないと高坂は感じていた。「自分の道具は、自分で揃えるんだよ」と包丁の手入れも教え講習は終了した。

その後、良太と妻を連れて食事に出かけた。レストランで料理を待つ間、彼がぽつりと切り出した。「今のホテルを辞めて、もっと仕事が覚えられる会社に入りたいんです。三年も驛前ホテル一号館に勤めていますが、厨房の床掃除すら教わったことがないんです」と。高坂はその言葉に驚いた。

確かに、驛前ホテル一号館の厨房は油で黒ずみ、悪臭が漂っていた。冷凍ストッカーの氷すら長らく剥がされていない有様だった。

良太が続ける。「シェフも、ストッカーの氷の落とし方を知らないみたいで、洗い場のスタッフにペティナイフで削らせているんです」高坂はその光景を想像し、ため息をついた。

さらに、料理人たちの仕込みを見る限り、ブイヨンやソースを一から仕込む姿を見たことがない。全てが缶詰や冷凍食品でまかない、唯一新鮮なのはサラダの野菜だけだった。

「うちのレストランでは、ブイヨンもソースもスープも一から仕込んでいた」と思い高坂は内心、驚きと落胆を覚えた。同じ「レストラン」と名乗っても、こんなにも違うのかと思った。

それでも、良太にはもっと学んでほしいと考えた。彼が驛前ホテル一号館で働いている間に、仕込みや掃除の仕方を密かに教えてあげようと心に決めた。

その後、出勤前に副支配人の品川に挨拶をした。「今日は遅番にして頂き、ありがとうございました」と深く礼をすると、品川は微笑みながら「いえいえ、どういたしまして」と返した。高坂は、自分がそう感じた時は上司に感謝を示すことを大切にしていた。これも人間関係を円滑にするための一つの術だった。

その日の仕事は、中抜けの休憩を挟んで行われるため、疲労感は否めなかった。朝早くに市場へ出向き、良太に魚の講習をしたことで、ほとんど通し勤務と変わらなかったのだ。

レストランに戻ると、すでに良太が出勤していた。「今日は、ありがとうございました!」と駆け寄る彼に、高坂は人差し指を唇に当てて「内緒だよ」と軽く笑った。

「うちの母が、高坂さんご夫妻にお礼がしたいって言っているので、今度、家に来てください」と彼が言うが、高坂は「気にしないで下さいと伝えて」と答えた。

レストランの準備が進む中、女子高校生のスタッフが夕食ビュッフェのセッティングをしていた。「いつもありがとう」と声をかけると、彼女はキョトンとした表情を浮かべた。どうやら、ここでは感謝の言葉があまりにも珍しいらしい。

厨房では、目黒が卵を攪拌しながら高坂に訊いてきた。「どうやったらもっと簡単に、早くできますか?」

高坂はお決まりの冗談で切り返す。「今日も美しいね、目黒さん」と言うと、還暦を過ぎた彼女が「いやん、そんなこと言われたら疼いちゃう!」と笑い、二人で大笑いした。ふざけて「どこが疼くんだ?」と尋ねると、彼女は手を伸ばし、高坂の下半身に触れてからすぐに離した。

「いやん!」と高坂がふざけて腰を引くと、目黒はさらに笑った。その様子を見ていた高田も話に加わり、みんなで笑い合った。だが、高坂は、これがこのホテルの実情だと感じた。シェフはスタッフに尊敬されていない。ただ、怖がられているだけだと思った。

そんな中、高坂は信じていた。スタッフ全員が協力し、誰が偉いとか偉くないとかは関係なく、ただお客様を喜ばせることを考えれば、自然とチームはうまく回っていくのだと。

そして、目黒と高田に卵の割り方や攪拌のコツを教え、「最後にはこのシノアと縦型レードルで漉して下さい」と言いながら最初はやって見せると二人は目を見開いた。「こんなに早く、きれいにできるなんて……」と驚く二人に、次回もまた冗談を交えながら、彼らに教えてあげようと高坂は心に決めた。
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