揺れる波紋

しらかわからし

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第一章

第3話

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高坂は窓の外に広がる街並みを眺めながら、重い気持ちを抱えていた。ティールームの開業が一年半後に決まったという知らせは、彼にとって決して嬉しいものではなかったのだ。それまでの間、彼と妻の博美は社長の妻の専務が仕切る驛前ホテル一号館で働くことが決まっていた。それは社長の配慮という名の命令であり、ティールーム開業がスムーズに進むよう、専務との人間関係を築くためだった。

「この一年半、仕事をせずにのんびりと過ごしたかったのに……」高坂は内心でつぶやいた。特に、長年義母の介護に尽くしてきた妻を労い、全国の温泉地を巡りながら二人でゆっくり休養する計画があった。彼自身も年齢と共に体力の衰えを感じており、少しの間でも休みたかった。ティールームが開業したときに再び働けばいい、そんな甘い夢を抱いていた。

だが、現実はそう簡単ではなかった。社長の性格を知り尽くしている彼らにとって、拒否など不可能だった。

十二月のある日、社長からのメールが届いた。「年内に寮へ引っ越し、元旦には驛前ホテル一号館に初出勤」。簡潔な指示に、高坂はため息をついた。軽ワゴン車に当面の荷物を積み込み、寮へと向かう彼の心には、重くのしかかる不安があった。

新年の初出勤日、スタッフ全員に挨拶を済ませた後、社長が事務室に現れた。軽い口調でこう言った。「毎朝ここに来るのは、専務が仕事をしないからだ。君には専務の見張りを頼みたい。逐一報告してくれ。それと、君はカウンターに居てメインダイニング全体を指揮してくれ、奥さんにはホールを任せる」社長はその言葉を残し、すぐに去っていった。

専務の顔には、苦々しい表情が浮かんでいた。

案の定、専務は何もしなかった。客に挨拶もせず、ただレジの前に立ち、無表情で仏頂面をしているだけだった。その姿に、高坂は「いない方がマシだ」と思ったが、社長に報告することはなかった。社長が夫婦の間に何かしらの意図を持っているのは明白で、口出しするのは気が引けた。

高坂がホテルに出勤した朝、朝食準備のために動き出していたホールは、既に静かな忙しさに包まれていた。冷蔵庫から運び出された前夜に用意された冷菜が、山中とホール主任の大崎の手で整然とセッティングされていく。彼はその光景を眺めながら、自分の役割を探るように動き始めた。

朝食の準備が進む中、富田というウエイトレスが近づいてきた。「シェフはね、苛めやパワハラが大好きなのよ」と彼女は囁くように言った。「今は私がターゲットだから大丈夫だけど、次は高坂さんかもしれないわ。気を付けてね。前のターゲットは大崎さんだったのよ」その言葉に、高坂は心の中で何かがざわついたが、表情には出さずに頷いた。

洗い場に目黒と鈴木が現れたが、彼女らは無言で仕事に取り掛かる。高坂は怯むことなく「高坂です。どうぞ宜しくお願いします」と挨拶をしたが、彼女らからの反応はなかった。富田が再び現れ、「あの人たちはシェフの顔色しか見てないから、気にしなくていいわよ」と言う。その時は、その言葉の意味がよく分からなかった高坂だった。

※ ※ ※

時間が経ち、富田が「高坂さん、コーヒーを淹れましょう!」と声をかけてきた。高坂は彼女の後を追い、カウンター内でスタッフ分のコーヒーを用意した。まず厨房に運び、その後、洗い場やホールスタッフに一杯ずつ配って回る。富田は慣れた手つきでコーヒーメーカーに再び水を注ぎ、次の分を淹れ始めた。

その時、厨房からシェフの怒声が響いた。「富田ぁ!」という叫び声がホール全体に響き渡り、富田は「ほらね」と小さく囁くと、慌てて厨房に駆け込んだ。円形の窓から、シェフと対峙する富田の姿が見えた。

「お前、その化粧は何だ! やり直してこい!」とシェフは怒りを露わにし、富田は何も言わずに事務所裏の控室へと消えていった。ホールと厨房の空気が一瞬で凍りついた。高坂から見れば、富田の化粧は清楚で、彼女の色白の美しい顔にぴったりだと思えたが、シェフの目には違ったようだ。

しばらくして戻ってきた富田は、シェフに「これでどうでしょうか?」と再び問いかけたが、彼は無言で背を向けたままだった。富田は高坂の元に戻ると、舌を出して苦笑いしたが、その目は赤く腫れていた。

高坂は胸の奥に怒りがこみ上げてきた。彼がかつて経営していたレストランでは、スタッフを公衆の面前で叱責することは決してしなかった。注意は二人きりのときにそっと行い、褒める時は皆の前で大々的に称賛した。それがチーム全体の士気を高め、明るく和やかな雰囲気を作り出していたのだ。

「このシェフのやり方では、誰も幸せにはならない」と高坂はそう心の中で呟き、早急にこの空気を変えなければならないと決意を新たにした。富田の化粧に難癖をつけるシェフの姿を見て、彼もまたレストランのスタッフ全員が陰で(グラン)シェフと嘲笑する理由を理解し始めていた。
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