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第56話 踊る芸術サロン⑥:白磁の夢
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(美しい白磁は長きに渡ってヨーロッパの夢だった。ドイツ・ザクセンのマイセンがそれを成し遂げたのは、1708年のことだ)
ヨーロッパ陶器の歴史は、マイセンと共にあると言われてきた。
元より陶器・磁器ならびセラミックスの分類については研究者によって議論があって、窯業用語も国によって異なっているのが実情だが、ここでは敢えてそれを大雑把に括ることにする。
大きくは釉薬の有無と、焼成温度で下記のように分かれる。
●釉薬を塗らないもの
土器:概ね1000度以下
炻器:概ね1200度以上
●釉薬を施すもの
陶器:概ね1100度~1250度
磁器:概ね1350度以上
一般的に陶磁器は、焼成温度が低いほど多孔質で柔らかく水を吸う性質があり、焼成温度が高いほど硬質になるとされる。よく陶器を日干ししたりするのは、この吸水性が理由である。
また、材質によって焼結体の性質は変わる。ただ単に粘土を高い温度で焼いたからといって、それが適切な磁器になるわけではない。
長らくヨーロッパにおいては、カオリナイト(花崗岩などの長石が分解して生成される粘土鉱物)やモンモリロナイト(スメクタイト系で水を良く抱え込む膨潤性のある粘土鉱物)を豊富に含んだ適切な粘土に乏しく、また窯の研究も進んでいなかったため、陶磁器が発展したのは中世後期以降になった。
それまでも、様々な釉薬を駆使したイスパノ・モレスク陶器や、マヨリカ陶器、あるいはラスター彩陶器(金属質の光彩をもつ華やかな陶器)などが存在したが、白く、濡れているような艶を放つ磁器/ポーセリンを作る技術は、ヨーロッパになかった。
透光性を僅かに帯び、金属のように澄んだ音の鳴る――マルコ・ポーロの『東方見聞録』にポルセーラ貝のようだと喩えられた、白く美しいポーセリンは、とても希少であった。
西陣織の金襴の布地から現れたのは――滑らかな白。
器に口縁が施してあって余白が豊かにあるのは、例えるならば有田焼の柿右衛門様式を髣髴とさせる造りであった。上品な青と、縁取りの金は、余白との対比あってこそ目に映えた。
「マイセンより<ノーブルブルー>です」
鮮やかで華やかな布の中に息づく、艶めかしいほどの白。
その美しさに、この場にいる誰もが言葉を吞んでいるのが伝わってきた。
◇◇◇
(主殿は、こんな状況だというのにまだ三品目を出そうとしている。正気の沙汰ではない)
背後に侍っていたゾーヤは、凍り付いているとさえ言って過言ではないこの場において、ひどく冷静にそんなことを考えていた。
今は、帯剣を許されていないので、何か手頃な武器を目で探していたところである。仮に乱闘騒ぎになったとしたら、いの一番に主人を守らないといけない。
(深い朱色の上質な天鵞絨と、『ニシジンオリ』とやらのあの金の美しい模様織りでも十分だったのだ。それなのに、ぞっとするほどに美しいカットグラスと、艶めかしいほどに美しい食器まで出しておいて、更に次だと?)
見るがいい、とゾーヤは内心で嘆息した。
あの御令嬢は、とっくに頭が煮えている。目に飛び込んでくる情報の多さと、高い水準で美しさを実現している工芸の極致に、今までの常識を塗り替えられているのだ。上気した頬、潤んだ瞳。もはや恋する乙女のそれに近い。
あるいは、初めて飲む美酒の美味しさに感激している乙女とでもいうべきだろうか。
そして主殿は、信じられないほど旨い上酒をどんどん持ってきて「ほら飲めほら飲め」と飲ませている悪い男である。最低である。
「この艶めかしい白……青磁とはまた違うわね。氷のように硬く冷たい色ではないもの。丁寧に青みを取り除いてこの色に至っているんだわ……」
「……」
「染付は丁寧なのに、余白を埋めようともしないのね……。でもそれがかえって、青と金の上品さを際立たせている……」
「……」
酔うだけ酔わせておいて、あえて解説しないのも悪いところである。令嬢の独り言を、主殿はただ静かに聞いているだけだった。
ゾーヤの記憶が正しければ、確かあれは『カキエモン』の『濁手』に似ているだの何だの言っていたはずである。
感動に没入しているのを邪魔しない、といえば聞こえがいいが――。
(<エキュム・モルドレ>と同じだが、あの徹底して青みを取り除いた白色の器が、評価されないはずがない)
これもまた、先ほどのカットグラスと同じ考えでこの場に出している。
美しいカットグラスだけでなく、この白磁の器でさえも複数取り揃えることができる――と暗に主張しているのだ。<エキュム・モルドレ>と<ノーブルブルー>では方向性が違うものの、いずれも王侯貴族に奏上するに耐えうる逸品。
一歩離れたところから眺めているアルバート氏は、非常に難しい表情をしていた。正しく意図を汲み取ったのだろう。美術品に呑まれて惚けている令嬢とは違って、彼は生粋の商人なのだ。
「実は」
「待って聞きたくない」
「次が」
「嘘でしょ」
悲鳴のような声をよそに、主殿は呑気に三つ目に手を伸ばしていた。
「ご安心下さい、最後はささやかなものですよ」
確かに最後はささやかなものかもしれない。一緒に品物を見ていたゾーヤにはそれが分かる。だが――。
――――――
元ネタ:『マイセン ノーブルブルー ディナープレート』
やっぱりマイセンは西洋磁器の大御所ですよね。
マイセンの「シノワズリ(東洋趣味)」や「柿右衛門」を出そうか悩みましたが、柿右衛門様式は柿右衛門様式で出せばいいかなと思ったのと、そこまで日本風に寄せなくていいかなと思ったので、純粋に白磁の美しさを強調しようと思いました。
イスパノ・モレスク陶器やマヨリカ陶器あたりもいつか掘り下げたいのですが、今回はあくまで「華々しい絵付けの陶器の他にも、こんなに美しい白地のものもあるんだ」という感じで、対比のために出してます。
「ベレッティーノ」とか「ビアンコ・ディ・ファエンツァ」とか、とても良いですよね。
ヨーロッパ陶器の歴史は、マイセンと共にあると言われてきた。
元より陶器・磁器ならびセラミックスの分類については研究者によって議論があって、窯業用語も国によって異なっているのが実情だが、ここでは敢えてそれを大雑把に括ることにする。
大きくは釉薬の有無と、焼成温度で下記のように分かれる。
●釉薬を塗らないもの
土器:概ね1000度以下
炻器:概ね1200度以上
●釉薬を施すもの
陶器:概ね1100度~1250度
磁器:概ね1350度以上
一般的に陶磁器は、焼成温度が低いほど多孔質で柔らかく水を吸う性質があり、焼成温度が高いほど硬質になるとされる。よく陶器を日干ししたりするのは、この吸水性が理由である。
また、材質によって焼結体の性質は変わる。ただ単に粘土を高い温度で焼いたからといって、それが適切な磁器になるわけではない。
長らくヨーロッパにおいては、カオリナイト(花崗岩などの長石が分解して生成される粘土鉱物)やモンモリロナイト(スメクタイト系で水を良く抱え込む膨潤性のある粘土鉱物)を豊富に含んだ適切な粘土に乏しく、また窯の研究も進んでいなかったため、陶磁器が発展したのは中世後期以降になった。
それまでも、様々な釉薬を駆使したイスパノ・モレスク陶器や、マヨリカ陶器、あるいはラスター彩陶器(金属質の光彩をもつ華やかな陶器)などが存在したが、白く、濡れているような艶を放つ磁器/ポーセリンを作る技術は、ヨーロッパになかった。
透光性を僅かに帯び、金属のように澄んだ音の鳴る――マルコ・ポーロの『東方見聞録』にポルセーラ貝のようだと喩えられた、白く美しいポーセリンは、とても希少であった。
西陣織の金襴の布地から現れたのは――滑らかな白。
器に口縁が施してあって余白が豊かにあるのは、例えるならば有田焼の柿右衛門様式を髣髴とさせる造りであった。上品な青と、縁取りの金は、余白との対比あってこそ目に映えた。
「マイセンより<ノーブルブルー>です」
鮮やかで華やかな布の中に息づく、艶めかしいほどの白。
その美しさに、この場にいる誰もが言葉を吞んでいるのが伝わってきた。
◇◇◇
(主殿は、こんな状況だというのにまだ三品目を出そうとしている。正気の沙汰ではない)
背後に侍っていたゾーヤは、凍り付いているとさえ言って過言ではないこの場において、ひどく冷静にそんなことを考えていた。
今は、帯剣を許されていないので、何か手頃な武器を目で探していたところである。仮に乱闘騒ぎになったとしたら、いの一番に主人を守らないといけない。
(深い朱色の上質な天鵞絨と、『ニシジンオリ』とやらのあの金の美しい模様織りでも十分だったのだ。それなのに、ぞっとするほどに美しいカットグラスと、艶めかしいほどに美しい食器まで出しておいて、更に次だと?)
見るがいい、とゾーヤは内心で嘆息した。
あの御令嬢は、とっくに頭が煮えている。目に飛び込んでくる情報の多さと、高い水準で美しさを実現している工芸の極致に、今までの常識を塗り替えられているのだ。上気した頬、潤んだ瞳。もはや恋する乙女のそれに近い。
あるいは、初めて飲む美酒の美味しさに感激している乙女とでもいうべきだろうか。
そして主殿は、信じられないほど旨い上酒をどんどん持ってきて「ほら飲めほら飲め」と飲ませている悪い男である。最低である。
「この艶めかしい白……青磁とはまた違うわね。氷のように硬く冷たい色ではないもの。丁寧に青みを取り除いてこの色に至っているんだわ……」
「……」
「染付は丁寧なのに、余白を埋めようともしないのね……。でもそれがかえって、青と金の上品さを際立たせている……」
「……」
酔うだけ酔わせておいて、あえて解説しないのも悪いところである。令嬢の独り言を、主殿はただ静かに聞いているだけだった。
ゾーヤの記憶が正しければ、確かあれは『カキエモン』の『濁手』に似ているだの何だの言っていたはずである。
感動に没入しているのを邪魔しない、といえば聞こえがいいが――。
(<エキュム・モルドレ>と同じだが、あの徹底して青みを取り除いた白色の器が、評価されないはずがない)
これもまた、先ほどのカットグラスと同じ考えでこの場に出している。
美しいカットグラスだけでなく、この白磁の器でさえも複数取り揃えることができる――と暗に主張しているのだ。<エキュム・モルドレ>と<ノーブルブルー>では方向性が違うものの、いずれも王侯貴族に奏上するに耐えうる逸品。
一歩離れたところから眺めているアルバート氏は、非常に難しい表情をしていた。正しく意図を汲み取ったのだろう。美術品に呑まれて惚けている令嬢とは違って、彼は生粋の商人なのだ。
「実は」
「待って聞きたくない」
「次が」
「嘘でしょ」
悲鳴のような声をよそに、主殿は呑気に三つ目に手を伸ばしていた。
「ご安心下さい、最後はささやかなものですよ」
確かに最後はささやかなものかもしれない。一緒に品物を見ていたゾーヤにはそれが分かる。だが――。
――――――
元ネタ:『マイセン ノーブルブルー ディナープレート』
やっぱりマイセンは西洋磁器の大御所ですよね。
マイセンの「シノワズリ(東洋趣味)」や「柿右衛門」を出そうか悩みましたが、柿右衛門様式は柿右衛門様式で出せばいいかなと思ったのと、そこまで日本風に寄せなくていいかなと思ったので、純粋に白磁の美しさを強調しようと思いました。
イスパノ・モレスク陶器やマヨリカ陶器あたりもいつか掘り下げたいのですが、今回はあくまで「華々しい絵付けの陶器の他にも、こんなに美しい白地のものもあるんだ」という感じで、対比のために出してます。
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