猫被りも程々に。

ぬい

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2nd:Spring

02

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タクシーから降りて、支払いを終えた後。
手を繋いだまま離そうとしない会長はマンションのエントランスへと向かって歩く。ここら辺で本当に酔ってるのかと疑い始めていたが、その疑惑はゴンッと静かな夜道に響いた鈍い音で消え去った。

「だ、大丈夫ですか…?」
「……痛い」

どうやら窓ガラスに頭を思い切りぶつけた様で会長は自分の額を手で抑えて立ち止まる。直ぐに額を確認すると幸い血は出ておらず、少し赤くなっている程度。こんなに腑抜けた会長を見るのは初めてなので正直ちょっと面白い。

酔っているとはいえ、からかったらどんな目に遭うか分からないので必死に笑いを堪えながら肩を貸す。先程の出来事で一気に気が抜けたのか、部屋に着くまでの間、俺に身を預けたまま。玄関に辿り着いても靴を脱ごうとしない会長の身体を揺すった。

「会長、靴脱いで」
「…会長じゃなくて名前」
「……凌さん、靴」

素直にそう言えば、会長は寄りかかっていた身体をゆっくりと起こす。指示通り靴を脱ぐのかと思いきや、急に頬を掴まれて、唇を重ねられた。その勢いで雪崩込むように倒れる。

(だめだ、こりゃ…)

いつも以上に予測不可能で手に負えない。
早々に抵抗するのも諦めて、暫く好き勝手にさせているとようやく満足したのか唇が離れた。このまま行為を続けるのかと思ったが、服に手をかける前に動きが止まる。

「大学進学やめない?」
「…なに言ってるんですか、急に」

あまりに唐突すぎる言葉に戸惑った。会長の表情を確認したいが前髪でよく見えない。俺が髪の毛に触れる前に「女と話してるところ見たくない」と小さい声で言われて、その言葉の意味を完全に理解した。

「進学しないでどうするんですか?就職?」
「就職もしなくていい」
「…進学も就職もせずこの先どうしろと?」
「んー…専業主夫かヒモ?」

何言ってんだ、この人。
酔っ払いの訳の分からない発言を半分聞き流しながら、いつまで経っても自分で脱ぎそうにない靴を脱がせる。

「心配しなくても好きになったりしませんよ」
「分かんないじゃん、そんなの」

酔ったらネガティブになるタイプなんだろうか。靴を脱がせるために俯いていた顔をあげると思いのほか真剣な表情をしている会長と目が合った。

「今はそうでもこの先、好きになるかもしれないじゃん」

静かすぎる声が廊下に響く。聞き流していたことを後悔してしまいそうなくらい微かで消え入りそうな声色だった。

今度こそ表情が確認出来るように髪の毛に触れる。その間、壁に寄りかかった会長は特に抵抗する訳でもなく、ただ黙って目を伏せていた。何を言おうかと考える前に自然と言葉が零れる。

「俺、凌さんのこと好きだよ」
「…なに急に」
「あんまり伝わってねーのかなと思って」
「それくらい伝わってるよ」

笑う会長に嘘を言ってる様子はなさそうだった。でも微妙な違和感を感じて、必死に原因を探す。
好かれている自覚が薄いことは確か。他にもまだ原因があるとしたら恐らくーーー。

「凌さんさ、俺がまだ一時的な気の迷いで付き合ってるとか…思ってない?」

そう言った瞬間、会長は視線を上げた。恐らく図星ということだろう。酔っているからかいつもより表情が読みやすくて助かる。

「ちゃんと納得してると思ってました」
「…学園にいた時はしてたよ」 
「…今は?」
「今は…」

酔っていても多少理性はある様で口を噤んだ。
再び目を伏せてから少し沈黙が続いた後、会長は言葉を選ぶみたいにゆっくりと口を開く。

「環境が変わったら、気持ちも変わるんじゃないかって…思うことがたまにある」 

大学に入ってから、環境が一気に変わり、色んな人と接する機会ができた。入学式から1週間以上が経って、ポロポロと色んな不安が出てくるのは当然といえば当然。物理的な距離も出来たし、そういう不安があってもすぐに払拭することは出来ない。

正直俺自身もサークルだのバイトだのと今までと全く違う環境にいる会長に対して不安が全くない訳では無い。だから会長の言ってることは理解出来た。

「凌さんはどうですか」
「…俺?」
「環境変わって、気持ち変わりそう?」

ここで平然とこんなこと聞けるのは恐らく自覚の差なんだろう。自惚れかもしれないが、環境が変わったからといって気持ちが変わるなんて考えたことないくらい好かれている自信はあった。答えの分かりきった問い掛けに対して、会長は俺が予想していた通りの言葉で返す。

「全く」
「俺も同じです」

素面だとこんなこと吐き出してくれなかったに違いない。そう考えると今日は逆に酒に酔ってくれて良かったと思った。思いっきり未成年飲酒だけど。
視線が合うように俯きがち顔に手を伸ばして、頬を撫でる。触れた箇所はいつもより熱帯びていた。

「言っておきますけど、俺、凌さんが思ってる以上に凌さんの事好きですよ」

真っ直ぐ目を見て言えば、少し目を見開いた会長は「ずるいな」と笑った。それを合図にどちらからともなく顔を近づける。軽く感触を確かめるようにキスした後、掻き分けた前髪から少し赤くなった額が見えた。

「おでこ、痛みます?」
「少しだけ」
「何か冷やすもの持ってきましょうか」
「いい。そんな暇ないから」

リビングに移動しようとした俺の手を軽く掴んでそのまま会長も同じように立ち上がる。ここら辺からもう既に嫌な予感がして、暑くないのに冷たい汗が背中に流れた。

「たくさん相手してくれるんでしょ」
「……俺、今日あんまり体力ないですよ」
「こっちで調整するから大丈夫」

何も大丈夫じゃない。いや、でも玄関でする流れになってないだけマシなんだろうか。とりあえず背中の安全は守れただけ良しとし、大人しく寝室へと向かった。
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