アイロニー・セレナーデ

笹森賢二

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#08 華

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   ──一輪。
 
 
 
 すっかり色の褪せた世界に春が訪れた。梅が咲いた。夏を待つ紫陽花は手入れがされていた。桜ももう直ぐだろう。其れよりも。
「ねぇ、聴いてるのかね?」
 窓辺に一輪、華が咲いて居た。深い赤い色のストールを肩に掛け、少女は何か有りそうな顔で笑って居た。
「ああ、花見か、余り好みじゃ無いな。」
 私は素気ない振りで応える。
「まぁ、そうだろうね。訊いた私が間違って居た。」
 春、桜、柳、川。どれも私には腐り行く世界と死人しか思い起こせ無い。
「ふん、どうせ亦桜の下には、とか言いだすのだろう?」
 間違いでは無い。桜の薄紅は人の血を吸い上げた物、と誰かが言って居た。柳と川では霊の類しか浮かばない。そして、爛熟した春。
「未だ、気にして居るのかね?」
 煙草を咥えた。火は少女が点けて呉れた。
「誰の所為でも無いよ。」
 春の風に巻かれる様に妹が死んだ。其れだけだ。誰でも何時かは死ぬ。当たり前の話だ。妹は少しばかり早かった。其れだけだ。
「君、ねぇ、君よ。何時まで引き摺る心算かね? 其れでは、」
 少女が言葉を止める。沈黙が流れる。其れが厭だった。だから、私は何も言わない。私の言葉は人を傷付ける事しかできない。少女は胸元に垂れて居た長い黒髪を払った。続く言葉は無かった。代わりに背に負った黒髪を揺らしながら台所へ向かった。
「紅茶にするかい? 其れとも、もう呑んで仕舞うかね?」
 私は煙草を陶器の灰皿に預けた。
「君が付きあって呉れるなら。」
 小さく、呆れた様な音が聴こえた。爛熟した春、長く成った昼。私は。
「ふむ、重症だね。だから私が居るのだけれど。」
 眼の前に赤い唇があった。
(了・紅い華)


 好きな色、と問われれば迷わず青と答える。理由、理由か、漠然としか思えない。
「せんせー、いい加減に指して下さいよ。」
 駒台の上に青い爪が乗って居た。棒銀は捌いた。拾った駒と飛車で攻められそうだが。
「せんせー?」
「ああ、続けようか。」
 短い黒髪、青い縁の眼鏡。真面目そうに見えて耳には青いピアスと、青く塗られた爪。私は駒台から歩を拾い、盤面に置いた。
「せんせー、真面目にやってくれないと意味無いじゃん。」
「否?」
 釣り上げて相手が乗ってくれば喰い付く。振り飛車の常套手段だ。スペースさえ空けば其処へどんな高い駒でも捩じ込める。
「ん、うっわ、性格悪いね、刺し違えるのも厭わないって奴?」
 青い指先は丁寧に受けた。其れでも構わずに駒を並べて行く。時間が過ぎる。制限は無い。青い指先が髪、唇と動いてから盤面に駒を叩き付けた。
「これなら、」
「こうだね。」
 余る程の時間だ。厭と言う程読んだ筋だった。
「くっそう。ちょっと待って、まだ、」
 窓越しの空を見上げる。綺麗な青色をして居た。
「ん、せんせー?」
「否?」
 恐らく私が青を好むのは。
(了・蒼い華)



 茜色の世界に立って居た。もう何度書いたか覚えて居ない。その黄金の世界だけを覚えて居る。手を引く女性が少しだけ離れた。青い髪の少女が振り返る。僕は首を振る。其処には、未だ行けない。
「キミは、それでいいよ。」
「ええ、私達は、」
 手を伸ばそうと、そうして止めた。全部終わった物語だ。
「さようなら。」
 一言だけ告げて背を向けた。きっと、此れで良い。
(了・黄昏の華)


「桜も終わりだねぇ?」
 君は軽く肩を窄ませて言った。見上げる桜の花弁はすっかり散って仕舞って、代わりに緑の葉が生い茂って居た。
「葉桜も悪く無い。」
「そうかい? 嗚呼、そうだね。」
 鳥達の声が聴こえる。暫らくすれば虫達も鳴き出すだろう。
「そしてまた季節が巡るのだね。」
 ふわり、スカートと長い黒髪が舞った。赤い縁の眼鏡の奥から鋭い眼が僕を見て居る。
「さぁ、次は何処へ行こうか?」
 僕は頭を掻いて、しかし巧い解答は巡って来なかった。
(了・緑の華)


 夢を見て居た、のだと思う。曼珠沙華。赤く細く伸びる花弁。俺は其れに囲まれて居た。理由は、恐らく要らない。己の業は己で祓わねば。歩く。赤い鳥居が見える。其の前に居るのは。
「亦、来てしまったのですか。」
 白い衣装に黒い縁の眼鏡。忘れられたら、どれだけ楽だろう。
「貴方は、越えてはいけないのです。」
 意味を了解しかねた。越えては行けないのは、あの鳥居か、其れとも。
「申し訳ありません。私の所為、ですもんね。」
 細い指が一輪、華を摘んだ。
「さぁ、今の貴方には此れで充分な筈です。」
 余程無様な顔をして居たのか、彼女は苦しそうに笑った。違うと言えない自分が厭だった。察したらしい彼女は今度は困った様に笑った。
「ああ、貰って行く。」
 噛んだ歯から、嗚呼、血が出たのだろう。不快感が口の中に有る。
「あの、」
「大丈夫だ。」
 自分に言い聞かせる様に言った。
「大丈夫。」
 悲壮は顔に出て居たのだろう。今度こそ本当に困った様に笑う彼女に背を向けて赤い華を振った。揺れる華からは微かに線香の匂いがした。今は、其れだけで良い。
(了・曼珠沙華)
 
 
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