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#04 望郷

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   ──二度と叶わぬ。


 面影
   ──失われた影。

 ふらふらと巡る視線を止めてみる。風は南から強く吹きつけ、窓の外を見上げれば眩しい程青い空があった。僕はどんな顔をしているだろう。眩しさに顔を顰めながら、いや、それでもやっぱり呆けた顔になっているのだろうか。どの道変わらないか。何がどうあっても大した事ではない。人は人と係わる事で物事の価値を作り出す。損得、優劣、貴賎、愛憎、哀楽、抑揚と浮沈も尊卑も真偽さえも。ならば今の僕に価値は無い。何がどうあっても大した事ではない。いつからそうなったのか。霞が掛かる程遠い過去に離れた土地を、徐々に変異しながら薄れた関係を、あの淡い感情を、冬の日の影を、夏の日の喧騒を、春風を纏う少女を、柔らかな雰囲気を持つ少年を、同じ暗がりに居た影を、真っ白な雪を掬い上げた薄幸の少女を、木漏れ日の中の穏やかな歌を、僕は失くした。残酷な程鮮明な時の流れに、僕自身の怠惰に、全て飲み込まれてしまった。けれど、それも今はどうでも良かった。失くす事に慣れて、侘しささえ噛み砕けた。今だって、すっと通り過ぎた過去に語るべき言葉は見当たらなかった。僕の価値は、心と呼べるものは、いや、そんなの、誰だって。
 煙草に火を点けた。浮かび上がるような煙が部屋に立ち込める。思いついて、窓を開けた。今日は陽がたっぷりと降っているし、時間も正午を回った辺りだったから暖かだった。ただそれだけだった。それでも僕は、僕の呼吸は続いている。価値を失くした世界で。君を失くした世界で。大した事ではない。いつか、こんな今さえも頁の一枚になるのだろうか。少し笑った。虚ろそうに見えるらしい呆けた瞳を光の先に向けて。桜の花が舞う頃に、梅雨の雨雲が落ちる前に、少しだけ君の面影を思い出してみようとか、曖昧に思った。
 
 


 枯木
   ──曖昧な世界。

 区切る事が好きだったような気がする。分類してしまう事が好きだった気がする。けれど、どちらも得手ではなかったようだ。本棚を整理すれば分類に困った本に埋もれ、季節の境目を探しては置いて行かれる。晩冬の風の中で春を探しては初夏に急かされ、残暑の熱に埋もれているうちに真っ白な冬の風に吹かれた。今だって、結局本棚に収めきれなかった本を手に途方に暮れている。本など種類ごと作者の名前順に並べてしまえば良いだろうと思う。しかしそうやって並べているうちに好きだった本が机から遠くに行ってしまった。いつか読みたい時直ぐに読めるように順番を変えた。すると日常的に手にしていた本が遠くへ行く。ならばと好きなジャンルを近くに集めた。そうなるとまたあの本が。昼過ぎから夕方までそんな事をしていて、いい加減に諦めた。どうせ整頓できないなら適当に押し込んでしまえば良い。別に誰に見せる部屋でもないのだ。
 
 


 空濛
   ──この狭い部屋で。

 目を閉じている訳ではない。けれど、はっきりと目を開いて辺りを見ている訳でもない。目の前はいつも霧が掛かってるように不明瞭で、一メートル先はもうよく見えない。だから、目を開いても閉じていても変わらない。そんな曖昧な世界に曖昧な態度で接しているうちに、僕は目蓋の位置が分からなくなった。目を閉じている訳ではないと思う。ぼんやりと白い何かは見えている。目を凝らしている訳でもないと思う。ぼんやりとした白い何かが一体何であるのか、はっきりとは分からない。ここを過ぎて空濛の淵。誰の言葉だったか。誰の言葉でも良いか。どこを過ぎたのか、否、どこへ向かおうとしていたのか、僕にはもう分からない。空濛の淵どころか霧の吹き溜まりに来てしまった。陰惨たる気配は無い。悪意も感じない。漠然とした何かが只そこにあるだけだった。そう言えばいつか願ったような気がする。誰かこの目を塞いでいてくれ、と。
 自室の椅子の上でそんな事を考えて笑った。否、笑うような声が漏れただけだった。机の上に置かれた汚れた鏡の中の僕は少しも笑っていなかった。外の空気でも吸って気分を変えようと窓を開けたら雨が降っていた。霧のように細かい雨だった。目を閉じている訳ではない。口ずさんだ自分の言葉が、何やら他人の言葉のように思えた。事実そうだろう。五十の音に飾りを付け、並べただけのものだ。誰の手垢もついていない言葉など無い。どれもいつかどこかで誰かが使ったような言葉だ。断ち切るように窓を閉めた。机の上ですっかり冷めていた珈琲を飲んだ。少しだけ気持ちが和らいだ。悲観はしていない。悲しくはない。僕はここに居る。例え目の前が分からなくとも、自分だけの言葉が無くとも、僕はここで生きている。では、この気持ちは何だろう。霧の吹き溜まりの、その底で感じたものは何だったか。言葉の端に、ある筈のない他人の手垢を見た時の気持ちは何だったのだろう。頭を掻いた。掻き毟った。知っている。僕は待っていたのだ。けれどもう、それが訪れる事は無い。全ては失われた。そして僕は見る事を止めた。聞く事を止めた。触れる事を止めた。虚しいと、微かに思っているのかも知れない。それさえ、どこにあるのか考えようと思えない。水中を漂うように、時の流れに身を委ねている。この気持ちは、拒絶と諦念だ。
 ラジオを点けると聞き慣れない声が明日の天気を伝えていた。晴れるそうだ。僕はだらしなく椅子に座り、煙草を銜えた。例え目を開いていなくても、それが僕の人生だ。吐き出した煙を見上げて、本当に全てが霧の中に沈んでしまえば良いのにと思った。
 
 


 無題の午後
   ──花冷えの日。

 もう春も半ばだと言うのに中々気温が上がらない。僕は窓辺に立って煙草を吹かし、ぼんやりと庭を眺めている。着実に緑は増えているようだが、降り出した雨の所為か初夏が近いようには思えない。ガラス戸を開けてみると、雨に引き裂かれた熱が転がっているような気さえした。それらはすでに冷たい骸と化していて、やがて太陽が蘇生の光を投げるまで身動き一つ取らない。煙を外へ吹いてみる。それは少しの間宙を舞い、雨に刻まれて消えた。ガラス戸を閉めて、そうしてぼんやりと終わる事を考える。初夏へ向かう手前、停滞し、或はこのまま閉じてしまいそうな世界と、まさに消えかけの僕と。
例えば、今このまま僕が死んだとして、何が変わるだろう。小さな町の片隅の、強い風が吹けば倒れそうなあばら屋で一人の男が死んだと云うだけだろう。地方紙の記事にすらならないだろう。或は誰一人涙を流さない事だってあるかも知れない。ふらふらと散歩に出かける萎びた後ろ姿が消える。時折聞こえていた下手な歌が消える。その程度だ。四十九日を待たずに忘れられるだろう。多少大袈裟ではあるが、他の人間でも同じだ。全く同じものはないのだから、代えは利かないと言う人もあるだろう。しかし、それはある種の怠惰だ。全く同じものを用意する必要は無い。そして、現在を嘆き前任者を夢想する時には忘却している。前任者にもあった不満を。
いずれ大した事ではない。人の一生など儚く、死は有り触れたものだ。避ける必要も、求める必要も無い。だから僕はぼんやりと思うだけだ。切れかけた蛍光灯や、その身の殆どを失った蝋燭。その瞬間は、あとどれ程先だろう。しかし、それも大した事ではない。今、雨が上がった。それでも空気は冷たく、噛み付く程とは言わないが鋭いままだ。風邪などひかぬように。何気なく吐き出したその言葉と同じ程度の意味や価値しかない。煙草が燃え尽きた。誰の世界もそうやってあっけなく終わっていくだろう。
花冷えの午後にそんな事を考えていた。
 
 
 
 
 雨の夕暮れ
   ──両端。

 夕刻が近づくと厚い雲の下にある風景はいよいよ深い色に沈み込んでしまった。晴れていれば訪れる、一日の輝きの全てを集めた様な赤を今日は見る事ができないだろう。それでも、晩春まで噛み付いていた冬の名残はすでに消えていて、指の先から熱を失うような感覚は無い。唯静かな雨音だけが聞こえる。桜の花びらを散らす晩春の雨か、陽射しに輝く緑を濡らす初夏の雨か、いずれにせよこの程度で丁度良い。過度の寒さも暑さもなく、湿気も余り感じない。全てを洗い流すような夕立でもなければ、鋭さを増しながら雪へ変わっていく晩秋の雨でもない。もし私以外の誰かがこの薄暗い部屋に居たならば、灯りを燈していれば、雨が降っている事にさえ気が付かなかったかも知れない。私にはこの方が良い。華やぐ陽射し、彩る風、音楽のような言葉、花咲くような笑顔。どれも私には光が強過ぎて目が眩んでしまう。雨と時間が連れて来たこのモノクロームのような世界が、私には合っている。
 不意に呼び鈴が鳴った。雨音は消えずに残っているが、少し明るくなったようだ。雲の隙間から陽が差してくるかも知れない。私は来客を家には上げず、庭に出た。丁度良く濡れた松の葉にオレンジ色の光が当たった。来客は不満そうな顔をしていたが、暫くこのまま眺めている事にした。
 
 
 
 
 星の花
   ──記憶の中に、一輪。

 小さな山の頂に登った。風は丁度止んでいて、辺りも静かだった。夜に人が来るような場所ではないのだ。小さな屋根とベンチがあるだけで他には何もない。少し遠くに昼であれば土産物を売っている建物が見えるが今は駐車場の灯りだけが輝いている。眺めは良い。山の下には街があって、その灯りの下では人が暮らしている。放射状に、所々途切れながらそれは地の果てまで続いているかのようだった。見上げれば満天の星。ここは余計な光が届かないからよく見える。幾つもの金色の花を湛える星の海が見える。そして僕はその一つにさえ、その欠けらにさえ触れられない。だから、死のうと思った。人は笑うだろうが、僕は真面目だ。人と人との隙間にも、遠い星の間にも僕の居場所は無い。だから僕は死ぬ。そう信じさせてくれたのは他ならぬ。
 準備はできている。全ての光に背を向けてその場所へ向かって歩き出した。その途中で小さな花を見付けた。誰のものでもない、この花が持っている命だ。触れられると思った。けれど、しゃがみ込んで伸ばした手の指先が震えている事に気が付いて、止めた。もうどこにも痕跡を残すべきではないと思った。何も連れて行くべきではないと思った。僅かにそよぎ始めた風に背中を押されるようにまた歩いた。


 今、僕は川岸に立って夏の陽光の中を流れる水を見ている。自らの命の行方は、自分では決められなかった。一体それがどんな意味を持っているのかは知らない。あの花が生かしてくれたのかと思った事もあったが、現実はお伽噺ではない。きっと、違うのだろう。己の運命さえ決められなかった男は、それでも一輪の花を懐かしみながらよろよろと川岸を歩いて行った。

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