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#01 言の葉

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   ──数多広がる音の葉脈。


 雨
   ──記憶に添えて。

 呆けている時間が長くなって、いつの間にか降り出していた雨に気が付かなかった。机の隅に置いたままのカップの中の珈琲はすっかり冷めてしまっている。煙草に火を燈すライターの光で部屋が薄暗い事を知った。するすると昇る煙を眺めながら肌寒い空気に触れた。そうしてぼんやりと思う。季節を塗り替えてゆく冷たい雨。纏わる記憶も暗く沈んでいる。幾つも咲いた傘と黒い服の群れ。濡れた墓石。花弁を散らしながら降り注ぎ、項垂れた人の肩を叩く。街の色さえも洗い流されてしまった。少し笑った。それは雨が連れて来た風景ではない。雨は偶々そこにあっただけだ。それでも僕は、嗚呼、また雨音に紛れてしまう。
 
 


 線香花火
   ──募る想いに。

 日が暮れるのを待って庭に出た。見るべき物のない寂れた庭は、辺りがすっかり暗くなってしまうと木の一本さえ生えていないように思えてしまう。私はそんな哀れとも言われかねない景色の中に蝋燭を立て、小さな火を燈した。弱々しい赤い光が景色を切り取る。その外は全くの暗闇だ。まるで私そのものだ。ほんの少し身の回りが見えるだけで、外の世界の事など何も知らない。少し前ならばこの狭い光の中にも居てくれる少女があった。今はもう私の知らない世界へ旅立ってしまった。感傷を押し殺しながら線香花火を取り出して蝋燭の炎に当てた。乗り移った火は小さな玉となり爆ぜた。あの頃、私の見える場所にあった少女の言葉は、仕草は、こんなにも儚く流れ落ちてしまうようなものではなかった。記憶の中、線香花火を握る少女の微笑みは、今でも私の中に残っている。不意に炎を揺らした風の温度が季節外れの花火を笑った。私は苦笑する。私一人で楽しめる物ではない。燭台と線香花火の束を手に立ち上がった。そうして、漸く焦がれている自分をはっきりと見付けた。
 
 


 過ぎる季節に
   ──日々徒然。

 陽光がもたらす温もりと鋭さを失った風に季節の移りを感じる。瞬きの前には真っ白な雪が踊り、全てが凍りつく程冷たい夜があったように思えていたが、太陽と地球の巡りはそれよりも早く春を連れて来ていたようだ。僕は街の片隅に立って、長くなった髪を掻きながらぼんやりとそれを眺めている。幼少の頃ならば冬の寒さに耐えかね、春の訪れを待ちわびていたのだろうか。それとも、去ってゆく白い雪の季節を惜しんでいただろうか。今はもうそんな無邪気さは無い。季節も、暑さも寒さも外から与えられているだけだと知ってしまった。待つ必要も、辟易する必要も無い。時代も技術も進んだのだ、多少の不便は残っていても、それを埋め尽くすほどの快適が溢れている。ふと、背後の誰かが笑った。周りの所為にするなと言った。分かっている。変わったのは僕だけだ。ただ命を繋ぐだけの日々が、すり減って行く感覚を無視し続けた結果が今だ。春を待ち焦がれた少年を、夏の日に風鈴を吊るす心を、秋の夕暮れに寄り添った熱を、冬の夜に咲いた雪の花を、僕は失くした。それはもう二度と取り戻せないだろう。それはもう二度とこの胸に宿らないだろう。何よりも僕自身がその感情を求めていない。言葉を飾り、有りもしない色を重ね、美しいと言う事など、一体どれ程意味のある事なのか。風はただ吹きつけ、葉は己の為に茂り、花は実を結ぶ為に咲くだけだ。美しさも情緒も第三者が勝手に付けたもすぎない。
 軽く目を閉じて、ため息を吐いた。知っている。これこそ意味が無い。美しいものは美しく、情緒はどこにだってある。認められないのは、感じられないのは、僕の心が枯れ、腐っているからだ。今更どうにもならないが、ほんの少し侘しくは思えた。そんな感情を引きずりながら家に帰ると、丁度来客があった。僕の友人で、よく酒を下げて遊びに来る。長身で顔立ちも整っているのだが、一風変わったような男だ。
「なんだ、出ていたのか、珍しいな。」
 彼は軽い笑みを湛えてそう言った。それからまたつまらなそうな顔をしてるな、と言われたから、居間に上げるついでに先程思っていた事を話してやった。男は腹を抱えそうな程笑い、
「確かにそれはそうだ、お前らしくて良いじゃないか。」
 と言った。僕は苦笑し、テーブルの上にコップを並べた。
「枯れた男に命の水を、ってな。」
 彼はそんな事を言いながらコップをビールで満たした。
「酒で芽を出す種があるのかね?」
 僕の問いに頷き、彼はコップを掲げた。
「何せこの通りだ。酒に酔わせて、騙して芽を出した振りをさせるしかない。ほら、乾杯だ。」
 僕は益々苦笑し、
「この美しい世界に。」
 と言ってコップを合わせた。
 
 


 雨の日
   ──音に埋もれて。

 昨晩降り出したらしい雨は昼を過ぎても止まなかった。家族は折角の休みなのにとぼやいていたが、僕は残念だとは思わなかった。外出は余り好きではないし、雨音や仄かに冷えた空気、薄暗く沈むような感覚はむしろ好きだった。友人や家族には根暗だと笑われるが、気にはならない。ならば放っておいてくれと言いたいくらいだ。根暗な自分にとって太陽の光は強過ぎるのだ。その点雨は良い。厚い雲は光を遮り、屋根を叩く雨の音は余計な音をかき消してくれる。ぼんやりと雨音を聞きながら椅子に凭れている時、僕はただその音に埋もれている。それで良い。それが良い。一人静かに、何も考えずにいたい。けれど、それは長く続かない。今、雨音に混ざってノックの音が聞こえてきた。僕はまた誰かに不満そうだと言われそうな声と顔で応じる。それさえ、雨が隠してくれれば良いのにと思いながら。
 
 


 追憶
   ──君へ。

 思わず顔をしかめたのは久しぶりに浴びる陽光が想像よりも初夏に近付いていたからだった。それは酒に焼かれた僕の脳でさえはっきりと認められる程鮮明に季節の移りを宿していた。煙草を銜えて火を燈す。庭の緑が視界を埋めるよりも早く、真っ白な残像が浮かんだ。僕はその影の名を知っている。もう何年前になるだろう。僕とその少女は、確かに手を繋いでいた。もう、殆ど覚えていない。粉々に砕けた幾つもの記憶と感情は胸の底に降り積もり、半分以上埋もれてしまっている。それでも、確かに僕は。
 切っ掛けも、交わした言葉も思い出せないけれど、西日の差し込む部屋で言葉を並べる二人は覚えている。ここからは聞こえない、恐らく他愛のない言葉を投げ合っては笑っている。それだけで、いや、それだけが幸せだった。一杯の珈琲と、あどけない笑顔があればそれで良かった筈なのに、僕はそれを壊した。少女が伸べてくれた優しい愛情でさえ、僕にとっては猛毒だった。柔らかな掌が触れる度に、暖かな言葉が包む度に、心は軋んで血を流した。怖かったのだ。その少女さえ底知れない人間という生き物である事が、その愛情の裏にさえ潜んでいそうな暗く淀んだ感情が。全ては僕の妄想だったのだと思う。今なら、いや、今でも未だ信じてはいないのだろう。いずれにせよ、それ以上に僕は僕を信じられなかった。僕の価値を認めらなかった。少女が僕に触れる度に、彼女と、顔も知らない誰かの幸せを奪っているような感覚に苛まれた。
 最後はあっけなく訪れた。もう彼女の顔もまともに見られなくなった僕が別れを告げた。激しい雨の降る、寒い夜だったと思う。
「分かりました。」
 それだけ言って去って行った、雨に震える肩を、その後ろ姿を、僕は生涯忘れられないだろう。
 今、僕は一人だ。訪ねて来る友人もいなければ、守るべき家族も無い。当然の事だと思っている。あの暖かな感情にさえ傷付けられるような僕は、誰かと居るべきではない。それも違うか。自分を守る手段が一人で居る事以外に無い。その事に関してはもう諦めている。それでも、時折胸の底に巣食った虫が疼く事がある。侘しいと嘆く何かが居る。そんな時はあの幸せだった時間と、全てを壊した瞬間とを思い出す。もう二度と。という戒めを胸の底の虫に突き立てながら。
 季節は春だ。これから暖かくなるだろう。一人で居るには良い季節だ。そう思い込んで足を前に進めた。春風は、ただ穏やかに滑って行っただけだった。

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