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32 古枝
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冬休みになり、公務員試験の勉強もいよいよ佳境に入ってきた。僕と雅司、椿は、講座受講者専用の自習室の住人になった。僕は美容院に行き、髪を黒く染めた。伸びてくると、茶色の地毛が見えだして、カッパみたいになるので、面接直前にもう一度染め直す必要があるだろう。
喫煙所で僕は、雅司と椿に現状を嘆いた。
「僕、そんなに重かったかな……」
「えっ、自覚なかったの? 激重でしょ」
「せやな。七瀬さんもよう耐えとったで」
あれから七瀬は、会社の飲み会や亜矢子さんの店に行くという連絡をたまによこしてきた。位置情報を見ると、その通りにしているようだった。僕は料理さえする気を無くし、ひたすら勉強に打ち込んでいた。
「まあ、良かったんちゃうかな? 今は大事な時期や。おれたちもおる。勉強して気ぃ紛らせよう」
「そうだね……」
僕はずっと待っていた。距離を戻そうと七瀬が言ってくれるのを。しかし、そんな気配はなく、クリスマス・イブの日を迎えた。
『亜矢子さんの店に行ってくる』
夕方にそんなラインがきた。僕は了解とだけ送った。僕だって、どこかに行きたい。少し遠いが、別のショットバーに向かうことにした。二十歳のとき、行く候補に挙げていた店だ。坂道を上り、息を弾ませ、ようやく到着した。看板には「Meteolight」とあった。ここだ。
「いらっしゃいませ」
初老の男性マスターが出迎えてくれた。カウンター席とボックス席があり、ボックス席の方は埋まっていた。カウンター席には一人の女性がおり、僕は彼女と一つ席を離して座った。
「ビール、お願いします」
「かしこまりました」
マスターはビール瓶を開けると、丁寧にグラスに注ぎ、泡が落ち着くのを待って、少しずつ残りを入れるということを繰り返した。こんもりと盛り上がった泡のビールを差し出された。
「いただきます」
僕は横目で女性の姿を見た。黒いニットに黒のパンツという素っ気ない格好だ。髪型はストレートの黒いセミロング。メイクは薄く、素朴な印象を受けた。彼女はタバコを吸っていて、どうやらウイスキーをロックで飲んでいるようだった。
「ねえ。こっちに来ない? 誰かと話したい気分なの」
その女性が言った。
「あっ、はい……」
僕はビールを持って彼女の隣に座った。
「若いね。学生さん?」
「はい。大学三年生です」
「この店に若い子が来るのは珍しいから、気になってね」
「ここ、歴史ありますもんね」
僕はタバコに火をつけた。女性の年齢はいくつくらいだろう。まるでわからなかった。落ち着いた口ぶりから、三十を超えていると思うのだが。
「あたしは古枝」
「フルエダ、さん」
「あなたは? 何て呼べばいい?」
「葵です」
「葵くんね。どうしたの? イブの日に一人だなんて」
会ってから数分も経っていないのに、僕はこの古枝という人に惹き付けられてしまった。初音さんみたいに、華やかな美人というわけではない。地味な人だ。それなのに、彼女には特有の空気というものがあった。
「僕、恋人が居るんですけどね。距離を置きたいって言われていて。もう一ヶ月くらい会っていないんです」
「そう。辛いわね」
「恋人っていうのが……男性なんですけどね」
古枝さんになら、全て話してしまえる。なぜか僕はそう思った。七瀬との出会いから、彼の浮気のこと、重いと言われたこと、それらを語り尽くしてしまった。古枝さんは時折相槌を打ちながら、静かに僕の話を聞いてくれた。
「あたし、退屈が嫌いなの」
そう言って古枝さんはウイスキーを飲み干し、同じものを注文した。
「葵くんはどう? 待っている間、退屈?」
「いえ。友達も居ますし、就職のための試験勉強もありますし」
「それなら良かったじゃない。あなたには他に軸がある」
「でも、僕は……」
「ごめんなさいね。あたしは執着心が無い人間なの。葵くんの気持ちを全ては分かってあげられないわ」
僕は古枝さんの飲む銘柄を聞いた。グレンモーレンジィというらしかった。それのロックを僕も頼んだ。
「あたしは不倫しかしたことがない女なの」
「えっ、そうなんですか?」
意外だった。そんなことをしでかすような人にはとても見えなかった。
「幾人もの男があたしの元を去っていった。でも、また新しい男が来る。寄せては返す波のようにね」
そんな生き方もあるのか。僕はしびれるような衝撃を受けた。
「だから、普通のアドバイスはしてあげられない。ただ、もっと広い世界を見てみたらいいんじゃないかしら。深くなく、広い浅い世界を」
「古枝さんとこうして話しているのも、それにあたりますかね?」
「そうね。世界には様々な価値観を持つ人間が居る。それを知るのは退屈しないわ」
僕のウイスキーグラスの氷がカランと音を立てた。古枝さんはマスターに言った。
「この子の分もあたしに」
「そんな、悪いですよ」
「葵くんの話、楽しかったわ。そのお礼。ありがとう」
古枝さんはすうっと席を立った。
「古枝さん。また……お会いできますかね?」
何も言わずに古枝さんは微笑んだ。そして、扉の向こうに消えてしまった。まるで亡霊のように。残されたのは、彼女のタバコの香りだけだった。
喫煙所で僕は、雅司と椿に現状を嘆いた。
「僕、そんなに重かったかな……」
「えっ、自覚なかったの? 激重でしょ」
「せやな。七瀬さんもよう耐えとったで」
あれから七瀬は、会社の飲み会や亜矢子さんの店に行くという連絡をたまによこしてきた。位置情報を見ると、その通りにしているようだった。僕は料理さえする気を無くし、ひたすら勉強に打ち込んでいた。
「まあ、良かったんちゃうかな? 今は大事な時期や。おれたちもおる。勉強して気ぃ紛らせよう」
「そうだね……」
僕はずっと待っていた。距離を戻そうと七瀬が言ってくれるのを。しかし、そんな気配はなく、クリスマス・イブの日を迎えた。
『亜矢子さんの店に行ってくる』
夕方にそんなラインがきた。僕は了解とだけ送った。僕だって、どこかに行きたい。少し遠いが、別のショットバーに向かうことにした。二十歳のとき、行く候補に挙げていた店だ。坂道を上り、息を弾ませ、ようやく到着した。看板には「Meteolight」とあった。ここだ。
「いらっしゃいませ」
初老の男性マスターが出迎えてくれた。カウンター席とボックス席があり、ボックス席の方は埋まっていた。カウンター席には一人の女性がおり、僕は彼女と一つ席を離して座った。
「ビール、お願いします」
「かしこまりました」
マスターはビール瓶を開けると、丁寧にグラスに注ぎ、泡が落ち着くのを待って、少しずつ残りを入れるということを繰り返した。こんもりと盛り上がった泡のビールを差し出された。
「いただきます」
僕は横目で女性の姿を見た。黒いニットに黒のパンツという素っ気ない格好だ。髪型はストレートの黒いセミロング。メイクは薄く、素朴な印象を受けた。彼女はタバコを吸っていて、どうやらウイスキーをロックで飲んでいるようだった。
「ねえ。こっちに来ない? 誰かと話したい気分なの」
その女性が言った。
「あっ、はい……」
僕はビールを持って彼女の隣に座った。
「若いね。学生さん?」
「はい。大学三年生です」
「この店に若い子が来るのは珍しいから、気になってね」
「ここ、歴史ありますもんね」
僕はタバコに火をつけた。女性の年齢はいくつくらいだろう。まるでわからなかった。落ち着いた口ぶりから、三十を超えていると思うのだが。
「あたしは古枝」
「フルエダ、さん」
「あなたは? 何て呼べばいい?」
「葵です」
「葵くんね。どうしたの? イブの日に一人だなんて」
会ってから数分も経っていないのに、僕はこの古枝という人に惹き付けられてしまった。初音さんみたいに、華やかな美人というわけではない。地味な人だ。それなのに、彼女には特有の空気というものがあった。
「僕、恋人が居るんですけどね。距離を置きたいって言われていて。もう一ヶ月くらい会っていないんです」
「そう。辛いわね」
「恋人っていうのが……男性なんですけどね」
古枝さんになら、全て話してしまえる。なぜか僕はそう思った。七瀬との出会いから、彼の浮気のこと、重いと言われたこと、それらを語り尽くしてしまった。古枝さんは時折相槌を打ちながら、静かに僕の話を聞いてくれた。
「あたし、退屈が嫌いなの」
そう言って古枝さんはウイスキーを飲み干し、同じものを注文した。
「葵くんはどう? 待っている間、退屈?」
「いえ。友達も居ますし、就職のための試験勉強もありますし」
「それなら良かったじゃない。あなたには他に軸がある」
「でも、僕は……」
「ごめんなさいね。あたしは執着心が無い人間なの。葵くんの気持ちを全ては分かってあげられないわ」
僕は古枝さんの飲む銘柄を聞いた。グレンモーレンジィというらしかった。それのロックを僕も頼んだ。
「あたしは不倫しかしたことがない女なの」
「えっ、そうなんですか?」
意外だった。そんなことをしでかすような人にはとても見えなかった。
「幾人もの男があたしの元を去っていった。でも、また新しい男が来る。寄せては返す波のようにね」
そんな生き方もあるのか。僕はしびれるような衝撃を受けた。
「だから、普通のアドバイスはしてあげられない。ただ、もっと広い世界を見てみたらいいんじゃないかしら。深くなく、広い浅い世界を」
「古枝さんとこうして話しているのも、それにあたりますかね?」
「そうね。世界には様々な価値観を持つ人間が居る。それを知るのは退屈しないわ」
僕のウイスキーグラスの氷がカランと音を立てた。古枝さんはマスターに言った。
「この子の分もあたしに」
「そんな、悪いですよ」
「葵くんの話、楽しかったわ。そのお礼。ありがとう」
古枝さんはすうっと席を立った。
「古枝さん。また……お会いできますかね?」
何も言わずに古枝さんは微笑んだ。そして、扉の向こうに消えてしまった。まるで亡霊のように。残されたのは、彼女のタバコの香りだけだった。
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