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第14幕
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日暮れも近い。
方角を誤ってはいないはずだ。そのはずだが。
由茄は照隠の後を、懸命についてきていた。岩肌の露出した斜面や、ぬめりを帯びた高い沢の上なども、不平ひとつ言わず渡った。
しかし平地を歩くようにはいかない。まして女の身だ。照隠は何度も休息を取り、由茄の体調に気を配った。
「深く入り過ぎたかもしれぬ」
胸を一抹の不安が駆け抜けた。
考えた以上に、山は険しい様相を呈してきた。小川宿に出るまでは、たいした勾配はないだろうと、高を括っていた部分もある。
「今日じゅうに小川宿まで行くのは、無理かもしれんな」
由茄の疲労は極限に近かった。荒い呼吸を繰り返している。
それでも唇を引き結んで、照隠に遅れまいと歩く姿は、痛々しくさえある。
「しかしまるで、物の怪にでも誑かされたようだ」
迷ったということを素直に認めたくなかった。由茄に自分の落ち度を知られることが、年甲斐もなく恥ずかしかった。
周囲は鬱蒼とした緑に包まれている。
幸い、猟師が使う山小屋があった。家屋自体は古いが造りはしっかりしていた。
「今日はここで休もう」
これ以上、由茄を歩かせるのは無理だった。彼女は無言で頷くと、青白い顔で床に座り込んだ。
日が落ちれば、男たちも追跡を諦めるだろう。
風が樹木を揺らした。
小屋のなかには、緑の匂いが立ちこめている。
外は薄暗い。木立ちの間から、遠くの雲が赤く染まっているのが見える。
山は急速に暮れつつあった。
澄んだ空気、土や草の匂い、枝がきしむ音は、心地よい沈黙をもたらした。
眠っていたようだ。
気が付くと、外は宵闇に包まれていた。
由茄も眠っている。よほど疲れたのだろう、倒れ込むようにして、寝息をたてている。照隠は小屋の隅から筵を取りだし、彼女の体に着せてやった。
表に出ると、痛いほどの澄んだ空気が体を包みこんだ。
吐息が白い。
山小屋に戻ると、由茄が目を覚ましていた。小屋のなかは暗かったが、その細い影だけはおぼろげに見えた。
干飯を彼女に手渡した。
固いものを噛み砕く音が、静かな小屋のなかに響き渡った。人の生きている音だと照隠は思った。
薪と火口があったので、囲炉裏に火を熾した。
闇のなかに赤い光が浮かび上がり、二人の顔を照らす。
無言のまま、二人は干飯を食べ続けた。咀嚼の音と、薪の爆ぜる音が、小屋の空気を揺さぶった。
何気なく目が合うと、火の光を浴び、闇のなかに陰影を浮かび上がらせながら、由茄は弱々しく微笑んだ。
この山の空気のように澄んだ瞳が、照隠を見つめていた。
双眸が赤い光を映す。その光だけを残して、由茄の輪郭も肉体も、闇のなかに消え去ろうとしている。
照隠は咄嗟に、由茄の体を引き寄せた。
由茄は短い声をあげた。だが抵抗はしなかった。
確かな質感が胸のなかにある。体の芯を貫くような、得も言われぬ熱に襲われた。
強引に小袖をはだくと、由茄の白い肌と胸の膨らみが露わになった。その膨らみを掌中に収めると、柔らかい感触に血が滾った。
由茄は甘美な声をあげ、身じろぎをした。
その拍子に、彼女の足が首桶を蹴倒した。
乾いた音をたて、首桶が転がる。
紐がほどけ、横転する。
蓋が開き、なかから黒い塊がこぼれでた。
「!」
それは、剃髪した若い男の首だった。
切り落とされたばかりのような、生々しい男の首だった。
首はこぼれた勢いで、二度、三度と床を転がり、止まった。
想像していたより頬の辺りは痩せている。
照隠は目を逸らすこともできず、その首を凝視した。火の照り返しで、首は赤く燃え盛っていた。
首の目が開き、照隠を睨みつけた。
口を開いた。
赤い舌が覗いている。
「ハハハハハ」
笑った。
哄笑が響き渡った。男にしては少し高い声で、首は笑いだした。
「赤姫、赤姫」
首はにわかに不安げな表情になると、愛しい人を探すように目だけをきょろきょろと動かした。
「どこだ赤姫」
「わたしはここにおります」
由茄は照隠の体から離れると、首に、にじり寄った。
「どこだ赤姫」
由茄は首を拾い上げ、露わになった胸のなかに包み込む。
首の声は、由茄の乳房に押しつけられ、くぐもった。
「赤姫、赤姫」
「わたしはここにおります。どうぞご安心ください」
由茄の白い背を見つめたまま、照隠は硬直している。
やがて声はやんだ。由茄は首を、丁寧に首桶のなかへ仕舞い込んだ。
蓋を閉じ、紐を結ぶと、小屋のなかは再び静けさを取り戻した。
「……今のが得宗家か」
ようやく呼吸を取り戻した照隠は、そう言ってから深く息を吐いた。
由茄は小袖の乱れを整えている。
自らの浅ましさに耐えきれなくなって、照隠は視線を外した。
「初めてお会いになった方は、皆、驚いておりました。殿は、声がようお通りになる方でしたから」
首桶に収まっていたときに聞いた、低い獣のような唸り声とは違っている。
「そなたのことを、赤姫と言うておったが」
「あっ、それは……」
由茄は俯き、僅かに頬を染める。
「初めて殿とお会いしたとき、わたしが寒さで赤い顔をしていたので、殿がその場で赤姫という呼び名をつけてくださったのです」
まだ田舎から連れてこられたばかりで、体から土臭い匂いを放っていた。
館の者たちには笑い者にされ、蔑んだ目を向けられたが、高時はあの独特の笑い声で彼女を守ってくれた。
「わたしは親に売られたのです」
「そうであったか」
「貧しい村でしたので。ですが、父や母のことは恨んでおりません。おかげで殿と巡りあい、満ち足りた暮らしを送ることができました」
だがその生活も今はもうない。
照隠は板葺きの屋根を見上げた。
「わしが、そなたの幸せを奪うてしもうたのだな」
独白するように呟く。
由茄が怪訝な顔を向ける。
「わしが新田義貞殿に倒幕の綸旨をお届けしたのだ」
小屋の空気が静まり返った。
由茄の息を呑む音が聞こえた。
「他にも坂東の武家に、新田に呼応するよう説いて回った。もちろんわし一人でなく、数多の仲間が山伏や商人に身を変え、各地で働いた」
「それでは御坊は」
「有り体に言うなら、先帝の手の者よ」
由茄は目を伏せた。
先帝すなわち後醍醐帝による倒幕の綸旨あればこそ、新田も足利も挙兵に踏み切ったと言っていい。
「わしは悔やんではおらぬ。だが、そなたを犠牲にしてしもうたことだけは……」
「だから、わたしを助けてくれたのですか」
「…………」
由茄は涙を流していた。
だが泣いてはいなかった。涙を流しながら、瞳は照隠を見つめていた。
「なぜ今になって、打ち明けられたのですか」
由茄の涙は、火の光を浴びて輝いている。火の色をした川である。
「得宗家に嘲笑われ、全てを見透かされたような気になった。わしの正体や浅はかな考えなど、初めからお見通しであったようだ」
吉野で耳にした高時の風評は、およそ天下人とは思えぬ体たらくだった。その噂が倒幕の気運を高めたのだ。
「殿はいつも笑っておられました。そして毎日、憑かれたように遊びに夢中になっておられました。まるでお逃げになるように」
由茄はもう涙を流してなかった。
「そなたは、今でも得宗家を慕うておるのか」
「はい」
「だが……だが得宗家は、そなたを苦しめておるではないか」
「わたしの身は、常に殿と共にあります」
照隠は拳を握りしめた。
火の粉が爆ぜた。
方角を誤ってはいないはずだ。そのはずだが。
由茄は照隠の後を、懸命についてきていた。岩肌の露出した斜面や、ぬめりを帯びた高い沢の上なども、不平ひとつ言わず渡った。
しかし平地を歩くようにはいかない。まして女の身だ。照隠は何度も休息を取り、由茄の体調に気を配った。
「深く入り過ぎたかもしれぬ」
胸を一抹の不安が駆け抜けた。
考えた以上に、山は険しい様相を呈してきた。小川宿に出るまでは、たいした勾配はないだろうと、高を括っていた部分もある。
「今日じゅうに小川宿まで行くのは、無理かもしれんな」
由茄の疲労は極限に近かった。荒い呼吸を繰り返している。
それでも唇を引き結んで、照隠に遅れまいと歩く姿は、痛々しくさえある。
「しかしまるで、物の怪にでも誑かされたようだ」
迷ったということを素直に認めたくなかった。由茄に自分の落ち度を知られることが、年甲斐もなく恥ずかしかった。
周囲は鬱蒼とした緑に包まれている。
幸い、猟師が使う山小屋があった。家屋自体は古いが造りはしっかりしていた。
「今日はここで休もう」
これ以上、由茄を歩かせるのは無理だった。彼女は無言で頷くと、青白い顔で床に座り込んだ。
日が落ちれば、男たちも追跡を諦めるだろう。
風が樹木を揺らした。
小屋のなかには、緑の匂いが立ちこめている。
外は薄暗い。木立ちの間から、遠くの雲が赤く染まっているのが見える。
山は急速に暮れつつあった。
澄んだ空気、土や草の匂い、枝がきしむ音は、心地よい沈黙をもたらした。
眠っていたようだ。
気が付くと、外は宵闇に包まれていた。
由茄も眠っている。よほど疲れたのだろう、倒れ込むようにして、寝息をたてている。照隠は小屋の隅から筵を取りだし、彼女の体に着せてやった。
表に出ると、痛いほどの澄んだ空気が体を包みこんだ。
吐息が白い。
山小屋に戻ると、由茄が目を覚ましていた。小屋のなかは暗かったが、その細い影だけはおぼろげに見えた。
干飯を彼女に手渡した。
固いものを噛み砕く音が、静かな小屋のなかに響き渡った。人の生きている音だと照隠は思った。
薪と火口があったので、囲炉裏に火を熾した。
闇のなかに赤い光が浮かび上がり、二人の顔を照らす。
無言のまま、二人は干飯を食べ続けた。咀嚼の音と、薪の爆ぜる音が、小屋の空気を揺さぶった。
何気なく目が合うと、火の光を浴び、闇のなかに陰影を浮かび上がらせながら、由茄は弱々しく微笑んだ。
この山の空気のように澄んだ瞳が、照隠を見つめていた。
双眸が赤い光を映す。その光だけを残して、由茄の輪郭も肉体も、闇のなかに消え去ろうとしている。
照隠は咄嗟に、由茄の体を引き寄せた。
由茄は短い声をあげた。だが抵抗はしなかった。
確かな質感が胸のなかにある。体の芯を貫くような、得も言われぬ熱に襲われた。
強引に小袖をはだくと、由茄の白い肌と胸の膨らみが露わになった。その膨らみを掌中に収めると、柔らかい感触に血が滾った。
由茄は甘美な声をあげ、身じろぎをした。
その拍子に、彼女の足が首桶を蹴倒した。
乾いた音をたて、首桶が転がる。
紐がほどけ、横転する。
蓋が開き、なかから黒い塊がこぼれでた。
「!」
それは、剃髪した若い男の首だった。
切り落とされたばかりのような、生々しい男の首だった。
首はこぼれた勢いで、二度、三度と床を転がり、止まった。
想像していたより頬の辺りは痩せている。
照隠は目を逸らすこともできず、その首を凝視した。火の照り返しで、首は赤く燃え盛っていた。
首の目が開き、照隠を睨みつけた。
口を開いた。
赤い舌が覗いている。
「ハハハハハ」
笑った。
哄笑が響き渡った。男にしては少し高い声で、首は笑いだした。
「赤姫、赤姫」
首はにわかに不安げな表情になると、愛しい人を探すように目だけをきょろきょろと動かした。
「どこだ赤姫」
「わたしはここにおります」
由茄は照隠の体から離れると、首に、にじり寄った。
「どこだ赤姫」
由茄は首を拾い上げ、露わになった胸のなかに包み込む。
首の声は、由茄の乳房に押しつけられ、くぐもった。
「赤姫、赤姫」
「わたしはここにおります。どうぞご安心ください」
由茄の白い背を見つめたまま、照隠は硬直している。
やがて声はやんだ。由茄は首を、丁寧に首桶のなかへ仕舞い込んだ。
蓋を閉じ、紐を結ぶと、小屋のなかは再び静けさを取り戻した。
「……今のが得宗家か」
ようやく呼吸を取り戻した照隠は、そう言ってから深く息を吐いた。
由茄は小袖の乱れを整えている。
自らの浅ましさに耐えきれなくなって、照隠は視線を外した。
「初めてお会いになった方は、皆、驚いておりました。殿は、声がようお通りになる方でしたから」
首桶に収まっていたときに聞いた、低い獣のような唸り声とは違っている。
「そなたのことを、赤姫と言うておったが」
「あっ、それは……」
由茄は俯き、僅かに頬を染める。
「初めて殿とお会いしたとき、わたしが寒さで赤い顔をしていたので、殿がその場で赤姫という呼び名をつけてくださったのです」
まだ田舎から連れてこられたばかりで、体から土臭い匂いを放っていた。
館の者たちには笑い者にされ、蔑んだ目を向けられたが、高時はあの独特の笑い声で彼女を守ってくれた。
「わたしは親に売られたのです」
「そうであったか」
「貧しい村でしたので。ですが、父や母のことは恨んでおりません。おかげで殿と巡りあい、満ち足りた暮らしを送ることができました」
だがその生活も今はもうない。
照隠は板葺きの屋根を見上げた。
「わしが、そなたの幸せを奪うてしもうたのだな」
独白するように呟く。
由茄が怪訝な顔を向ける。
「わしが新田義貞殿に倒幕の綸旨をお届けしたのだ」
小屋の空気が静まり返った。
由茄の息を呑む音が聞こえた。
「他にも坂東の武家に、新田に呼応するよう説いて回った。もちろんわし一人でなく、数多の仲間が山伏や商人に身を変え、各地で働いた」
「それでは御坊は」
「有り体に言うなら、先帝の手の者よ」
由茄は目を伏せた。
先帝すなわち後醍醐帝による倒幕の綸旨あればこそ、新田も足利も挙兵に踏み切ったと言っていい。
「わしは悔やんではおらぬ。だが、そなたを犠牲にしてしもうたことだけは……」
「だから、わたしを助けてくれたのですか」
「…………」
由茄は涙を流していた。
だが泣いてはいなかった。涙を流しながら、瞳は照隠を見つめていた。
「なぜ今になって、打ち明けられたのですか」
由茄の涙は、火の光を浴びて輝いている。火の色をした川である。
「得宗家に嘲笑われ、全てを見透かされたような気になった。わしの正体や浅はかな考えなど、初めからお見通しであったようだ」
吉野で耳にした高時の風評は、およそ天下人とは思えぬ体たらくだった。その噂が倒幕の気運を高めたのだ。
「殿はいつも笑っておられました。そして毎日、憑かれたように遊びに夢中になっておられました。まるでお逃げになるように」
由茄はもう涙を流してなかった。
「そなたは、今でも得宗家を慕うておるのか」
「はい」
「だが……だが得宗家は、そなたを苦しめておるではないか」
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照隠は拳を握りしめた。
火の粉が爆ぜた。
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