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終幕
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空が白み始めている。
祭りの後のミューキプンは、静寂に包まれていた。いつもは早起きの行商や職人たちも、今日ばかりは年に一度の朝寝坊だ。
その静寂を破るように、小さな軋みをあげて、下町の粗末な家の戸が開いた。そしてそのなかから、旅支度を整えた一人の娘が姿を見せた。
娘が出てきた家は、静まり返っていて住人の気配がない。娘は一度だけその家を見上げて目に焼きつけると、そっときびすを返した。
「何も、こんな朝早くに出発しなくてもいいのに」
歩きだそうとした娘の足が止まった。その視線の先にいたのは、素朴でにこやかな顔立ちの青年だった。
「見送りはいらないって言わなかったかしら、メイガス」
レラは呆れ気味に溜め息を吐いた。
「朝の散歩の途中で、たまたま通りがかっただけだよ」
「そんな年寄りじみた習慣があったなんて、あなたのことを少し誤解してたわ」
「年寄りはひどいなあ」
苦笑いを浮かべるメイガス。その表情は若くも見えるが、ふとした角度で老人のようにも見える。
「これから、どこへ行くんだい?」
「決めてないわ」
「良かったら、カボチャの馬車でお送りしましょうか、姫」
「あなたの運転は、もうこりごりよ。それに……私は姫じゃないもの」
「残念」
メイガスが肩を竦めた。
「じゃ、またどこかで」
「そうね」
短い挨拶を交わすと、レラは早朝の澄んだ空気のなかを歩きだした。
その姿が見えなくなっても、メイガスはしばらくそこに佇み、無人になった家を眺めていた。
すると反対の、王城に繋がる通りの方から誰かが駆けてきた。
いかにも育ちの良さそうな、お坊っちゃん風の青年だった。
その青年は辺りをきょろきょろと見回し……メイガスの姿を見付けると、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「この辺りにレラっていう女の子が住んでいるはずなんだけど、知らない?」
「レラねえ……」
「すらっとしてて、美人で、ちょっと無表情だけど笑うと可愛くて、凄く強いんだけど守ってあげたくなるような女の子なんだ」
「まあ、ちょっと落ち着きなよ、ユコニス王子」
「え……」
一気にまくしたてていた青年は、驚きのあまり、メイガスの顔をまじまじと見つめた。
「なんで僕のことを……」
「そりゃ、有名人だからね」
「まあ、いいや。それより、レラって子の……」
「彼女ならもういないよ」
「えっ、いない?」
「ついさっき出てっちゃった」
「どこへ? いつ帰ってくるの?」
「さあ。隣の町なのか、それともどこか遠い国なのか。たぶんもう、ここには戻ってこないと思うけどね」
「そんな、レラ……」
ユコニスが、気の毒になるほどがっくりと肩を落とした。
「彼女のことは諦めて、もっといい相手を見付けなよ。王子なら、よりどりみどりだろう」
「……駄目だ」
「はい?」
項垂れていたユコニスが、面差しを上げた。
「レラじゃなきゃ駄目なんだ。今度こそ僕が守るって誓ったんだ」
そう言い切ると、背負っていた背嚢からひと組の靴を取りだしてメイガスに見せた。
銀糸をあしらった、奇麗な女物の靴だった。
「夕べ、彼女が城に忘れていった物さ。これを返しにきたんだ」
「そりゃまた、律儀なことで」
「君、確か、ついさっき出発したって言ったよね。どっちに向かったか判る?」
メイガスが指差すと、ユコニスは大事そうに靴を仕舞い、
「ありがとう」
放たれた馬のように駆けだした。
「どうせ追いつけっこないよ。彼女は風のように速いんだ」
「追いついてみせるさ。何年かかっても」
「変装してるかもしれないよ。何しろ稀代の魔女だからね」
「そしたら国じゅう……いや世界中の女の子に、この靴を履いてもらうよ。いくら魔女でも、足の形までは変えられないからね」
ユコニスの迷いのない顔に、メイガスはまた肩を竦めるしかなかった。
「それに、約束してくれたんだ」
「約束……あのレラが?」
「ああ」
「どんな?」
「今度、美味しいカボチャのタルトを作ってくれるって」
ユコニスは満面の笑みを浮かべると、早朝の町を猛然と駆けていった。
確かに、レラの作るカボチャのタルトは絶品だ。そう思うと、メイガスはみすみす彼女を手放したことを少し後悔した。
(完)
祭りの後のミューキプンは、静寂に包まれていた。いつもは早起きの行商や職人たちも、今日ばかりは年に一度の朝寝坊だ。
その静寂を破るように、小さな軋みをあげて、下町の粗末な家の戸が開いた。そしてそのなかから、旅支度を整えた一人の娘が姿を見せた。
娘が出てきた家は、静まり返っていて住人の気配がない。娘は一度だけその家を見上げて目に焼きつけると、そっときびすを返した。
「何も、こんな朝早くに出発しなくてもいいのに」
歩きだそうとした娘の足が止まった。その視線の先にいたのは、素朴でにこやかな顔立ちの青年だった。
「見送りはいらないって言わなかったかしら、メイガス」
レラは呆れ気味に溜め息を吐いた。
「朝の散歩の途中で、たまたま通りがかっただけだよ」
「そんな年寄りじみた習慣があったなんて、あなたのことを少し誤解してたわ」
「年寄りはひどいなあ」
苦笑いを浮かべるメイガス。その表情は若くも見えるが、ふとした角度で老人のようにも見える。
「これから、どこへ行くんだい?」
「決めてないわ」
「良かったら、カボチャの馬車でお送りしましょうか、姫」
「あなたの運転は、もうこりごりよ。それに……私は姫じゃないもの」
「残念」
メイガスが肩を竦めた。
「じゃ、またどこかで」
「そうね」
短い挨拶を交わすと、レラは早朝の澄んだ空気のなかを歩きだした。
その姿が見えなくなっても、メイガスはしばらくそこに佇み、無人になった家を眺めていた。
すると反対の、王城に繋がる通りの方から誰かが駆けてきた。
いかにも育ちの良さそうな、お坊っちゃん風の青年だった。
その青年は辺りをきょろきょろと見回し……メイガスの姿を見付けると、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「この辺りにレラっていう女の子が住んでいるはずなんだけど、知らない?」
「レラねえ……」
「すらっとしてて、美人で、ちょっと無表情だけど笑うと可愛くて、凄く強いんだけど守ってあげたくなるような女の子なんだ」
「まあ、ちょっと落ち着きなよ、ユコニス王子」
「え……」
一気にまくしたてていた青年は、驚きのあまり、メイガスの顔をまじまじと見つめた。
「なんで僕のことを……」
「そりゃ、有名人だからね」
「まあ、いいや。それより、レラって子の……」
「彼女ならもういないよ」
「えっ、いない?」
「ついさっき出てっちゃった」
「どこへ? いつ帰ってくるの?」
「さあ。隣の町なのか、それともどこか遠い国なのか。たぶんもう、ここには戻ってこないと思うけどね」
「そんな、レラ……」
ユコニスが、気の毒になるほどがっくりと肩を落とした。
「彼女のことは諦めて、もっといい相手を見付けなよ。王子なら、よりどりみどりだろう」
「……駄目だ」
「はい?」
項垂れていたユコニスが、面差しを上げた。
「レラじゃなきゃ駄目なんだ。今度こそ僕が守るって誓ったんだ」
そう言い切ると、背負っていた背嚢からひと組の靴を取りだしてメイガスに見せた。
銀糸をあしらった、奇麗な女物の靴だった。
「夕べ、彼女が城に忘れていった物さ。これを返しにきたんだ」
「そりゃまた、律儀なことで」
「君、確か、ついさっき出発したって言ったよね。どっちに向かったか判る?」
メイガスが指差すと、ユコニスは大事そうに靴を仕舞い、
「ありがとう」
放たれた馬のように駆けだした。
「どうせ追いつけっこないよ。彼女は風のように速いんだ」
「追いついてみせるさ。何年かかっても」
「変装してるかもしれないよ。何しろ稀代の魔女だからね」
「そしたら国じゅう……いや世界中の女の子に、この靴を履いてもらうよ。いくら魔女でも、足の形までは変えられないからね」
ユコニスの迷いのない顔に、メイガスはまた肩を竦めるしかなかった。
「それに、約束してくれたんだ」
「約束……あのレラが?」
「ああ」
「どんな?」
「今度、美味しいカボチャのタルトを作ってくれるって」
ユコニスは満面の笑みを浮かべると、早朝の町を猛然と駆けていった。
確かに、レラの作るカボチャのタルトは絶品だ。そう思うと、メイガスはみすみす彼女を手放したことを少し後悔した。
(完)
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