灰の瞳のレラ

チゲン

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第32幕

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 闇のなかに、レラは立っている。
 足元から水の流れる音が聞こえてくる。どうやら、ミューキプン城の地下全体に広がった水路施設のようだ。
 枯れ井戸は、いざというときの脱出路なのだろう。しかもご丁寧なことに、地下水路側からは開けられない仕組みになっていた。
 レラは目を閉じる。心を落ち着かせるために。
「足が動かない」
 他人事のように感じてしまった。我が事ながら信じられなかった。生まれて初めて、選択肢を与えられた気分だった。
 闇のなかで自らをかえりみる。
 デイジアの言葉通り、リヨネッタは自分に忘却の魔術をかけていたようだ。
 だがその魔術も、このまま先へ進めば解かれることになるだろう。忘れていたものを全て取り戻すことができるだろう。それは確信に近い予感だった。
 なのに、なぜ踏みだすことができないのか。これも魔術の影響なのだろうか。
「ラ……レラってば」
 肩を揺さぶられていることに、今更ながら気が付いた。
 いつの間にか、周囲が明るくなっている。
「あなたは……」
 松明を持ったユコニスが、心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
 いったいどれほどの間、自分はほうけていたのか。これでは暗殺者失格だ。
「どうしてここに?」
「だって、君のことが心配で……」
「王のことはいいの?」
「もちろん父上には報せたよ。でも、これくらいで舞踏会を中止する訳にはいかないって。とりあえず警護は増やすみたいだけど」
「お気楽なものね。そんなに舞踏会とやらが大事なのかしら。自分の命が狙われてるっていうのに」
「そういうことじゃない……と思う」
「父親のことなのに、ずいぶん自信がないのね、王子」
「やめてよ、そんな言い方」
 ユコニスが悲しげに目を伏せる。
 レラの胸の奥で、ちりりと小さな火がぜるような音がした。
「気にさわったのなら謝るわ。私、人と会話の仕方がよく判らないの。それでいつも、シンシア姉様を怒らせてるし」
 ユコニスは苦笑せざるを得なかった。確かに先程まで演じていた貴族の令嬢の姿は、もう影も形もない。
「いいよ、気にしないで。実は父上とは、そんなにうまくいっていないんだ。でも……」
「でも?」
「君には、できればユコニスって呼んでもらいたいな。あの頃みたいに」
 ユコニスが松明を持っていない左手で、レラの右手を握った。彼女が震えていることに気付いたからだ。
「君こそ、リヨネッタ伯母さんたちのことはいいのかい? このままじゃ、その……捕まっちゃうかもしれないし」
「もちろん気になるわ。でも今は、こっちを確かめたいの」
 再び闇の奥に目をやる。松明の炎の先に、ひと筋の道が浮かんでいる。
 それでも動けなかった。
「無理しなくていいんだよ。君さえ良ければ、このまま安全な場所へ避難してもいいし。もちろん僕が守ってみせるから、今度こそ」
「……ありがとう、ユコニス」
 少年だったユコニスの、大きくなった手を握り返した。
「こうしてると安心する。たぶん、体があなたを覚えてるのね」
「それは嬉しいけど……」
 彼女に他意はないと判っていても、そんな言い方をされると赤面してしまう。
「行きましょう」
 レラが一歩を踏みだした。暗闇のなかに向かって。
 靴が乾いた音を立てる。
 かつてここを幼い自分が通った。今隣にいるユコニスではなく、あの人に手を引かれて。
『レラ……』
 暗闇のなかから、彼女の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
 優しげな女の声が。
 この先に、あの人がいる。
『レラ……』
 そして、水路の一画に彼女はいた。
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