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第24幕
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レラは手早くドレスと靴に着替えた。侵入時に着ていた衣類は、ドレスを仕舞っていた背嚢に詰め込み、裏庭の隅に隠した。
改めて己れの姿を確認する。
メイガスは褒めてくれたが、どうしても違和感が拭えない。服に着られているような気がしてならなかった。
華やかな舞踏会で浮いてしまうのではないか。一抹の不安を感じながら、レラは厨房の脇を抜け、会場である大広間へ向かって歩きだした。
ところがその矢先、正面から来た青年と、ばったり出くわしてしまった。
「!」
「君、こんな所で何をしているの?」
迂闊だった。念には念を入れて、わざわざ見つかりにくい裏門から潜入したのに。
きっとこの油断は、厨房から漂ってくるカボチャの甘い匂いのせいだ。
声を掛けてきた相手は、まだ若い……レラより少し年上の青年だった。
見るからに育ちが良さそうな、いわゆる貴族のお坊っちゃんである。身に着けている服も瀟洒で、腰には装飾の施された見事な飾り短剣を差していた。
顔立ちも上品で爽やかだ。さぞかし淑女におモテになるに違いない。
レラは動揺を飲み下すと、こちらも良家の令嬢よろしく、にこりと笑みを浮かべた。考えていた台詞とともに。
「あ、あの、実はお城を見て回ってるうちに迷ってしまいまして……」
「嘘だね」
「な……」
ひと言で彼女の嘘は看破された。
「な、なんで嘘だと……」
思わぬ事態に、しどろもどろになるレラ。令嬢キャラなど初めて演じるので、やはりどこか不自然なところがあったのだろうか。こんな素人に見破られてしまうほどに。
「だって、笑顔が強張っているもん。君は嘘が下手だね」
「こ、こわば……」
自分としては、満面の笑みのつもりだったのに。
レラは両手で頬の肉をムニムニとほぐした。するとそれを見ていた青年が、堪らずプッと吹きだした。
「ごまかさなくても、僕も君と同じ目的さ」
「!?」
レラは思わず、スカート下に潜ませている短剣に手を伸ばしかけた。
まさかの同業者宣言。あるいは敵か。
だが青年はニコニコしているだけで、攻撃を仕掛けてくることも、殺気を放ってくることもない。この余裕っぷりは、相当腕に自信があるのか。
奇襲を仕掛けるべきか、レラは逡巡した。
青年が手を動かした。
「来る!」
今度こそ、レラは短剣に手を伸ばし……。
「ほら、あそこが厨房だよ」
「は?」
思わず思考が停止した。
青年の手は、厨房を指差しただけだった。
「?」
「いい匂いだね。良質のカボチャが手に入ったのかな」
「はあ……」
戸惑うレラの顔を見て、悪戯っ子のように、青年がにんまりと笑う。
「君も摘み食いにきたんでしょ?」
「何を?」
「またまたぁ。もちろん、カボチャのタルトだよ」
朗らかに宣う青年。
「…………」
前言撤回。手練れなんかじゃない。こいつは、ただの食いしん坊だ。
「さあ行こう」
「えっ、ちょっと」
青年が、返事も聞かずレラの手を取った。
「こいつ……」
反射的に振り払おうとする。しかし。
「……?」
その手の温もりに、レラは困惑した。
「なに、この感じ……」
知っている気がしたからだ。
こんな感覚を味わったことはなかった。こんな……心の奥が優しくノックされるような。
それが懐かしさという名の感情であることを、このとき彼女は自覚していなかった。
「ほら早く。タルトが冷めちゃうよ」
「え、ええ……」
戸惑い気味なレラを連れて、青年が厨房にずかずかと入っていく。
「あらあら、またですか」
「ほんにまあ、しょうがない人だねえ」
料理人たちは驚くというより、呆れたり苦笑を浮かべたりしている。どうやら、摘み食いの常習犯らしい。
青年は、皿に焼き立てのカボチャのタルトを二切れ載せると、再びレラの手を取って厨房を抜けだした。
「あの、私そろそろ戻らないと……」
レラは何とか穏便に退散しようと、必死に良家の令嬢を演じてみせた。
「でも、焼き立てだよ」
が、よく判らない理屈で一蹴された。
「それに、一人で食べても味気ないしさ。ねっ、ちょっとだけ付き合ってよ」
青年が屈託のない笑みを浮かべる。
メスを餌で誘う行為は、発情したオスの常套手段だ。しかし彼の場合、発情に伴う誘引行動とは異なる気がする。本当に、言葉通りの意味で言ったのだろう。
「あそこで座って食べようか。暗いから気を付けてね」
「はい……」
青年が裏庭の一角にあるベンチまで、半ば強引にレラをエスコートした。ベンチといっても、空いた木箱に布を被せただけの代物だったが。
さすが常習犯だけあって、用意がいいことだ。
レラがそのベンチに腰かけると、青年がようやく手を離した。
「あ……」
一瞬、名残惜しそうに彼の手を目で追ってしまう。
「この感じは、なんなの……?」
『レラ……』
そのとき、誰かが彼女の名を呼んだ。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
「え……」
ふと我に返ると、青年が隣に座り、心配そうな顔で覗き込んでいるところだった。
「平気よ……ですわ」
地が出そうになり、慌てて言葉遣いを修正する。
「じゃあ、はいこれ」
「ありがとう……ございます」
レラがタルトをひと切れ取り上げると、青年も自分の分を摘んで口に運んだ。
カボチャの甘みが口のなかに広がる。だが、特筆するほどの出来映えでもなかった。
「うーん。匂いは良かったけど、なんかひと味足りないなあ」
残さず平らげた後で、青年がボヤいた。
「そうですね……」
「ひょっとして君も?」
「ええ。もう少しカボチャを裏漉しした方が、口当たりも滑らかになって美味しくなるんじゃないかしら」
たちまち青年が目を輝かせる。
「君、もしかして料理が得意?」
「得意ってほどじゃ……一応、家族の食事は私が作ってますが」
「へええ。若いのに偉いね」
そう言って尊敬の眼差しを向けてくる。
レラは無性に照れ臭くなって、青年から目を逸らしてしまった。そんな純粋な目で見つめないでほしい。
「じゃあ、今度僕にもご馳走してよ。実は僕、カボチャのタルトには目がないんだ」
「えっ、でもちょっと……」
「約束だよ。いつでも食べにいくからさ」
「え、あ、はい……」
勢いに押され、思わず頷いてしまうレラ。
「やった!」
興奮した青年が、レラの空いていた方の手を取って、力強く握手した。
「あっと……」
食べかけのタルトを落としそうになり、レラは思わずひと口で頬張ってしまった。
「ん……」
しまった。貴族の令嬢は、間違ってもこんな品のない食べ方はしない。そもそも、手掴みで食べている時点でアウトかもしれないが。
案の定、青年が言葉を失ったように、まじまじとレラの顔を見つめている。
レラの頬に朱が差した。失態を恥じて。いや、食べているところを見られるのが、急に恥ずかしくなってしまったのだ。
「君、面白いね」
てっきり引かれるかと思ったが、青年はなぜか満面の笑みを浮かべた。
「おもしろい……私が?」
「うん」
そう言って微笑んだ青年の口元に、タルトの欠片が付いていることに気付いて、レラは思わず吹きだしてしまった。
「あなたの方が、ずっと面白いわ」
「え……え……?」
笑われた理由が判らず、あたふたとする青年。さらにおかしさが込み上げてきて、レラは声を抑えながら笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
ひとしきり笑った後、大きな息を吐いた。
「ところで、さっきから気になっているんだけど」
青年が何気ない口調で尋ねてくる。
「なに?」
肩の力が抜けたせいで、口調がすっかり素に戻っていることに気付かない。
それほど油断していた。
「どこかで会ったことないかな」
「!?」
青年が今度は真顔で、レラの顔を覗き込んできた。
「しまった」
再び、己れの迂闊さを悔やむ。
もしや、町で擦れ違ったことでもあったのだろうか。だとしたら、貴族でもない者が城に潜入していることが発覚してしまう。
「さ、さあ……気のせいじゃないでしょうか」
とにかく、この場は白を切るしかない。もし騒がれるようなら、力ずくで無力化しなければならないが。
「うーん」
青年は能天気な様子で、うんうんと唸っている。
「君みたいな可愛い子、一度見たら忘れないと思うんだけど……」
『君みたいな可愛い子、一度見たら忘れないと思うんだけど……』
「!」
その瞬間、レラの脳裏に少年の声が蘇った。
「なに、いまの……」
瀟酒な服を着た少年が、レラに笑いかけている。
『このお城、広すぎてまよっちゃいそうだね』
そう言って、少年が手を伸ばす。レラが……幼いレラがその手を握り返し……。
「君……君ってば」
乱暴気味に肩を揺さぶられて、レラはハッと我に返った。
「ひょっとして、気分でも悪いのかい?」
「平気…です……」
「でも顔色も良くないし、汗も掻いているみたいだし」
「なんでも、ないから……」
ふと視界の端に、黒ずんだ石の塊が映った。
「……?」
目を凝らしてみると、それは古びた井戸だった。裏庭の片隅に、なぜか人目を忍ぶように、ひっそりと佇んでいる。
「あれは……」
なぜこんな辺鄙な場所に井戸があるのか。厨房用の井戸はちゃんとあるのに。
「あの井戸は……」
レラは立ち上がると、くらくらする頭を押さえながら井戸に近付いていった。
この井戸を私は知っている。
「ああ、その井戸はもう涸れていて使えないんだって。父上にも、危ないから近付かないようにって言われているんだ」
『レラ……』
誰かが呼んだ。彼女の名を。
女の声で。
『レラ……』
優しい声。懐かしい声。
「危ないから、君もあまり近付かない方がいいよ」
青年の制止も、レラの耳には届かない。
「ねえ、君。本当に危ないから……」
次の瞬間、レラは身を翻して井戸のなかに飛び込んだ。
「ええっ!?」
青年が慌てて駆け寄り、なかを覗き込む。
井戸の内壁には階段状に足場が取り付けられていて、レラはそこを、さながら落下するように駆け降りていく。
最悪の事態を想像していた青年は、ほっと息を吐いた。
「いやいや、いくら何でも危ないって。ちょっと待ってよ」
青年が慎重な足取りで、井戸を降りてくる。
井戸の底はやはり枯れていた。もう何年も機能していないのか、カラカラに乾いており、水の跡すらない。
その枯れ井戸の底で、レラは壁の一点を凝視していた。
「ずいぶん、お転婆なお嬢さんだね」
ようやく井戸の底に辿り着いた青年が、苦笑いを浮かべつつレラの顔を覗き込み……息を呑んだ。
お転婆なお嬢さんの顔は、全ての血の気が引いたように真っ青だった。
「……私はここを知ってる」
誰に言うでもなく、レラが枯れた声で呟いた。
「?」
青年が首を傾げる。
レラは目の前の石壁に手を当てた。そして石のひとつを、容易く取り外してみせた。
「え……?」
驚く青年。
石の下には、円環状の把っ手があった。
縦になっていたその把っ手を、右に回す。ゴリゴリと石臼のような音がして、九十度回ったところで止まった。
次いでレラは正面の壁を押した。
再び石が擦れる音がして、目の前の壁が軸を中心に回転した。
「ええっ!?」
回転型の隠し扉だ。
「なんだこれ……」
驚愕する青年。
隠し扉の向こうは、下り階段になっているようだ。
その先は光が届かず、闇のなかである。微かに空気が動いているから、密室ではなさそうだが。
『レラ……』
真っ暗な階段の奥から、レラを呼ぶ声が聞こえる。
だがレラは、一歩を踏みだすことができなかった。
体が小刻みに震えていた。
行きたい。でも行けない。行ってはいけない。
もし行ったら、とんでもないモノが待ち構えている。
今までの人生の全てが、粉々に壊されてしまうほどのモノが。
怖い。
レラは生まれて初めて恐怖を感じた。
これが恐怖。
今までも何度も命の危険に晒されたことがあったが、怖いと感じたことはなかった。恐怖は未知の感情だった。
『レラ……』
「誰、なの?」
暗闇に向かってレラは問いかけた。
「あなたは誰?」
不意に脳裏を映像が駆け抜けた。
改めて己れの姿を確認する。
メイガスは褒めてくれたが、どうしても違和感が拭えない。服に着られているような気がしてならなかった。
華やかな舞踏会で浮いてしまうのではないか。一抹の不安を感じながら、レラは厨房の脇を抜け、会場である大広間へ向かって歩きだした。
ところがその矢先、正面から来た青年と、ばったり出くわしてしまった。
「!」
「君、こんな所で何をしているの?」
迂闊だった。念には念を入れて、わざわざ見つかりにくい裏門から潜入したのに。
きっとこの油断は、厨房から漂ってくるカボチャの甘い匂いのせいだ。
声を掛けてきた相手は、まだ若い……レラより少し年上の青年だった。
見るからに育ちが良さそうな、いわゆる貴族のお坊っちゃんである。身に着けている服も瀟洒で、腰には装飾の施された見事な飾り短剣を差していた。
顔立ちも上品で爽やかだ。さぞかし淑女におモテになるに違いない。
レラは動揺を飲み下すと、こちらも良家の令嬢よろしく、にこりと笑みを浮かべた。考えていた台詞とともに。
「あ、あの、実はお城を見て回ってるうちに迷ってしまいまして……」
「嘘だね」
「な……」
ひと言で彼女の嘘は看破された。
「な、なんで嘘だと……」
思わぬ事態に、しどろもどろになるレラ。令嬢キャラなど初めて演じるので、やはりどこか不自然なところがあったのだろうか。こんな素人に見破られてしまうほどに。
「だって、笑顔が強張っているもん。君は嘘が下手だね」
「こ、こわば……」
自分としては、満面の笑みのつもりだったのに。
レラは両手で頬の肉をムニムニとほぐした。するとそれを見ていた青年が、堪らずプッと吹きだした。
「ごまかさなくても、僕も君と同じ目的さ」
「!?」
レラは思わず、スカート下に潜ませている短剣に手を伸ばしかけた。
まさかの同業者宣言。あるいは敵か。
だが青年はニコニコしているだけで、攻撃を仕掛けてくることも、殺気を放ってくることもない。この余裕っぷりは、相当腕に自信があるのか。
奇襲を仕掛けるべきか、レラは逡巡した。
青年が手を動かした。
「来る!」
今度こそ、レラは短剣に手を伸ばし……。
「ほら、あそこが厨房だよ」
「は?」
思わず思考が停止した。
青年の手は、厨房を指差しただけだった。
「?」
「いい匂いだね。良質のカボチャが手に入ったのかな」
「はあ……」
戸惑うレラの顔を見て、悪戯っ子のように、青年がにんまりと笑う。
「君も摘み食いにきたんでしょ?」
「何を?」
「またまたぁ。もちろん、カボチャのタルトだよ」
朗らかに宣う青年。
「…………」
前言撤回。手練れなんかじゃない。こいつは、ただの食いしん坊だ。
「さあ行こう」
「えっ、ちょっと」
青年が、返事も聞かずレラの手を取った。
「こいつ……」
反射的に振り払おうとする。しかし。
「……?」
その手の温もりに、レラは困惑した。
「なに、この感じ……」
知っている気がしたからだ。
こんな感覚を味わったことはなかった。こんな……心の奥が優しくノックされるような。
それが懐かしさという名の感情であることを、このとき彼女は自覚していなかった。
「ほら早く。タルトが冷めちゃうよ」
「え、ええ……」
戸惑い気味なレラを連れて、青年が厨房にずかずかと入っていく。
「あらあら、またですか」
「ほんにまあ、しょうがない人だねえ」
料理人たちは驚くというより、呆れたり苦笑を浮かべたりしている。どうやら、摘み食いの常習犯らしい。
青年は、皿に焼き立てのカボチャのタルトを二切れ載せると、再びレラの手を取って厨房を抜けだした。
「あの、私そろそろ戻らないと……」
レラは何とか穏便に退散しようと、必死に良家の令嬢を演じてみせた。
「でも、焼き立てだよ」
が、よく判らない理屈で一蹴された。
「それに、一人で食べても味気ないしさ。ねっ、ちょっとだけ付き合ってよ」
青年が屈託のない笑みを浮かべる。
メスを餌で誘う行為は、発情したオスの常套手段だ。しかし彼の場合、発情に伴う誘引行動とは異なる気がする。本当に、言葉通りの意味で言ったのだろう。
「あそこで座って食べようか。暗いから気を付けてね」
「はい……」
青年が裏庭の一角にあるベンチまで、半ば強引にレラをエスコートした。ベンチといっても、空いた木箱に布を被せただけの代物だったが。
さすが常習犯だけあって、用意がいいことだ。
レラがそのベンチに腰かけると、青年がようやく手を離した。
「あ……」
一瞬、名残惜しそうに彼の手を目で追ってしまう。
「この感じは、なんなの……?」
『レラ……』
そのとき、誰かが彼女の名を呼んだ。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
「え……」
ふと我に返ると、青年が隣に座り、心配そうな顔で覗き込んでいるところだった。
「平気よ……ですわ」
地が出そうになり、慌てて言葉遣いを修正する。
「じゃあ、はいこれ」
「ありがとう……ございます」
レラがタルトをひと切れ取り上げると、青年も自分の分を摘んで口に運んだ。
カボチャの甘みが口のなかに広がる。だが、特筆するほどの出来映えでもなかった。
「うーん。匂いは良かったけど、なんかひと味足りないなあ」
残さず平らげた後で、青年がボヤいた。
「そうですね……」
「ひょっとして君も?」
「ええ。もう少しカボチャを裏漉しした方が、口当たりも滑らかになって美味しくなるんじゃないかしら」
たちまち青年が目を輝かせる。
「君、もしかして料理が得意?」
「得意ってほどじゃ……一応、家族の食事は私が作ってますが」
「へええ。若いのに偉いね」
そう言って尊敬の眼差しを向けてくる。
レラは無性に照れ臭くなって、青年から目を逸らしてしまった。そんな純粋な目で見つめないでほしい。
「じゃあ、今度僕にもご馳走してよ。実は僕、カボチャのタルトには目がないんだ」
「えっ、でもちょっと……」
「約束だよ。いつでも食べにいくからさ」
「え、あ、はい……」
勢いに押され、思わず頷いてしまうレラ。
「やった!」
興奮した青年が、レラの空いていた方の手を取って、力強く握手した。
「あっと……」
食べかけのタルトを落としそうになり、レラは思わずひと口で頬張ってしまった。
「ん……」
しまった。貴族の令嬢は、間違ってもこんな品のない食べ方はしない。そもそも、手掴みで食べている時点でアウトかもしれないが。
案の定、青年が言葉を失ったように、まじまじとレラの顔を見つめている。
レラの頬に朱が差した。失態を恥じて。いや、食べているところを見られるのが、急に恥ずかしくなってしまったのだ。
「君、面白いね」
てっきり引かれるかと思ったが、青年はなぜか満面の笑みを浮かべた。
「おもしろい……私が?」
「うん」
そう言って微笑んだ青年の口元に、タルトの欠片が付いていることに気付いて、レラは思わず吹きだしてしまった。
「あなたの方が、ずっと面白いわ」
「え……え……?」
笑われた理由が判らず、あたふたとする青年。さらにおかしさが込み上げてきて、レラは声を抑えながら笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
ひとしきり笑った後、大きな息を吐いた。
「ところで、さっきから気になっているんだけど」
青年が何気ない口調で尋ねてくる。
「なに?」
肩の力が抜けたせいで、口調がすっかり素に戻っていることに気付かない。
それほど油断していた。
「どこかで会ったことないかな」
「!?」
青年が今度は真顔で、レラの顔を覗き込んできた。
「しまった」
再び、己れの迂闊さを悔やむ。
もしや、町で擦れ違ったことでもあったのだろうか。だとしたら、貴族でもない者が城に潜入していることが発覚してしまう。
「さ、さあ……気のせいじゃないでしょうか」
とにかく、この場は白を切るしかない。もし騒がれるようなら、力ずくで無力化しなければならないが。
「うーん」
青年は能天気な様子で、うんうんと唸っている。
「君みたいな可愛い子、一度見たら忘れないと思うんだけど……」
『君みたいな可愛い子、一度見たら忘れないと思うんだけど……』
「!」
その瞬間、レラの脳裏に少年の声が蘇った。
「なに、いまの……」
瀟酒な服を着た少年が、レラに笑いかけている。
『このお城、広すぎてまよっちゃいそうだね』
そう言って、少年が手を伸ばす。レラが……幼いレラがその手を握り返し……。
「君……君ってば」
乱暴気味に肩を揺さぶられて、レラはハッと我に返った。
「ひょっとして、気分でも悪いのかい?」
「平気…です……」
「でも顔色も良くないし、汗も掻いているみたいだし」
「なんでも、ないから……」
ふと視界の端に、黒ずんだ石の塊が映った。
「……?」
目を凝らしてみると、それは古びた井戸だった。裏庭の片隅に、なぜか人目を忍ぶように、ひっそりと佇んでいる。
「あれは……」
なぜこんな辺鄙な場所に井戸があるのか。厨房用の井戸はちゃんとあるのに。
「あの井戸は……」
レラは立ち上がると、くらくらする頭を押さえながら井戸に近付いていった。
この井戸を私は知っている。
「ああ、その井戸はもう涸れていて使えないんだって。父上にも、危ないから近付かないようにって言われているんだ」
『レラ……』
誰かが呼んだ。彼女の名を。
女の声で。
『レラ……』
優しい声。懐かしい声。
「危ないから、君もあまり近付かない方がいいよ」
青年の制止も、レラの耳には届かない。
「ねえ、君。本当に危ないから……」
次の瞬間、レラは身を翻して井戸のなかに飛び込んだ。
「ええっ!?」
青年が慌てて駆け寄り、なかを覗き込む。
井戸の内壁には階段状に足場が取り付けられていて、レラはそこを、さながら落下するように駆け降りていく。
最悪の事態を想像していた青年は、ほっと息を吐いた。
「いやいや、いくら何でも危ないって。ちょっと待ってよ」
青年が慎重な足取りで、井戸を降りてくる。
井戸の底はやはり枯れていた。もう何年も機能していないのか、カラカラに乾いており、水の跡すらない。
その枯れ井戸の底で、レラは壁の一点を凝視していた。
「ずいぶん、お転婆なお嬢さんだね」
ようやく井戸の底に辿り着いた青年が、苦笑いを浮かべつつレラの顔を覗き込み……息を呑んだ。
お転婆なお嬢さんの顔は、全ての血の気が引いたように真っ青だった。
「……私はここを知ってる」
誰に言うでもなく、レラが枯れた声で呟いた。
「?」
青年が首を傾げる。
レラは目の前の石壁に手を当てた。そして石のひとつを、容易く取り外してみせた。
「え……?」
驚く青年。
石の下には、円環状の把っ手があった。
縦になっていたその把っ手を、右に回す。ゴリゴリと石臼のような音がして、九十度回ったところで止まった。
次いでレラは正面の壁を押した。
再び石が擦れる音がして、目の前の壁が軸を中心に回転した。
「ええっ!?」
回転型の隠し扉だ。
「なんだこれ……」
驚愕する青年。
隠し扉の向こうは、下り階段になっているようだ。
その先は光が届かず、闇のなかである。微かに空気が動いているから、密室ではなさそうだが。
『レラ……』
真っ暗な階段の奥から、レラを呼ぶ声が聞こえる。
だがレラは、一歩を踏みだすことができなかった。
体が小刻みに震えていた。
行きたい。でも行けない。行ってはいけない。
もし行ったら、とんでもないモノが待ち構えている。
今までの人生の全てが、粉々に壊されてしまうほどのモノが。
怖い。
レラは生まれて初めて恐怖を感じた。
これが恐怖。
今までも何度も命の危険に晒されたことがあったが、怖いと感じたことはなかった。恐怖は未知の感情だった。
『レラ……』
「誰、なの?」
暗闇に向かってレラは問いかけた。
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