灰の瞳のレラ

チゲン

文字の大きさ
上 下
16 / 48

第15幕

しおりを挟む
 勤勉な衛兵所長殿は、日が落ちる前には職場を出る。後は優秀な部下たちが何とかしてくれるからだ。
 まっすぐ帰る日もあるが、歓楽街に立ち寄ることも多い。彼はそれを『巡回』と称して日々のなぐさめにしていた。
 今日もその巡回の予定だ。昼を過ぎた頃から所長は二階の執務室でそわそわしていた。
 手元には先日起きた殺人事件の報告書がある。商業ギルドの幹部が暗殺された事件だ。
「欲をかくから、こういうことになる。薄汚い奴隷商人めが」
 所長は鼻で嘲笑あざわらうと、報告書を机の引き出しに仕舞った。この件はもう捜査を打ち切った方が良さそうだ。余計なものまで掘りだされては敵わない。
「あの手配書も、いっそのこと処分しておくか」
 誰もいない執務室で、所長は独り言を口にした。
「ん?」
 先程から廊下が騒がしい。どうやら所員たちが、ひっきりなしにバタバタと走り回っているようだが。
 怪訝けげんに思って、所長は執務室の戸を開け、廊下の様子を覗き込んだ。
 途端に、木材のげるきな臭い匂いが鼻をついた。
「何だこの匂いは!?」
 すると書類を抱えて廊下を走っていた所員が、所長の姿を見付けて驚きの声をあげた。
「所長、まだいらっしゃったんですか!?」
「まだいたとは、何という言い草だ!」
「し、失礼致しました!」
「それより、これは何の騒ぎだ?」
「火事です!」
「はあ!?」
「突然一階の方から火が出て……今、所員総出で消火と避難に当たってます!」
「ばかな……衛兵所が火事だと」
 おののく所長を尻目に、その所員は大事そうに書類を抱え、階段を駆け下りていった。
「いかん。火の手が回る前に逃げなければ」
 慌てて廊下へ出ようとした所長の前に、先程とは別の、帽子を目深まぶかに被った所員が立ちはだかった。
「おい、どけ。邪魔をするな!」
 所長は、腹立たしげにその無礼な所員を押しやろうとする。しかしその手を、がっしりと掴まれてしまった。
「何をす……」
「危険ですから、お部屋にお戻り下さい」
「え……うおっ!」
 所員に、強引に執務室のなかへ押し戻される。
「何をするか!」
 だが所員は謝罪するどころか、帽子の下でククッと笑い、後ろ手に執務室の鍵を閉めた。
「火の手はたいしたことありませんから、どうかご安心を。実は、煙が出やすいよう細工した木材に火をつけただけなんです」
「何を言って……まさか!?」
 事ここに至り、所長は目の前の制服を着た所員が偽者であることに気付いた。そして、この小火ぼや騒ぎが仕組まれたものであるということも。
「皆様、この程度のことで大慌て。これもひとえに、所長の日頃の教育の賜物たまものね」
 所員もどきが、今度は嘲笑うような笑みを浮かべる。
「おかげで、この部屋で何が起きても誰も気にも留めないわ」
 よく聞くと、若い女の声だった。シルエットも男にしては華奢だ。
「だ、誰だ、おまえは……」
 所長の額から、冷や汗が流れた。
 じりじりと後退りしていく。
「あら、私を忘れたの?」
 帽子を取る。その下から現れたのは、刃のように鋭い目をした女だった。
「し、知らんぞ。おまえなど知らん」
「よく見て。兵士長」
「兵士長だと……」
 彼が兵士長だったのは、もう十年も前の話だ。本人も忘れかけていた過去である。
 当時、彼は先代の王の元で、とある場所の警護についていた。
「なぜそのことを知って……」
「あの日、私を犯そうとしたじゃないの。あの騒ぎに乗じて」
「何を言って……」
「そうそう。そういえばあのとき、私、必死であんたの指に噛みついたわよね。今思うと、淑女しゅくじょにあるまじき振る舞いだったわ。お恥ずかしい」
「!」
 所長は咄嗟に、左手に目を走らせた。
 そうだ。あの日、手込めにしようとした少女に、指がちぎれるほどの力で噛みつかれたではないか。
 あのときは、激痛で気絶するかと思った。その後もしばらく歯の跡が引かず、難儀なんぎしたことを思いだす。
 ハッと顔を上げる。
 女の姿に、当時の面影が重なる。
「まさか、おまえ……いや、あなたは……」
「随分、甘い汁を吸ってきたみたいね、兵士長」
「シンシア様……そんな、生きてらっしゃったのですか……」
「あんたこそ。母様を裏切っておきながら、よくのうのうと生きてられたわよね」
 暗殺者が、短剣を抜いた。
「ひっ……」
 あの頃と変わらない、美しい栗色の髪が舞った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

処理中です...