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第15幕
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勤勉な衛兵所長殿は、日が落ちる前には職場を出る。後は優秀な部下たちが何とかしてくれるからだ。
まっすぐ帰る日もあるが、歓楽街に立ち寄ることも多い。彼はそれを『巡回』と称して日々の慰めにしていた。
今日もその巡回の予定だ。昼を過ぎた頃から所長は二階の執務室でそわそわしていた。
手元には先日起きた殺人事件の報告書がある。商業ギルドの幹部が暗殺された事件だ。
「欲をかくから、こういうことになる。薄汚い奴隷商人めが」
所長は鼻で嘲笑うと、報告書を机の引き出しに仕舞った。この件はもう捜査を打ち切った方が良さそうだ。余計なものまで掘りだされては敵わない。
「あの手配書も、いっそのこと処分しておくか」
誰もいない執務室で、所長は独り言を口にした。
「ん?」
先程から廊下が騒がしい。どうやら所員たちが、ひっきりなしにバタバタと走り回っているようだが。
怪訝に思って、所長は執務室の戸を開け、廊下の様子を覗き込んだ。
途端に、木材の焦げるきな臭い匂いが鼻をついた。
「何だこの匂いは!?」
すると書類を抱えて廊下を走っていた所員が、所長の姿を見付けて驚きの声をあげた。
「所長、まだいらっしゃったんですか!?」
「まだいたとは、何という言い草だ!」
「し、失礼致しました!」
「それより、これは何の騒ぎだ?」
「火事です!」
「はあ!?」
「突然一階の方から火が出て……今、所員総出で消火と避難に当たってます!」
「ばかな……衛兵所が火事だと」
おののく所長を尻目に、その所員は大事そうに書類を抱え、階段を駆け下りていった。
「いかん。火の手が回る前に逃げなければ」
慌てて廊下へ出ようとした所長の前に、先程とは別の、帽子を目深に被った所員が立ちはだかった。
「おい、どけ。邪魔をするな!」
所長は、腹立たしげにその無礼な所員を押しやろうとする。しかしその手を、がっしりと掴まれてしまった。
「何をす……」
「危険ですから、お部屋にお戻り下さい」
「え……うおっ!」
所員に、強引に執務室のなかへ押し戻される。
「何をするか!」
だが所員は謝罪するどころか、帽子の下でククッと笑い、後ろ手に執務室の鍵を閉めた。
「火の手はたいしたことありませんから、どうかご安心を。実は、煙が出やすいよう細工した木材に火をつけただけなんです」
「何を言って……まさか!?」
事ここに至り、所長は目の前の制服を着た所員が偽者であることに気付いた。そして、この小火騒ぎが仕組まれたものであるということも。
「皆様、この程度のことで大慌て。これもひとえに、所長の日頃の教育の賜物ね」
所員もどきが、今度は嘲笑うような笑みを浮かべる。
「おかげで、この部屋で何が起きても誰も気にも留めないわ」
よく聞くと、若い女の声だった。シルエットも男にしては華奢だ。
「だ、誰だ、おまえは……」
所長の額から、冷や汗が流れた。
じりじりと後退りしていく。
「あら、私を忘れたの?」
帽子を取る。その下から現れたのは、刃のように鋭い目をした女だった。
「し、知らんぞ。おまえなど知らん」
「よく見て。兵士長」
「兵士長だと……」
彼が兵士長だったのは、もう十年も前の話だ。本人も忘れかけていた過去である。
当時、彼は先代の王の元で、とある場所の警護についていた。
「なぜそのことを知って……」
「あの日、私を犯そうとしたじゃないの。あの騒ぎに乗じて」
「何を言って……」
「そうそう。そういえばあのとき、私、必死であんたの指に噛みついたわよね。今思うと、淑女にあるまじき振る舞いだったわ。お恥ずかしい」
「!」
所長は咄嗟に、左手に目を走らせた。
そうだ。あの日、手込めにしようとした少女に、指がちぎれるほどの力で噛みつかれたではないか。
あのときは、激痛で気絶するかと思った。その後もしばらく歯の跡が引かず、難儀したことを思いだす。
ハッと顔を上げる。
女の姿に、当時の面影が重なる。
「まさか、おまえ……いや、あなたは……」
「随分、甘い汁を吸ってきたみたいね、兵士長」
「シンシア様……そんな、生きてらっしゃったのですか……」
「あんたこそ。母様を裏切っておきながら、よくのうのうと生きてられたわよね」
暗殺者が、短剣を抜いた。
「ひっ……」
あの頃と変わらない、美しい栗色の髪が舞った。
まっすぐ帰る日もあるが、歓楽街に立ち寄ることも多い。彼はそれを『巡回』と称して日々の慰めにしていた。
今日もその巡回の予定だ。昼を過ぎた頃から所長は二階の執務室でそわそわしていた。
手元には先日起きた殺人事件の報告書がある。商業ギルドの幹部が暗殺された事件だ。
「欲をかくから、こういうことになる。薄汚い奴隷商人めが」
所長は鼻で嘲笑うと、報告書を机の引き出しに仕舞った。この件はもう捜査を打ち切った方が良さそうだ。余計なものまで掘りだされては敵わない。
「あの手配書も、いっそのこと処分しておくか」
誰もいない執務室で、所長は独り言を口にした。
「ん?」
先程から廊下が騒がしい。どうやら所員たちが、ひっきりなしにバタバタと走り回っているようだが。
怪訝に思って、所長は執務室の戸を開け、廊下の様子を覗き込んだ。
途端に、木材の焦げるきな臭い匂いが鼻をついた。
「何だこの匂いは!?」
すると書類を抱えて廊下を走っていた所員が、所長の姿を見付けて驚きの声をあげた。
「所長、まだいらっしゃったんですか!?」
「まだいたとは、何という言い草だ!」
「し、失礼致しました!」
「それより、これは何の騒ぎだ?」
「火事です!」
「はあ!?」
「突然一階の方から火が出て……今、所員総出で消火と避難に当たってます!」
「ばかな……衛兵所が火事だと」
おののく所長を尻目に、その所員は大事そうに書類を抱え、階段を駆け下りていった。
「いかん。火の手が回る前に逃げなければ」
慌てて廊下へ出ようとした所長の前に、先程とは別の、帽子を目深に被った所員が立ちはだかった。
「おい、どけ。邪魔をするな!」
所長は、腹立たしげにその無礼な所員を押しやろうとする。しかしその手を、がっしりと掴まれてしまった。
「何をす……」
「危険ですから、お部屋にお戻り下さい」
「え……うおっ!」
所員に、強引に執務室のなかへ押し戻される。
「何をするか!」
だが所員は謝罪するどころか、帽子の下でククッと笑い、後ろ手に執務室の鍵を閉めた。
「火の手はたいしたことありませんから、どうかご安心を。実は、煙が出やすいよう細工した木材に火をつけただけなんです」
「何を言って……まさか!?」
事ここに至り、所長は目の前の制服を着た所員が偽者であることに気付いた。そして、この小火騒ぎが仕組まれたものであるということも。
「皆様、この程度のことで大慌て。これもひとえに、所長の日頃の教育の賜物ね」
所員もどきが、今度は嘲笑うような笑みを浮かべる。
「おかげで、この部屋で何が起きても誰も気にも留めないわ」
よく聞くと、若い女の声だった。シルエットも男にしては華奢だ。
「だ、誰だ、おまえは……」
所長の額から、冷や汗が流れた。
じりじりと後退りしていく。
「あら、私を忘れたの?」
帽子を取る。その下から現れたのは、刃のように鋭い目をした女だった。
「し、知らんぞ。おまえなど知らん」
「よく見て。兵士長」
「兵士長だと……」
彼が兵士長だったのは、もう十年も前の話だ。本人も忘れかけていた過去である。
当時、彼は先代の王の元で、とある場所の警護についていた。
「なぜそのことを知って……」
「あの日、私を犯そうとしたじゃないの。あの騒ぎに乗じて」
「何を言って……」
「そうそう。そういえばあのとき、私、必死であんたの指に噛みついたわよね。今思うと、淑女にあるまじき振る舞いだったわ。お恥ずかしい」
「!」
所長は咄嗟に、左手に目を走らせた。
そうだ。あの日、手込めにしようとした少女に、指がちぎれるほどの力で噛みつかれたではないか。
あのときは、激痛で気絶するかと思った。その後もしばらく歯の跡が引かず、難儀したことを思いだす。
ハッと顔を上げる。
女の姿に、当時の面影が重なる。
「まさか、おまえ……いや、あなたは……」
「随分、甘い汁を吸ってきたみたいね、兵士長」
「シンシア様……そんな、生きてらっしゃったのですか……」
「あんたこそ。母様を裏切っておきながら、よくのうのうと生きてられたわよね」
暗殺者が、短剣を抜いた。
「ひっ……」
あの頃と変わらない、美しい栗色の髪が舞った。
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