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第三部 人間とイェルフ
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「帰れ」
息を切らして駆けつけたシュイに対して、ポロノシューは冷たく言い放った。
「なによそれ!」
そこから口喧嘩が勃発した。
「あんたね……誰のために、苦労して持ってきてやったと思ってんのよ!」
「俺は頼んだ覚えはない」
「その言い方!」
「頼んだ覚えはありません、とでも言えばいいのか?」
「ばかにしてんの!?」
日は暮れかけ、村は夜の冷気に包まれつつある。
ただし、二人の戦いは、砂漠の太陽よりも熱かった。
「先生の薬は、すっごくよく効くのよ。これ飲んだら、キローネだってすぐに良くなるわ」
「必要ない」
「なによ、その態度! わざわざ持ってきてあげたのに!」
シュイは唇を噛みしめた。
努力が、全て水泡に帰したような気分だった。
「……なんであたし、こんなことしたんだろう」
今頃になって後悔の念がよぎる。
険しい山を、病み上がりの足も顧みず、何かに憑かれたように駆け下りてきたのに。
「ばかみたい」
悔しくて薬を投げつけてやりたくなったが、さすがにそれは里の医者に申し訳ない。
そもそも、この男に窺いを立てる必要などないではないか。
「もういいわ。直接キローネに渡すから」
「待て」
診療所を出ていこうとすると、ポロノシューが少し焦り気味に制止してきた。
「彼女に、そんなものを飲ませるな」
言葉の意味を理解できず、シュイは目をしばたたかせた。
「なんであんたが、そんなことを決めるの?」
「俺が医者だからだ」
「医者なら、なんで薬を飲ませるのに反対するのよ」
「薬なら何でもいい、という訳じゃない」
「あのねえ……何度も言うけど、ただの熱冷ましなの。みんな飲んでるの」
だがそれでも、ポロノシューは首を縦に振らなかった。
「ひょっとして……他人の力は借りたくない、とか思ってんじゃないでしょうね」
シュイは、小馬鹿にしたように笑う。同胞にもそういう性分の者がいるが、頭が固いとしか思えなかった。主に父や兄のことだが。
すると、ポロノシューの目がスッと険しくなる。
「俺は、イェルフの得体の知れない薬など、信用できないと言っているんだ」
「なっ……!」
耳を疑った。
まさかの言葉だった。
「なに、それ……」
信じられなかった。
どんなに憎まれ口を叩いても、彼だけは他の人間と違い、イェルフ族のことを理解してくれていると思っていた。
でなければ、怪我をした彼女を助けてくれるはずがない。
それなのに。
それなのに。
「結局、あんたも他の人間と変わらないのね」
勝手な思い込みだった。
期待してしまった。
人間なんかに。
急に押し黙ったシュイを怪訝に思ったのか、ポロノシューは眉をひそめ、無防備に近寄っていった。
その瞬間、シュイが腰の短剣を引き抜き、目の前で一閃した。
「な……」
さすがのポロノシューも、その場で硬直した。
「近付かないで」
短剣を突きつけたまま、シュイはポロノシューの顔を睨みつけた。
彼が、息を呑むのが判る。さすが医者というだけあって、怯えたり取り乱したりする様子はないが。
「何のつもりだ」
「うるさいっ!」
短剣は軽いはずなのに、シュイの腕は震えてきた。誰かに刃を向けるということが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
このまま腕を前に突きだせば、目の前の男は簡単に死ぬのだ。
冷たい汗が頬を伝う。
掌にじわりと滲んだ汗が、思考を鈍らせる。
「おい……」
「もういいわよ! こんなとこ二度と来ないから!」
シュイはきびすを返すと、ポロノシューの家を飛びだした。
「待て、話を……」
ポロノシューが何か叫んでいたようだが、耳を貸す気にもなれなかった。とにかく今は、一刻も早くこの場から消え去りたかった。
「人間の命なんて、どうってことないのに……」
仲間に知られたら、それこそ笑い者だ。
父の知るところとなれば、叱られるだけでは済まないかもしれない。たかが人間相手に、尻尾を巻いて逃げだしたなんて。
「違う、逃げてなんかない……」
だけど。
「できない」
いや、むしろ、
「やっちゃいけない」
そう思ってしまったのだ。
シュイは走った。
不意に彼女の前に、小さな人影が現れた。
「うわっ!」
危うくぶつかりそうになって、シュイは慌てて跳びよけた。
「ちょっと、あぶないじゃな……」
そこにいたのは、ヤナンだった。
村を出ていくつもりが、我を忘れて走っていたせいか、キローネ母子の家の前まで来ていたようだ。
ヤナンは小さな目を皿のように開いて、突然現れたシュイの姿を見つめている。
ばつが悪くなって、目を逸らした。
「な…なにやってんのよ。こんな時間に」
「みず……」
ヤナンは、おどおどしながら答えた。
少年は小さな甕を抱えている。近くの井戸から汲み上げたばかりのようだ。
「あんたが運んでんの?」
「うん」
この少年の貧相な腕では、家にある大甕を水で満たすまでに、かなりの時間と労力を要するだろう。
「お母さんは、まだ具合が悪いの?」
ヤナンは頷く。食い入るように、シュイの顔を見上げている。
「やっぱり、あいつの薬なんかじゃ無理なのよ……そうだ。ねえ、ヤナン。ちょっと、家に寄ってっていい?」
ヤナンは困惑したが、小さく頷いた。
もう初対面のときのように、警戒している素振りはない。もしかしたら、ただの人見知りだったのかもしれない。
キローネはベッドで横になっていたが、急な客を笑顔で迎えてくれた。やはり熱があるのか、顔が少し火照っていた。
「こんな時間に悪いわね」
「気にしないで、シュイ。ポロノシューのお遣いかしら?」
忘れようとしていた男の名を出されて、シュイは力いっぱい否定した。
「知らないわよ、あんな男」
「そう」
キローネは優しい笑みを浮かべる。見透かされているようで落ち着かない。
「一応、あたしの里の薬を持ってきたんだけど」
「薬?」
「あ…余ってたからさ。とってもよく効くから、よかったら飲んでみてよ」
「嬉しい。ありがとう」
どこかの頭でっかちな医者と違い、キローネはシュイの差しだした粉薬を、ためらいなく服用した。
「怖くないの?」
あまりにあっさり飲んだので、シュイは拍子抜けしてしまい、思わず訊いてしまった。
「何が?」
「なにって、その……あたしたちの薬なのよ?」
「でも、シュイたちが、いつも飲んでる物なんでしょ」
「そうだけど……」
曇りのない笑顔で切り返されては、何も言えない。
「それに私、イェルフと話すの、初めてじゃないから」
「へえ」
だから初めて会ったときも、そんなに驚いた様子は見せなかったのだ。
「ねえシュイ。あなた、人間のこと嫌い?」
穏やかな声で、いきなり予想外の質問をされて、シュイは動揺した。
「あ…当たり前でしょ!」
「そう……」
「変なこと訊かないでよ」
「……確かに人間は、あなたたちにひどいことをしてるわ。だから恨む気持ちも判る」
「判ってくれて嬉しいわ」
「でも、ちゃんと話しあって、理解しあえば、何かが変わると思うの」
「……なに言ってんの?」
「どちらかが死ぬまで戦うなんて、ばかげてるわ」
「ちょっと待って。人間が一方的に襲ってきてるのよ」
「ええ、もちろん判ってる。だからまず、私たちが武器を収めなくちゃいけないわ。そしたら、ちゃんと話を聞いてくれる?」
「聞いてくれるって言われても……」
「お互いが冷静になれば、きっといい考えが浮かぶわ」
「そりゃそうかもしれないけどさ……」
「なんて、これ、ポロノシューの受け売りなんだけど」
「ポロノシューの?」
あの無愛想な男が、そんなことを考えていたとは。
「だったら、さっきの態度はなんなのよ」
こちらの厚意を、頭から拒絶したくせに。
言っていることが矛盾しているではないか。
再び怒りが込み上げてきた。
「彼と何かあったの?」
「別に」
ふて腐れたような言い方がおかしかったのか、キローネがくすりと笑みを浮かべた。
「なにがおかしいのよ」
シュイは不機嫌な声で言い返した。
「ポロノシューのこと、判ってあげて」
本当に、二人の間の出来事を知っているような口振りだ。
それとも、顔に出ていたのだろうか。
キローネと話していると、どうにもペースを乱される。
「でも」
シュイは胸のなかで深い溜め息を吐く。
「一番あいつの気持ちを判ってないのは、ひょっとしたらキローネなんじゃないかしら」
目の前で無邪気に笑う女を、複雑な心持ちでシュイは見つめた。
息を切らして駆けつけたシュイに対して、ポロノシューは冷たく言い放った。
「なによそれ!」
そこから口喧嘩が勃発した。
「あんたね……誰のために、苦労して持ってきてやったと思ってんのよ!」
「俺は頼んだ覚えはない」
「その言い方!」
「頼んだ覚えはありません、とでも言えばいいのか?」
「ばかにしてんの!?」
日は暮れかけ、村は夜の冷気に包まれつつある。
ただし、二人の戦いは、砂漠の太陽よりも熱かった。
「先生の薬は、すっごくよく効くのよ。これ飲んだら、キローネだってすぐに良くなるわ」
「必要ない」
「なによ、その態度! わざわざ持ってきてあげたのに!」
シュイは唇を噛みしめた。
努力が、全て水泡に帰したような気分だった。
「……なんであたし、こんなことしたんだろう」
今頃になって後悔の念がよぎる。
険しい山を、病み上がりの足も顧みず、何かに憑かれたように駆け下りてきたのに。
「ばかみたい」
悔しくて薬を投げつけてやりたくなったが、さすがにそれは里の医者に申し訳ない。
そもそも、この男に窺いを立てる必要などないではないか。
「もういいわ。直接キローネに渡すから」
「待て」
診療所を出ていこうとすると、ポロノシューが少し焦り気味に制止してきた。
「彼女に、そんなものを飲ませるな」
言葉の意味を理解できず、シュイは目をしばたたかせた。
「なんであんたが、そんなことを決めるの?」
「俺が医者だからだ」
「医者なら、なんで薬を飲ませるのに反対するのよ」
「薬なら何でもいい、という訳じゃない」
「あのねえ……何度も言うけど、ただの熱冷ましなの。みんな飲んでるの」
だがそれでも、ポロノシューは首を縦に振らなかった。
「ひょっとして……他人の力は借りたくない、とか思ってんじゃないでしょうね」
シュイは、小馬鹿にしたように笑う。同胞にもそういう性分の者がいるが、頭が固いとしか思えなかった。主に父や兄のことだが。
すると、ポロノシューの目がスッと険しくなる。
「俺は、イェルフの得体の知れない薬など、信用できないと言っているんだ」
「なっ……!」
耳を疑った。
まさかの言葉だった。
「なに、それ……」
信じられなかった。
どんなに憎まれ口を叩いても、彼だけは他の人間と違い、イェルフ族のことを理解してくれていると思っていた。
でなければ、怪我をした彼女を助けてくれるはずがない。
それなのに。
それなのに。
「結局、あんたも他の人間と変わらないのね」
勝手な思い込みだった。
期待してしまった。
人間なんかに。
急に押し黙ったシュイを怪訝に思ったのか、ポロノシューは眉をひそめ、無防備に近寄っていった。
その瞬間、シュイが腰の短剣を引き抜き、目の前で一閃した。
「な……」
さすがのポロノシューも、その場で硬直した。
「近付かないで」
短剣を突きつけたまま、シュイはポロノシューの顔を睨みつけた。
彼が、息を呑むのが判る。さすが医者というだけあって、怯えたり取り乱したりする様子はないが。
「何のつもりだ」
「うるさいっ!」
短剣は軽いはずなのに、シュイの腕は震えてきた。誰かに刃を向けるということが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
このまま腕を前に突きだせば、目の前の男は簡単に死ぬのだ。
冷たい汗が頬を伝う。
掌にじわりと滲んだ汗が、思考を鈍らせる。
「おい……」
「もういいわよ! こんなとこ二度と来ないから!」
シュイはきびすを返すと、ポロノシューの家を飛びだした。
「待て、話を……」
ポロノシューが何か叫んでいたようだが、耳を貸す気にもなれなかった。とにかく今は、一刻も早くこの場から消え去りたかった。
「人間の命なんて、どうってことないのに……」
仲間に知られたら、それこそ笑い者だ。
父の知るところとなれば、叱られるだけでは済まないかもしれない。たかが人間相手に、尻尾を巻いて逃げだしたなんて。
「違う、逃げてなんかない……」
だけど。
「できない」
いや、むしろ、
「やっちゃいけない」
そう思ってしまったのだ。
シュイは走った。
不意に彼女の前に、小さな人影が現れた。
「うわっ!」
危うくぶつかりそうになって、シュイは慌てて跳びよけた。
「ちょっと、あぶないじゃな……」
そこにいたのは、ヤナンだった。
村を出ていくつもりが、我を忘れて走っていたせいか、キローネ母子の家の前まで来ていたようだ。
ヤナンは小さな目を皿のように開いて、突然現れたシュイの姿を見つめている。
ばつが悪くなって、目を逸らした。
「な…なにやってんのよ。こんな時間に」
「みず……」
ヤナンは、おどおどしながら答えた。
少年は小さな甕を抱えている。近くの井戸から汲み上げたばかりのようだ。
「あんたが運んでんの?」
「うん」
この少年の貧相な腕では、家にある大甕を水で満たすまでに、かなりの時間と労力を要するだろう。
「お母さんは、まだ具合が悪いの?」
ヤナンは頷く。食い入るように、シュイの顔を見上げている。
「やっぱり、あいつの薬なんかじゃ無理なのよ……そうだ。ねえ、ヤナン。ちょっと、家に寄ってっていい?」
ヤナンは困惑したが、小さく頷いた。
もう初対面のときのように、警戒している素振りはない。もしかしたら、ただの人見知りだったのかもしれない。
キローネはベッドで横になっていたが、急な客を笑顔で迎えてくれた。やはり熱があるのか、顔が少し火照っていた。
「こんな時間に悪いわね」
「気にしないで、シュイ。ポロノシューのお遣いかしら?」
忘れようとしていた男の名を出されて、シュイは力いっぱい否定した。
「知らないわよ、あんな男」
「そう」
キローネは優しい笑みを浮かべる。見透かされているようで落ち着かない。
「一応、あたしの里の薬を持ってきたんだけど」
「薬?」
「あ…余ってたからさ。とってもよく効くから、よかったら飲んでみてよ」
「嬉しい。ありがとう」
どこかの頭でっかちな医者と違い、キローネはシュイの差しだした粉薬を、ためらいなく服用した。
「怖くないの?」
あまりにあっさり飲んだので、シュイは拍子抜けしてしまい、思わず訊いてしまった。
「何が?」
「なにって、その……あたしたちの薬なのよ?」
「でも、シュイたちが、いつも飲んでる物なんでしょ」
「そうだけど……」
曇りのない笑顔で切り返されては、何も言えない。
「それに私、イェルフと話すの、初めてじゃないから」
「へえ」
だから初めて会ったときも、そんなに驚いた様子は見せなかったのだ。
「ねえシュイ。あなた、人間のこと嫌い?」
穏やかな声で、いきなり予想外の質問をされて、シュイは動揺した。
「あ…当たり前でしょ!」
「そう……」
「変なこと訊かないでよ」
「……確かに人間は、あなたたちにひどいことをしてるわ。だから恨む気持ちも判る」
「判ってくれて嬉しいわ」
「でも、ちゃんと話しあって、理解しあえば、何かが変わると思うの」
「……なに言ってんの?」
「どちらかが死ぬまで戦うなんて、ばかげてるわ」
「ちょっと待って。人間が一方的に襲ってきてるのよ」
「ええ、もちろん判ってる。だからまず、私たちが武器を収めなくちゃいけないわ。そしたら、ちゃんと話を聞いてくれる?」
「聞いてくれるって言われても……」
「お互いが冷静になれば、きっといい考えが浮かぶわ」
「そりゃそうかもしれないけどさ……」
「なんて、これ、ポロノシューの受け売りなんだけど」
「ポロノシューの?」
あの無愛想な男が、そんなことを考えていたとは。
「だったら、さっきの態度はなんなのよ」
こちらの厚意を、頭から拒絶したくせに。
言っていることが矛盾しているではないか。
再び怒りが込み上げてきた。
「彼と何かあったの?」
「別に」
ふて腐れたような言い方がおかしかったのか、キローネがくすりと笑みを浮かべた。
「なにがおかしいのよ」
シュイは不機嫌な声で言い返した。
「ポロノシューのこと、判ってあげて」
本当に、二人の間の出来事を知っているような口振りだ。
それとも、顔に出ていたのだろうか。
キローネと話していると、どうにもペースを乱される。
「でも」
シュイは胸のなかで深い溜め息を吐く。
「一番あいつの気持ちを判ってないのは、ひょっとしたらキローネなんじゃないかしら」
目の前で無邪気に笑う女を、複雑な心持ちでシュイは見つめた。
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