黒豹陛下の溺愛生活

月城雪華

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一章

酒場での出会い 2

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 薄ぼんやりとした酒場の光で見る瞳は柔らかく細められ、長い黒髪はどこか妖しくて艶やかだ。

 ベッドの上では分からなかったが、レオはアレンよりも頭一つ分以上の身長があった。

 足元は歩きやすいようにか下駄を履いており、その分を引いても優に二十センチ以上の差がある。

 スラムではアレンと同じ目線か少し下、相手の方が高くても顔の半分ほどしか身長が変わらなかったが、こうして見上げる形になるのは新鮮だ。

「大丈夫、です。あの、ベッド……ありがとう、ございます」

 改めて見つめると緊張してしまい、つい敬語になってしまう。

 そんなアレンにレオは小さく喉で笑い、わしわしと頭を撫でてきた。

「わ、わっ!?」

 耳ごと髪を混ぜるように撫でられるのは慣れておらず、しかしその手つきがいやに優しくて知らず尻尾が揺れる。

「そんな他人行儀は止めてくれ。さっきみたいに気安い方が助かる」

 口調に反して声音は穏やかで、不思議とその言葉に従うようにアレンは頷いていた。

「いい子だな」

 にこ、と柔らかく目を細めたレオは頭から手を離すと、凛晟に声を掛けた。

「何が原因か知らんが、俺が戻ってきた時には喧嘩してたからまとめて全員帰らせたんだが……どうする、飲み直すか?」

 レオは雑に積まれていた椅子とテーブルを元の位置に戻しながら言った。

 よくよく周囲を見ると酒場の主も姿が見えず、この場には自分の他にレオと凛晟しかいない。

「あー、今日はいいや。それよりも、さ」

「っ!」

 どこか間延びした凛晟の声が聞こえたかと思えば、ぐいと肩を組まれ、アレンは小さく息を詰めた。

「アレンにここら辺の案内してやってくれよ。得意だろ、そういうの」

「お前なぁ……」

 凛晟が屈託のない顔で笑うと、レオは呆れを隠そうともしない溜め息を吐く。

 心做しか少し耳が垂れ下がり、尻尾がかすかに揺れている。

「はぁ、まぁいい」

 やがて諦めたのかレオはアレンに向き直り、目線を合わせてきた。

 間近で見る瞳は寂しい時に何度も見上げた夜空と同じ、少し青みのかった黒い瞳をしていた。

「……アレン」

「は、はい!」

 ゆっくりと紡がれた自身の名に、アレンは図らずも大きな声を出す。

 じっと見つめていたため不審がられたのかと思ったが、レオはなんら気にしたふうもなく小さく笑った。

「寝る場所はあるか?」

「……いや、何も」

 そもそも大雨の中やっとの思いでこの酒場を見つけ、この後の事など何も考えていない。

「じゃあこのままここで寝たらどうだ。あの馬鹿には俺から話しておくし、お前も集まりやすいだろ」

(馬鹿……)

 店主のことかと気付いたのはこの場に姿が見えないからで、客同士の喧嘩を仲裁するために外に出たのだろうと推察する。

 どちらにしろ今は三人きりで、散乱した椅子やテーブルを元に戻すのが先だろう。

「そう、だな。……えっと、じゃあ」

「はいはーい、オレ腹減った!」

 そうしようかな、と続けようとしたアレンの声に被せるように凛晟が元気よく手を上げ、それと同じほど元気な声で言った。

「……で、俺にどうしろって?」

 またお前か、という表情を隠そうともせずレオはふらふらとカウンターに両手を突き、凛晟を睨み付けた。

「いや、だって腹減ったんだよ。アレンが起きるの待ってたし、なんなら酒しか飲んでないしさ」

 凛晟はゆらりと尻尾を揺らし、不満そうに唇を尖らせる。

 するとタイミングを狙ったかのように、くるると小さな音が鳴った。

「な?」

 にか、と凛晟が歯を見せて笑う。

(そこは照れたりするんじゃないのか……?)

「もうちょっと可愛げくらい持てよ、お前は」

 アレンの本心を読んだような言葉をレオが言い、がしがしと頭を搔く。

「何か作ってるもんがあれば、勝手に食べてもいいんじゃないか。それくらいセオも許す……と思うが」

 後は知らん、とぶっきらぼうに付け加える。

 セオというのが酒場の主の名前らしく、アレンは薄れゆく意識の中見た獣人の姿を思い出す。

 大きな白い耳はもちろんのこと髪にも艶があり、この店には似つかわしくないと思った。

 予想でしかないが、喧嘩をしていた店の者らをまとめているようにも見受けられ、改めてベッドを貸してくれた礼を言わなければならない。

「え、やだよ。あの人、キレたら怖いし」

「へ」

 不意に聞こえた凛晟の言葉に、ぴくりと頬が引き攣る。

 そんなアレンに気付いたらしく、凛晟が内緒話をするようにこちらに顔を近付け、こそこそと言った。

「アレンもここで寝るなら気を付けた方がいいぞ。セオドアさんって沸点おかしいから、一回プツンってなったら手が付けられない……」

「──誰が頭おかしいクソ野郎だって?」

「っ……!」

 すると地を這うような低い声が聞こえ、ぞわりと全身が震える。

 アレンが声がした方を見ると、長身の獣人が店の扉に背中を預けていた。

 手本のような笑みを浮かべて腕を組むさまは美しく、しかし雨に降られたのか全身が濡れており、長い前髪から水滴が落ちていくのが見える。

「やだな、セオドアさん! 誰もそんなこと言ってないって!」

 凛晟は獣人──セオドアの姿を認めると、にこにこと笑みを浮かべて口早に言った。

「そうかぁ? 俺の耳にゃ、しっっっかり『おかしい』って言うお前の声が聞こえたんだけどなぁ?」

 それこそおかしいな、とセオドアが続ける。

 耳が大きいためか感情が分かりやすく、尻尾は楽しそうに揺れていた。

 今にも飛び掛りそうな気配にアレンが後退あとずさろうとしていると、セオドアの瞳がこちらに向いた。

「……って、俺の目の前で倒れた坊やじゃねぇか。大丈夫か?」

 セオドアはそれまでのなりをひそめ、柔らかな声で声を掛けてくる。

 幼い者と接しているような態度は少し恥ずかしかったが、アレンはこくりと頷いた。

「そっか。よかった」

 ふっとセオドアが笑うと、扉の側にあったタオルを手に取った。

「悪いな、そこの──黒猫に言われるまで何もできなくて。ここに来る奴は喧嘩早いか酒飲みが多いから、気付くのが遅れた」

「誰が黒猫だ」

 ちらりとレオの方に視線を寄越してセオドアが言うと、それを聞いたレオが見る間に顔をしかめる。

 どうやらアレンが倒れた時の事を気にしてくれているようで、濡れた髪を拭きながらセオドアが小声で続ける。

「腹減ったろ? 何か食いたいもんがあったら言ってくれ、せめてものつぐないだ」

 セオドアはカウンターに戻り、にこりと笑った。

 真正面、それも近くで見るセオドアの瞳はぼんやりとした灯りの中でもきらきらと輝いている。

 瞬く度に見える金色の瞳は宝石のようで、知らず見惚れてしまうほどだ。

(何か、食べたいもの……)

 アレンは今一度セオドアの言葉を心の中で呟く。

 せっかく言ってくれた厚意を無碍むげにもできず、何か言わなければと素早く頭を働かせた。

「……パン」

「パン?」

 ぽつりと囁くように言った言葉に、セオドアだけでなく隣りの席に座った凛晟も首を傾げる。

「パン、食べたい」

 スラムの仲間やアンナと共に、分け合ったパン。

 一人でここまでの道中を歩いてからずっと食べておらず、それ以前に水しか口にしていない。

 一度『食べたい』と思ってしまった手前、もうそれしか考えられなかった。

「パンでいいのか? 焼くだけだしすぐ出来るけど……他にもあれば遠慮なく言ってくれてもいいんだぞ?」

 気を遣われたと思ったのか、セオドアが慌てて言い募る。

「え、いや……駄目だった、か?」

(金も持ってないのにそんな……悪い)

 むしろパン以外も食べさせてくれるとあっては罰が当たるのではないか、という気がしてならなかった。

「っ!」

 不意にセオドアはアレンの頭に手を置き、そっと撫でてくる。

「子供が遠慮すんな。そんな細っこい身体じゃ、でかくなれないだろ」

 優しく、ともすれば慈愛に満ちた声音に知らず視界が歪む。

 思い返せば誰かの温もりに触れるのは久しぶりで、凛晟やレオに加えてセオドアの優しさを貰ってしまっては限界も近い。

「ちょっと待ってな」

 セオドアはもう一度アレンの頭を撫でると、ゆっくりと手が離れていく。

 白い耳や肩ほどまである髪も相俟ってか、その姿はアンナによく似ていた。

(母さん……)

 会いたい、と思った。

 もう笑顔を見る事も声を聞く事もできないが、無性にそう思ってしまう。

「よし、セオも戻ってきたことだし……帰るか」

 それまで黙っていたレオが口を開くと凛晟、と小さく名を呼んだ。

「腹減ってるんだろ、行くぞ」

「奢ってくれるのか!?」

 レオが何を言うでもなく、見る見るうちに目を輝かせた凛晟は椅子から立ち上がり、レオの元に駆け寄っていく。

 ぶんぶんと感情に任せて尻尾が左右に揺れており、ともすればちぎれそうな勢いだ。

「安いとこならな。前みたいに馬鹿高いもん奢らされるのはごめんだ」

 はぁ、と短く息を吐きレオが苦笑する。

 その表情は呆れもあったが、二人が気安い間柄に見えて不思議と目で追ってしまう。

「やりぃ! ありがとう、レオ!」

 凛晟はその場で小さく飛び跳ねると、レオに半ば抱き着くように腕を絡めた。

(仲良いんだな)

 こうして軽口を叩く相手が居るのは羨ましく、そして寂しく思う。

 まるで自分だけが除け者にされている気がしたが、初対面の獣人とすぐに同じくらい仲良くするのは難しいだろう。

「じゃあな、アレン。また明日!」

 ふと声が聞こえ、そちらに視線を向けると凛晟が手を振っていた。

「あ、うん……また、明日」

 小さな声で同じ言葉を返すと、凛晟は微笑んで先に店を出たらしいレオの後を追っていく。

 きぃ、と扉が閉まる音が響くと同時に、ふんわりと香ばしい匂いと食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐった。

「出来たぞ──って二人とも帰ったのか」

 パンだけでなく、カウンターの奥で何かを作っていたらしいセオドアがカウンターにそっと皿を置いた。

「わぁ……!」

 アレンは小さく感嘆の声を上げる。

 パンは温かな湯気を立てており、人参やじゃがいもをはじめとした具沢山のスープ、そして透明なグラスに注がれた赤い色の飲み物があった。

 なんだろう、とグラスを持って眺めているとセオドアが苦笑して付け加える。

「うちで出してる酒なんだけど──悪い、水の方がよかったか?」

「酒……って?」

「あ、飲んだことなかったか。じゃあ今日はこっちな」

 言いながらグラスを取り上げ、代わりに新しいグラスに注がれた水を置かれる。

(どういう酒なのか聞いただけなんだけど)

 こちらが何か言おうとするといつもこれだ。

 己の言葉足らずが原因だというのは理解しており、しかしどうしても思ったことが口からすべて出てくれない。

(直さないと)

 アンナをしいした犯人を見つけた時、滑らかに言いたい事が言えるように。

「──早く食わねぇと冷めちまうぞ」

「あ」

 ふと聞こえた声に顔を上げると、先程取り上げた酒を飲みながらセオドアが続けた。

「ここに来るまで寒かったろ? 倒れた時も震えてたし、まずは身体をあっためてもらおうと思ったんだが」

 いらなかったか、と少し目をすがめられる。

 パンにすら手を付けずじっと見つめているためいらないと思われたらしく、アレンは慌ててスプーンを手に取った。

「いただき、ます」

 スープを掬い、ふぅふぅと息を吹き掛ける。

 湯気を立てるそれをそっと口に含むと、じんわりとした温かさと野菜の甘み、そして少しの塩気が口いっぱいに広がった。

「ん……!」

 じわりと目を見開き、知らず尻尾が揺れる。

 これほど美味いものを食べた事がなくて、それ以前に何日もまともに食べていなかったため、アレンは夢中でかき込んだ。

 パンもふわふわで、焼きたてのためか温かい。

 一口食べるごとにバターの味が染み出てきて、いくらでも食べられそうだった。

「……よかった、気に入ってくれたみたいで」

 アレンの様子に、セオドアが小さく喉を鳴らして笑う。

「まだ何か食べたかったら言えよー?」

 時折こちらに話し掛けてくる優しい声を聞きながら、アレンは満足するまで口と手を動かす。

 これほど幸せでいいのか、という罪悪感もあったが今はただ空腹を満たすことだけを考えた。
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