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嘉永六年(1853)、春
この先に願う事 壱
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ゆらゆら、ゆらゆらと足元が覚束無い感覚があった。
(此処、は……?)
凛はそっと瞳を開け、周囲に視線を巡らせる。
薄暗い中には見覚えのある調度品や、聞き覚えのある声音がひっきりなしに響いていた。
「だーかーらー、この勘定が違うって言ってるでしょう!?」
「すみません、神宮寺さん!」
「はぁ……私は一応監察方なんですけれど。どうして鑑定方の皆々様の、更に鑑定をしなければいけないんですか」
呆れた声と共に、ぱしんと勘定帳を机に叩き付けているのは自分だ。
言葉の節々からして、新選組が発足して間もない頃のやり取りだろうか。
「いやぁ、気を付けてはいるんですよ。けど、色々と出費……」
頭を掻きつつ、申し訳なさそうに言う男の顔は見えない。
その声音は聞き覚えのあるものだが、どうしてか男の顔には白い靄がかかったままだった。
「言い訳はしないで手を動かす」
男の言葉に被せるように、身なりからして十六、七ほどの凛がぎろりと睨め付ける。
「はい……」
男の恐縮しきった声を聞いた事で、それまで黙って傍観していた凛の頭へ僅かな疑問が生じた。
(この時の私はこんなに恐れられていなかった、はずだけれど)
浪士組として上洛すると願い出た男達は、当初二つの派閥に分かれていた。
片や芹沢鴨、片や近藤──この数年前に勝太は改名したが──勇、といった二つの勢力だ。
そこから数多ある事件を跳ね除け、ようやく凛の知る新選組として発足していく、その内のどこかの出来事だろう。
その頃になると凛は『鬼姫』と揶揄され、民や新選組隊士らから恐れられていた。
ただ、先程の光景は凛の知る出来事よりも過大評価され過ぎているように思う。
(やっぱり私がこの数日見てきた事は全て夢で、もう蝦夷へ戻ろうとしている?)
自身の記憶と僅かに食い違う人間達の模様も、何故自分が過去へ居るのかも、夢だと片付けてしまえば説明がつく。
いや、そうであって欲しかった。
忘れてしまいたいほど凄惨な事を、一度ならず二度も繰り返す事など真っ平なのだ。
(……そうなら、どんなにいいんだろう)
しかし、凛は既に分かっている。
今自分が見たものこそが夢であり、それは確定していない未来の出来事なのだと。
自分の言動一つで簡単に未来が変わる。
勘定方の男達の顔付きが、はっきりと認識出来ていないという事。何より、自分はあれほど口調が乱れていない。
すべからく全ての出来事が凛の記憶にあるとは言えないが、先程の光景はあまりにも現実味がなさ過ぎるのだ。
「鑑定方となると河合さん……?」
金の全てを取り纏めていた男の名を、そっと唇に乗せる。
河合と会話をしたのは数える程度だった為、あまり凛の記憶にはない。
しかし、それ以上の疑問がところどころに残るのも確かだった。
(でも、予想が断定したと言い難いのは事実である訳で)
凛は一度深く呼吸をし、瞼を閉じる。
(私の言葉や行動で未来が変わるのなら、思う存分抗えというもの)
段々と意識が暗く澱んだ闇へと沈んでいく感覚は、これで二度目になる。
「──何であれ、やってみない事には変わらない」
身体から完全に力が抜ける間際、凛は覚悟とも言える言葉をひっそりと呟いた。
◆ ◆ ◆
「……ん」
薄らと瞼を開けると、どこかの天井がぼんやり広がった。
凛が視界を定める為に数度瞬きをしていると、慌てた声が左側から響く。
「凛、良かった……! 気が付いたか!」
のろのろと声がした方に視線を向けると、そこには蒼馬が居た。
「あに、うえ」
凛はぽそりと口の中で呟く。
その声は自分でも驚くほど掠れていた。
(私は……)
段々とはっきりしていく思考の中、凛は土方の顔を見たその瞬間、意識が途切れてしまった事を思い出した。
蒼馬の傍には盥や手拭いがあった。
薄い敷布に寝かせられ、布団を掛けられていることから、あれから介抱されていたのだと気付く。
「いきなり若先生に抱えられて来たから吃驚した。──おい、寝てろ」
のそりと起き上がろうとしたが、それに目敏く気付いた蒼馬に止められた。
凛は仕方なくもう一度横になり、ころりと身体ごと蒼馬の方に向ける。
「あの、兄上」
切羽詰まった蒼馬の様子は勿論気になるが、どれほど意識が無くなっていたのか聞きたかった。
(ここはきっと試衛館で……あの時、私は沖田さんに支えられて)
意識が黒く塗り潰される手前、総司に背を抱え込まれた所までは記憶にある。
そして、誰にともなく何かを呟いた気がする。
その時の総司の表情は分からないが、良くないことを言ってしまったのは確かだろう。
(沖田さんと近藤さんに謝らないと)
唐突に凛が倒れた為、あの場に集った男達が慌てたという事は想像に難くなかった。
若先生と呼ばれ、皆から慕われる者は一人しかいない。
その人物が誰なのか、試衛館に通う者ならば容易に見当がつく。
出来るならば今すぐにでも此処から出て、総司や勝太に謝りたかった。
しかし、僅かに覗く障子戸から既に太陽は身を隠し、月に姿を変えようとしていた。
(でも)
総司は夜が更けるまで稽古場に居る事があるが、勝太に至っては分からなかった。
(明日、またご挨拶出来ればいいけれど)
次期四代目宗家にと噂されている勝太は、常から稽古場に居たり時折街へ出たりしているらしい。
らしい、というのは凛に訊ねられた男も真偽は分からないということだ。
しかし、今ならば分かる。
勝太は街ではなく、土方に会いに出掛けているのだ。
朝から昼までは門人達と稽古をし、その後ふらりと何処かへ行く。
いなくなったかと思えば、いつの間にか居る──勝太は凛の知る限り、そういう男だった。
「ちょっと待て、土方さんを呼んでくる」
「土方、さん?」
何故土方の名が出るのだろう。
そんな思いで蒼馬を見つめると、立ち上がり掛けていた腰を再び凛の枕元へ落ち着けた。
その場に薬売りとして生計を立てている土方が居る事は、幸運と言っても良かった事。
町医者を呼ぶにしても時間が掛かり、このままでは生命の危機もあった事。
「──土方さんが居て助かったよ。俺ですら医学の心得はないから、本当に目覚めてくれて良かった」
にこりと淡くはにかんだ蒼馬に、段々と申し訳ない気持ちになる。
「そう、ですか。……すみません」
凛は布団を口元まで持ち上げ、小さく謝罪する。
他ならない蒼馬に心配を掛け、あまつさえ看病までさせた。
その間、稽古に身が入らなかった事は確かだろう。
「謝らなくていい。それよりも体調は大丈夫か? 気分は悪くないか?」
凛を安心させるように、蒼馬はぽんぽんと頭を撫でる。
温かい手と気遣ってくれる言葉が嬉しくて、涙腺が僅かに緩んだ。
「……はい、今はなんとも」
「そうか」
ふ、と蒼馬が小さく笑った。
これから先、後どれほど見られるか分からない笑みを焼き付けるように、凛はじっと蒼馬の顔を見つめる。
「あの、兄上」
優しげな黒曜石の瞳に吸い込まれるように、気付けば凛は蒼馬を呼んでいた。
「ん?」
凛に呼ばれたことで、蒼馬は小さく首を傾げた。
(此処、は……?)
凛はそっと瞳を開け、周囲に視線を巡らせる。
薄暗い中には見覚えのある調度品や、聞き覚えのある声音がひっきりなしに響いていた。
「だーかーらー、この勘定が違うって言ってるでしょう!?」
「すみません、神宮寺さん!」
「はぁ……私は一応監察方なんですけれど。どうして鑑定方の皆々様の、更に鑑定をしなければいけないんですか」
呆れた声と共に、ぱしんと勘定帳を机に叩き付けているのは自分だ。
言葉の節々からして、新選組が発足して間もない頃のやり取りだろうか。
「いやぁ、気を付けてはいるんですよ。けど、色々と出費……」
頭を掻きつつ、申し訳なさそうに言う男の顔は見えない。
その声音は聞き覚えのあるものだが、どうしてか男の顔には白い靄がかかったままだった。
「言い訳はしないで手を動かす」
男の言葉に被せるように、身なりからして十六、七ほどの凛がぎろりと睨め付ける。
「はい……」
男の恐縮しきった声を聞いた事で、それまで黙って傍観していた凛の頭へ僅かな疑問が生じた。
(この時の私はこんなに恐れられていなかった、はずだけれど)
浪士組として上洛すると願い出た男達は、当初二つの派閥に分かれていた。
片や芹沢鴨、片や近藤──この数年前に勝太は改名したが──勇、といった二つの勢力だ。
そこから数多ある事件を跳ね除け、ようやく凛の知る新選組として発足していく、その内のどこかの出来事だろう。
その頃になると凛は『鬼姫』と揶揄され、民や新選組隊士らから恐れられていた。
ただ、先程の光景は凛の知る出来事よりも過大評価され過ぎているように思う。
(やっぱり私がこの数日見てきた事は全て夢で、もう蝦夷へ戻ろうとしている?)
自身の記憶と僅かに食い違う人間達の模様も、何故自分が過去へ居るのかも、夢だと片付けてしまえば説明がつく。
いや、そうであって欲しかった。
忘れてしまいたいほど凄惨な事を、一度ならず二度も繰り返す事など真っ平なのだ。
(……そうなら、どんなにいいんだろう)
しかし、凛は既に分かっている。
今自分が見たものこそが夢であり、それは確定していない未来の出来事なのだと。
自分の言動一つで簡単に未来が変わる。
勘定方の男達の顔付きが、はっきりと認識出来ていないという事。何より、自分はあれほど口調が乱れていない。
すべからく全ての出来事が凛の記憶にあるとは言えないが、先程の光景はあまりにも現実味がなさ過ぎるのだ。
「鑑定方となると河合さん……?」
金の全てを取り纏めていた男の名を、そっと唇に乗せる。
河合と会話をしたのは数える程度だった為、あまり凛の記憶にはない。
しかし、それ以上の疑問がところどころに残るのも確かだった。
(でも、予想が断定したと言い難いのは事実である訳で)
凛は一度深く呼吸をし、瞼を閉じる。
(私の言葉や行動で未来が変わるのなら、思う存分抗えというもの)
段々と意識が暗く澱んだ闇へと沈んでいく感覚は、これで二度目になる。
「──何であれ、やってみない事には変わらない」
身体から完全に力が抜ける間際、凛は覚悟とも言える言葉をひっそりと呟いた。
◆ ◆ ◆
「……ん」
薄らと瞼を開けると、どこかの天井がぼんやり広がった。
凛が視界を定める為に数度瞬きをしていると、慌てた声が左側から響く。
「凛、良かった……! 気が付いたか!」
のろのろと声がした方に視線を向けると、そこには蒼馬が居た。
「あに、うえ」
凛はぽそりと口の中で呟く。
その声は自分でも驚くほど掠れていた。
(私は……)
段々とはっきりしていく思考の中、凛は土方の顔を見たその瞬間、意識が途切れてしまった事を思い出した。
蒼馬の傍には盥や手拭いがあった。
薄い敷布に寝かせられ、布団を掛けられていることから、あれから介抱されていたのだと気付く。
「いきなり若先生に抱えられて来たから吃驚した。──おい、寝てろ」
のそりと起き上がろうとしたが、それに目敏く気付いた蒼馬に止められた。
凛は仕方なくもう一度横になり、ころりと身体ごと蒼馬の方に向ける。
「あの、兄上」
切羽詰まった蒼馬の様子は勿論気になるが、どれほど意識が無くなっていたのか聞きたかった。
(ここはきっと試衛館で……あの時、私は沖田さんに支えられて)
意識が黒く塗り潰される手前、総司に背を抱え込まれた所までは記憶にある。
そして、誰にともなく何かを呟いた気がする。
その時の総司の表情は分からないが、良くないことを言ってしまったのは確かだろう。
(沖田さんと近藤さんに謝らないと)
唐突に凛が倒れた為、あの場に集った男達が慌てたという事は想像に難くなかった。
若先生と呼ばれ、皆から慕われる者は一人しかいない。
その人物が誰なのか、試衛館に通う者ならば容易に見当がつく。
出来るならば今すぐにでも此処から出て、総司や勝太に謝りたかった。
しかし、僅かに覗く障子戸から既に太陽は身を隠し、月に姿を変えようとしていた。
(でも)
総司は夜が更けるまで稽古場に居る事があるが、勝太に至っては分からなかった。
(明日、またご挨拶出来ればいいけれど)
次期四代目宗家にと噂されている勝太は、常から稽古場に居たり時折街へ出たりしているらしい。
らしい、というのは凛に訊ねられた男も真偽は分からないということだ。
しかし、今ならば分かる。
勝太は街ではなく、土方に会いに出掛けているのだ。
朝から昼までは門人達と稽古をし、その後ふらりと何処かへ行く。
いなくなったかと思えば、いつの間にか居る──勝太は凛の知る限り、そういう男だった。
「ちょっと待て、土方さんを呼んでくる」
「土方、さん?」
何故土方の名が出るのだろう。
そんな思いで蒼馬を見つめると、立ち上がり掛けていた腰を再び凛の枕元へ落ち着けた。
その場に薬売りとして生計を立てている土方が居る事は、幸運と言っても良かった事。
町医者を呼ぶにしても時間が掛かり、このままでは生命の危機もあった事。
「──土方さんが居て助かったよ。俺ですら医学の心得はないから、本当に目覚めてくれて良かった」
にこりと淡くはにかんだ蒼馬に、段々と申し訳ない気持ちになる。
「そう、ですか。……すみません」
凛は布団を口元まで持ち上げ、小さく謝罪する。
他ならない蒼馬に心配を掛け、あまつさえ看病までさせた。
その間、稽古に身が入らなかった事は確かだろう。
「謝らなくていい。それよりも体調は大丈夫か? 気分は悪くないか?」
凛を安心させるように、蒼馬はぽんぽんと頭を撫でる。
温かい手と気遣ってくれる言葉が嬉しくて、涙腺が僅かに緩んだ。
「……はい、今はなんとも」
「そうか」
ふ、と蒼馬が小さく笑った。
これから先、後どれほど見られるか分からない笑みを焼き付けるように、凛はじっと蒼馬の顔を見つめる。
「あの、兄上」
優しげな黒曜石の瞳に吸い込まれるように、気付けば凛は蒼馬を呼んでいた。
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