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嘉永六年(1853)、春
鬼との邂逅 肆
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何もかもが中途半端なままだが、このまま身を任せるのもいいのかもしれない。
蝦夷地に戻っているのならば本望だが、次に目が覚めた時が黄泉であれば、それでも構わなかった。
(八郎さんが待っているなら)
空高くで一際輝く月を眩しく感じ、凛はそっと瞼を伏せる。
「私はそれでいい──」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
その言葉は一人きりの部屋に物悲しく響き、やがて静かに消えていった。
翌日、凛の思考は未だ過去にあった。
長閑な鳥の声を聞いた時、朝を迎えた事を実感すると同時に、やはり現実なのだと痛感する。
(私はもう一度、此処で生きていくのか)
生きていく覚悟は、とうにあった。
ただ、受け入れる事を脳が拒否していただけだ。
自分の生きる場所は過去ではないと言い訳し、この現実から逃げようとしているだけなのだ。
全ては信じたくないという、本能的なものでしかなかったのだ。
「母様、姉上、早く来てください!」
不意に高く僅かに甘い声音がした事で、凛の思考は引き戻された。
声がした方を見ると、奈津がさも嬉しそうな表情で、後ろから着いて歩く雪子と凛を急かしている。
屋敷を出てから途中までは凛が数歩先を歩いていたが、やがて奈津が追い抜き、今では小さな身体が見えないほどだ。
「こら、そんなに走っては転びますよ!」
雪子は奈津に聞こえるよう、普段よりも声を張り上げた。
その声音は決して諌めるものではなく、微かに弾んでいた。
口ではあれこれ言っていても、こうして有楽に会うという事は雪子の気分転換にもなるのだろう。
有楽と雪子の関係を、凛はある程度成長した頃になっても知らないままだった。
凛の知る限り、ここまで楽しげな声を出す母は見た事がなく、何かしらの縁が二人の間にはあるのかもしれない。
(まぁ、父様の兄上でいらっしゃるから……それにしても)
凛はちらりと一歩後ろを歩く雪子を見上げた。
今にも鼻歌でも歌い出しそうな様子に、ほんの少し違和感を覚える。
普段ならば「はしたない」と諌められる側の為、尚更だった。
(でも母様が楽しそうで何よりです)
宮司の妻の一日は息つく間もない。
尚士の補佐から始まり、日々の炊事や幼い子供達の世話も加わる為、全てが終わる頃には一人疲れて眠っている事があまりあった。
たまの気分転換にと、尚士は時々雪子に暇を出しているものの、持ち前の性格からか用事もそこそこに帰宅する。
武家の娘であれば、町へ繰り出す事は浮き足立つほど嬉しい事だと凛は思う。もっとも、雪子は「元」が付くが。
「姉上!」
小走りで奈津が一度走った道を駆けて来る。
「わ、ちょ」
ぴょん、と飛び付くように奈津がこちらへ走り寄ってくるのと、凛が咄嗟に受け身を取るのは殆ど同時だった。
「凛!? 奈津も……!」
雪子の悲鳴が聞こえると同時に、凛の手が空を掻いた。
「よく来たな、お前達!」
有楽の屋敷へ着くと、快活な笑い声と共に出迎えてくれた。
どうやら蒼馬から奈津と雪子も来ると聞いているようで、普段以上に笑みが深い。
「お久しぶりです、有楽様」
雪子が丁寧にお辞儀をし、言葉を述べる。
「ほら、奈津もご挨拶なさい」
「あ、えっ、と……」
奈津は雪子の背に隠れ、半分だけ顔を覗かせていた。
「良い良い。まだ幼いのだ、あまり無理させてやるな」
にこにこと手を左右に振り、雪子に止めるよう促す。
有楽は蒼馬を含めた全員を赤子の時から知っているが、当たり前ながら皆にその記憶はない。
加えて奈津は物心が付いて日が浅かった。
有楽と初めて会ったのは昨年の暮れの為、未だ慣れず人見知りしてしまうのだ。
「けれど有楽様」
「お前が熱心なのは良いことだがな、時として甘くならねば直ぐに離れていってしまうぞ。子の成長は、儂らが思うよりも早い故な」
尚も言い募ろうとする雪子を、有楽はやんわりと窘める。
「そう、ですね……」
有楽を本当の兄のように慕っているらしい雪子は、尚士同様あまり強く出られないようだった。
(あの母様が言い負かされているなんて)
言葉は悪いが、家族の中で口論で雪子に勝てる者はいない。
武家の娘の勉学がどれほどか凛には想像もつかないが、雪子が誰よりも努力してきた事だけは分かる。
母として時に空回りしてしまう事もあるが、全ては雪子の愛情のなせるものだと、凛は十分に知っていた。
「ん? 凛は何故汚れているんだ」
有楽の視線が凛に向き、その右袖に注視される。
真白い薄手の羽織りは、僅かながら砂や泥で汚れていた。
「あ、これは──」
凛は先程あった出来事を説明する。
「成程な、それで着物が汚れているのか!」
事の顛末を最後まで聞き終わると、有楽は破顔した。
「子がはしゃぐのは良い。大人になればおいそれと出来ぬものだ」
言いながら大きく温かい手でわしわしと奈津を、続いて凛の頭を撫でた。
「ひゃっ……」
いきなりの事に奈津は小さな悲鳴を上げる。
凛は慣れている為なんともないが、殆ど初対面の幼子に過剰過ぎやしないかと心配でならなかった。
(そういえば私も伯父上に初めてお会いした時、こんな感じだったような)
「──師匠」
凛が有楽との初対面の光景を思い出そうとした刹那、不意に聞き慣れた声がした。
「蒼馬か」
藍鼠の稽古着を身に纏い、腰まである黒髪を緩く縛って背に流した蒼馬がこちらまでやってきた。
「楽しみだったとはいえ、いつまでそこに居るつもりですか」
皆待っているんですよ、と蒼馬がやや怒った口調で言った。
「もうそんな時間か」
今気付いたというように、有楽は僅かに目を瞠る。
「いや、いつもより半時は遅いです。大体あんたが『凛と奈津が来るまで稽古はしない』って言った所為ですからね? あんまりにも遅いから、何人かは先に始めてますし」
溜め息混じりに蒼馬が言う。
「寒いだろう、二人とも。こんなのの相手もして……」
蒼馬は交互に凛と奈津の頬に触れる。
じんわりと触れられたところから温かくなった。
「おい、師匠に向かってこんなのとはなんだ!」
「事実じゃないですか」
「何が事実だ、俺は──」
「さぁ、早く。今日は多めに稽古の時間を取りますからね」
抗議の声を上げようとする有楽を遮り、蒼馬はぐいぐいと師匠兼伯父の背を押す。
屋敷の玄関先は、春先といえど冷える。
皆襟巻きをしている為そうでもないが、あまり長く居ては風邪を引いてしまうだろう。
有楽と蒼馬に案内され、鷹城屋の面々が集う稽古場へやってきた。
「有楽さん!」
「待ちくたびれましたよ、お師匠~」
各々好きに雑談や稽古をしていた座員の視線が、有楽に集中する。
「すまんな、この青二才が妹らと戯れておって遅れた」
「身内と長話して俺に叱られた、と言ってください」
呵呵と有楽が笑うと、すかさず蒼馬が事実を述べる。
どっとそこかしこで笑い声が起き、今日も鷹城屋は平和だなと凛は思う。
(兄上と伯父上の、持ち前の明るさもあるかもしれないけれど)
どちらも人を惹き付けてやまない性根をしている為、自然と人が集まり、笑い声が絶えない。
そんな第二の故郷ともいえる鷹城屋が、凛は好きだった。
有楽が来た事で改めて正式な稽古が行われ、それを邪魔にならない場所で雪子や奈津と共にじっと見つめていた。
「ごめんなさい、姉上」
不意に奈津が、何度目とも分からない謝罪の言葉を小さく述べた。
稽古が始まった瞬間から、事ある毎に言われている。
「何度も言っているけれど大丈夫。それよりも奈津、怪我はない?」
そして、この言葉も何度言ったのかもう数えていない。
(本当に律儀で優しい子で、私の妹なんて勿体ないくらい)
やんわりと顔を上げるよう、奈津を宥める。
既のところで受け身を取れたから良かったものの、後少し遅ければ怪我をしていたのは確かだった。
「はい、姉上のお陰でなんとも。あの、やっぱりお手当てを……」
顔を上げたものの、どこまでも自分を心配する妹に苦笑する。
「だから必要ないと言っているでしょう」
ほど近くで正座している雪子に助け舟を出そうか迷っていると、ぽんと誰かに肩を叩かれた。
「やはりお前は強いな。蒼馬が言った通りだ」
「伯父上」
振り向くと有楽が居た為、流石の奈津も黙ったが、こっそりと凛の背中へ顔を隠した。
奈津が有楽に慣れるには、暫く時が掛かりそうだ。
「……聞いたぞ、試衛館に入門したと」
奈津の行動に寂しそうな顔をしたものの、構わず凛の隣りへ腰を下ろす。視線は稽古をする座員らに向けられたままだ。
「お早いですね」
「なに、蒼馬がそれはもう興奮しきった様子でな。夕餉の折、言ったのだ。『凛は何れ強く、誰にも負けない剣士になる』と」
その言葉を聞いた瞬間、はっと凛は目を見開いた。
昨日、周助に入門したいという旨を伝えた蒼馬の様子は、冷静だった。
しかし、心の内では凛以上に蒼馬が喜んでいた。
(兄上はそこまで……)
凛は自分が幼い頃から蒼馬に期待されていたと、この時初めて知った。
そして、蒼馬がその頃から目を掛けてくれていた事に嬉しくもなった。
「──」
朗々と響く蒼馬の声音は僅かに甘さを含み、聴いている者の胸を打つ。
時に力強く伸ばされる四肢は、見ている者の心をざわめかせる。
まっすぐに前を向く瞳は、この世の全てを経験した凛以上に美しさがあった。
「兄上、は」
視線を前に向けたまま、凛は有楽に問い掛けていた。
「私に期待をしてくれているのでしょうか。私を……誰よりも強い、剣士にしたいのでしょうか」
今思う素朴な疑問を言っただけだが、何かがおかしかったのか有楽は低く笑う。
「お前が剣士になりたいのなら、誰も止めぬだろうさ。蒼馬とて、本気で剣士になれと言っている訳ではなかろうて」
全ては凛の想い次第だ、と有楽は続けた。
「私の想い……」
凛は視線を膝に落とす。
どちらにしろ、剣の道を極めない限り過去と同じ轍は踏めない。
ならば、過去以上に今を懸命に生きるだけだ。
極めた先にある未来を想像したくはないが、それは神だけが知るものなのだろう。
「お前が男であれば蒼馬と此処へ来た時、迷わずうちに来いと誘ったがな」
柔らかく目を細め、冗談混じりの声音で有楽は微笑した。
蝦夷地に戻っているのならば本望だが、次に目が覚めた時が黄泉であれば、それでも構わなかった。
(八郎さんが待っているなら)
空高くで一際輝く月を眩しく感じ、凛はそっと瞼を伏せる。
「私はそれでいい──」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
その言葉は一人きりの部屋に物悲しく響き、やがて静かに消えていった。
翌日、凛の思考は未だ過去にあった。
長閑な鳥の声を聞いた時、朝を迎えた事を実感すると同時に、やはり現実なのだと痛感する。
(私はもう一度、此処で生きていくのか)
生きていく覚悟は、とうにあった。
ただ、受け入れる事を脳が拒否していただけだ。
自分の生きる場所は過去ではないと言い訳し、この現実から逃げようとしているだけなのだ。
全ては信じたくないという、本能的なものでしかなかったのだ。
「母様、姉上、早く来てください!」
不意に高く僅かに甘い声音がした事で、凛の思考は引き戻された。
声がした方を見ると、奈津がさも嬉しそうな表情で、後ろから着いて歩く雪子と凛を急かしている。
屋敷を出てから途中までは凛が数歩先を歩いていたが、やがて奈津が追い抜き、今では小さな身体が見えないほどだ。
「こら、そんなに走っては転びますよ!」
雪子は奈津に聞こえるよう、普段よりも声を張り上げた。
その声音は決して諌めるものではなく、微かに弾んでいた。
口ではあれこれ言っていても、こうして有楽に会うという事は雪子の気分転換にもなるのだろう。
有楽と雪子の関係を、凛はある程度成長した頃になっても知らないままだった。
凛の知る限り、ここまで楽しげな声を出す母は見た事がなく、何かしらの縁が二人の間にはあるのかもしれない。
(まぁ、父様の兄上でいらっしゃるから……それにしても)
凛はちらりと一歩後ろを歩く雪子を見上げた。
今にも鼻歌でも歌い出しそうな様子に、ほんの少し違和感を覚える。
普段ならば「はしたない」と諌められる側の為、尚更だった。
(でも母様が楽しそうで何よりです)
宮司の妻の一日は息つく間もない。
尚士の補佐から始まり、日々の炊事や幼い子供達の世話も加わる為、全てが終わる頃には一人疲れて眠っている事があまりあった。
たまの気分転換にと、尚士は時々雪子に暇を出しているものの、持ち前の性格からか用事もそこそこに帰宅する。
武家の娘であれば、町へ繰り出す事は浮き足立つほど嬉しい事だと凛は思う。もっとも、雪子は「元」が付くが。
「姉上!」
小走りで奈津が一度走った道を駆けて来る。
「わ、ちょ」
ぴょん、と飛び付くように奈津がこちらへ走り寄ってくるのと、凛が咄嗟に受け身を取るのは殆ど同時だった。
「凛!? 奈津も……!」
雪子の悲鳴が聞こえると同時に、凛の手が空を掻いた。
「よく来たな、お前達!」
有楽の屋敷へ着くと、快活な笑い声と共に出迎えてくれた。
どうやら蒼馬から奈津と雪子も来ると聞いているようで、普段以上に笑みが深い。
「お久しぶりです、有楽様」
雪子が丁寧にお辞儀をし、言葉を述べる。
「ほら、奈津もご挨拶なさい」
「あ、えっ、と……」
奈津は雪子の背に隠れ、半分だけ顔を覗かせていた。
「良い良い。まだ幼いのだ、あまり無理させてやるな」
にこにこと手を左右に振り、雪子に止めるよう促す。
有楽は蒼馬を含めた全員を赤子の時から知っているが、当たり前ながら皆にその記憶はない。
加えて奈津は物心が付いて日が浅かった。
有楽と初めて会ったのは昨年の暮れの為、未だ慣れず人見知りしてしまうのだ。
「けれど有楽様」
「お前が熱心なのは良いことだがな、時として甘くならねば直ぐに離れていってしまうぞ。子の成長は、儂らが思うよりも早い故な」
尚も言い募ろうとする雪子を、有楽はやんわりと窘める。
「そう、ですね……」
有楽を本当の兄のように慕っているらしい雪子は、尚士同様あまり強く出られないようだった。
(あの母様が言い負かされているなんて)
言葉は悪いが、家族の中で口論で雪子に勝てる者はいない。
武家の娘の勉学がどれほどか凛には想像もつかないが、雪子が誰よりも努力してきた事だけは分かる。
母として時に空回りしてしまう事もあるが、全ては雪子の愛情のなせるものだと、凛は十分に知っていた。
「ん? 凛は何故汚れているんだ」
有楽の視線が凛に向き、その右袖に注視される。
真白い薄手の羽織りは、僅かながら砂や泥で汚れていた。
「あ、これは──」
凛は先程あった出来事を説明する。
「成程な、それで着物が汚れているのか!」
事の顛末を最後まで聞き終わると、有楽は破顔した。
「子がはしゃぐのは良い。大人になればおいそれと出来ぬものだ」
言いながら大きく温かい手でわしわしと奈津を、続いて凛の頭を撫でた。
「ひゃっ……」
いきなりの事に奈津は小さな悲鳴を上げる。
凛は慣れている為なんともないが、殆ど初対面の幼子に過剰過ぎやしないかと心配でならなかった。
(そういえば私も伯父上に初めてお会いした時、こんな感じだったような)
「──師匠」
凛が有楽との初対面の光景を思い出そうとした刹那、不意に聞き慣れた声がした。
「蒼馬か」
藍鼠の稽古着を身に纏い、腰まである黒髪を緩く縛って背に流した蒼馬がこちらまでやってきた。
「楽しみだったとはいえ、いつまでそこに居るつもりですか」
皆待っているんですよ、と蒼馬がやや怒った口調で言った。
「もうそんな時間か」
今気付いたというように、有楽は僅かに目を瞠る。
「いや、いつもより半時は遅いです。大体あんたが『凛と奈津が来るまで稽古はしない』って言った所為ですからね? あんまりにも遅いから、何人かは先に始めてますし」
溜め息混じりに蒼馬が言う。
「寒いだろう、二人とも。こんなのの相手もして……」
蒼馬は交互に凛と奈津の頬に触れる。
じんわりと触れられたところから温かくなった。
「おい、師匠に向かってこんなのとはなんだ!」
「事実じゃないですか」
「何が事実だ、俺は──」
「さぁ、早く。今日は多めに稽古の時間を取りますからね」
抗議の声を上げようとする有楽を遮り、蒼馬はぐいぐいと師匠兼伯父の背を押す。
屋敷の玄関先は、春先といえど冷える。
皆襟巻きをしている為そうでもないが、あまり長く居ては風邪を引いてしまうだろう。
有楽と蒼馬に案内され、鷹城屋の面々が集う稽古場へやってきた。
「有楽さん!」
「待ちくたびれましたよ、お師匠~」
各々好きに雑談や稽古をしていた座員の視線が、有楽に集中する。
「すまんな、この青二才が妹らと戯れておって遅れた」
「身内と長話して俺に叱られた、と言ってください」
呵呵と有楽が笑うと、すかさず蒼馬が事実を述べる。
どっとそこかしこで笑い声が起き、今日も鷹城屋は平和だなと凛は思う。
(兄上と伯父上の、持ち前の明るさもあるかもしれないけれど)
どちらも人を惹き付けてやまない性根をしている為、自然と人が集まり、笑い声が絶えない。
そんな第二の故郷ともいえる鷹城屋が、凛は好きだった。
有楽が来た事で改めて正式な稽古が行われ、それを邪魔にならない場所で雪子や奈津と共にじっと見つめていた。
「ごめんなさい、姉上」
不意に奈津が、何度目とも分からない謝罪の言葉を小さく述べた。
稽古が始まった瞬間から、事ある毎に言われている。
「何度も言っているけれど大丈夫。それよりも奈津、怪我はない?」
そして、この言葉も何度言ったのかもう数えていない。
(本当に律儀で優しい子で、私の妹なんて勿体ないくらい)
やんわりと顔を上げるよう、奈津を宥める。
既のところで受け身を取れたから良かったものの、後少し遅ければ怪我をしていたのは確かだった。
「はい、姉上のお陰でなんとも。あの、やっぱりお手当てを……」
顔を上げたものの、どこまでも自分を心配する妹に苦笑する。
「だから必要ないと言っているでしょう」
ほど近くで正座している雪子に助け舟を出そうか迷っていると、ぽんと誰かに肩を叩かれた。
「やはりお前は強いな。蒼馬が言った通りだ」
「伯父上」
振り向くと有楽が居た為、流石の奈津も黙ったが、こっそりと凛の背中へ顔を隠した。
奈津が有楽に慣れるには、暫く時が掛かりそうだ。
「……聞いたぞ、試衛館に入門したと」
奈津の行動に寂しそうな顔をしたものの、構わず凛の隣りへ腰を下ろす。視線は稽古をする座員らに向けられたままだ。
「お早いですね」
「なに、蒼馬がそれはもう興奮しきった様子でな。夕餉の折、言ったのだ。『凛は何れ強く、誰にも負けない剣士になる』と」
その言葉を聞いた瞬間、はっと凛は目を見開いた。
昨日、周助に入門したいという旨を伝えた蒼馬の様子は、冷静だった。
しかし、心の内では凛以上に蒼馬が喜んでいた。
(兄上はそこまで……)
凛は自分が幼い頃から蒼馬に期待されていたと、この時初めて知った。
そして、蒼馬がその頃から目を掛けてくれていた事に嬉しくもなった。
「──」
朗々と響く蒼馬の声音は僅かに甘さを含み、聴いている者の胸を打つ。
時に力強く伸ばされる四肢は、見ている者の心をざわめかせる。
まっすぐに前を向く瞳は、この世の全てを経験した凛以上に美しさがあった。
「兄上、は」
視線を前に向けたまま、凛は有楽に問い掛けていた。
「私に期待をしてくれているのでしょうか。私を……誰よりも強い、剣士にしたいのでしょうか」
今思う素朴な疑問を言っただけだが、何かがおかしかったのか有楽は低く笑う。
「お前が剣士になりたいのなら、誰も止めぬだろうさ。蒼馬とて、本気で剣士になれと言っている訳ではなかろうて」
全ては凛の想い次第だ、と有楽は続けた。
「私の想い……」
凛は視線を膝に落とす。
どちらにしろ、剣の道を極めない限り過去と同じ轍は踏めない。
ならば、過去以上に今を懸命に生きるだけだ。
極めた先にある未来を想像したくはないが、それは神だけが知るものなのだろう。
「お前が男であれば蒼馬と此処へ来た時、迷わずうちに来いと誘ったがな」
柔らかく目を細め、冗談混じりの声音で有楽は微笑した。
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