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嘉永六年(1853)、春
鬼との邂逅 壱
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「懸けまくも畏き伊邪那岐大神──」
宮司の厳かな声音が、祝詞を紡ぐ。
古来より宮司は男が努め、女は巫女舞を披露する。
しかし、この桜羅神宮での巫女舞とは巫女は勿論、女装した男と共に舞うものだった。
異界とこの世を繋ぐ役目を持つ宮司──神宮寺尚士は、ゆったりとした低音で祝詞を唱える。
しゃらしゃらと二人の巫覡の手に持つ鈴が音を奏で、祝詞と合わさって空気がより張り詰められた。
凛はそのさまを、数間離れた場所からじっと見守っていた。
(やはり私の中の記憶と、父様はお変わりないみたい)
儀式を執り行う父の姿に、凛は自然と目頭が熱くなった。
寸分違わぬ父の声、顔立ち、儀式中の癖は凛の頭の中に染み付いている。
幼い頃からこの場所で育ち、十五になるまでずっと父の姿を見てきた。
尚士は良き父として、また良き宮司として、皆の支えになっていたと思う。
上京してからは一度も帰っていなかった為、その無事は分からないが、家族に何事もなく息災であれば幸いな事はない。
(先の戦争は酷い有様だったから)
思い出すのは、京での鳥羽・伏見から始まり、江戸で起こった戦争の事だった。
戦地から桜羅神宮までは距離がある為、凛が思うほど被害は無いだろうが、それでも一目顔を見ておけば良かったと後悔の念に駆られる。
(……此処は過去で、この先戦争が起こるとも限らないのだから)
過ぎてしまった出来事を懐古しても、今の自分には何も出来ないと凛は既に知ってしまった。
それ以上に何も出来ない自分に嫌気がさす事も、痛いほど分かっている。
凛は瞳に力を込め、尚士が紡ぐ祝詞に耳を澄ませる。
ゆったりとした低音は、幼い頃から聞き馴染みのあるものだ。
祝詞を読み上げる時に伏せられた睫毛は、男だというのに長く透き通っている。
儀式の無い時の尚士は厳格であるが、その実誰よりも心優しい。
「──どうか、この先が平和でありますように」
そっと口の中で呟きを落とす。
神に仕える宮司には、ごく稀に視える者が居るという。
ならば、凛の願いもどうか届けて欲しい。
言葉通り、争いの無い平和な世が続くように。
たとえ残酷な運命が待ち受けていようと、民に等しく幸いが訪れるように。
「──祓い給え清め給えと、白《まお》す事を聞こし食せと畏み畏みも白す」
尚士が最後の祝詞を紡ぎ終わると、一際大きく鈴が鳴り、長い余韻を残す。
異端と言ってもいいほど美しく荘厳な社を中心に、凛は両親や弟妹と共に日々を過ごしていた。
桜羅神宮のほど近くには、一際大きな屋敷が構えられている。
不思議と手を合わせたくなるような神聖さがあるそこに、凛は恐る恐ると足を踏み入れた。
「お帰りなさい、姉上!」
「わっ」
ぴょんと飛び付くように一つ下の妹──奈津が出迎えてくれた。
くりくりと大きな黒曜石の瞳は母に似て美しく、ほんのりと聡明さの片鱗が見え隠れしている。
「只今、奈津。母上は?」
「兄上とお話しています。それよりも姉上、私もお稽古へ連れて行ってください!」
「もうそこまで聞いているの……」
凛は苦笑するしかなかった。
蒼馬に連れられて屋敷に帰ったはいいものの、凛は尚士の祈祷を見つめていたのだ。
殆ど最初から居た為、そこから随分と時が経っていたらしい。
「だって狡いではないですか。いつもお二人だけで……奈津も姉上達と居たいです」
落胆した声音に加え、目に見えて落ち込んだ様子に凛は困惑した。
一つ下といっても、奈津は甘えたがりだ。
こうして隙あらば身内に飛び付き、それは成長した女人になっても変わらなかった。
(でも、ここまで過度ではなかったはず)
幼い頃から共に過ごしているとはいえ、成長した後の弟妹の姿は覚えていない。
つくづく自分の人生は、新選組やそれに関係する人間達で占められていたのだなと思う。
(皆の事もだけれど、八郎さんに会いたい……)
それまで考えないようにしていたが、凛は無性にこの時の八郎に会いたくなった。
しかし、八郎が試衛館へやってくる年は大分先だ。
幼い頃は書物に秀で、生家である道場には少しも顔を出していなかったと聞く。
仮に今が嘉永六年であれば、少なくともあと五年は会えず終いだろう。
(確か、初めてお会いしたのは……私が十になるかという時)
あの頃の凛は、総司と互角に戦えるまでになっていた。
免許皆伝の一歩手前というところで、八郎がやって来て少しずつ仲良くなっていったのが始まりだ。
元来剣術の腕があったであろう八郎は、めきめきと頭角を現していき、入門後僅か一年で『伊庭の小天狗』と称された。
出会った時は決戦の地まで共にするとは思わなかったが、それでも凛にとっては掛け替えのない出来事だった。
「姉上?」
黙ってしまった凛を不審に思ったのか、奈津が心配そうに眉尻を下げて問い掛けてくる。
「あ、ごめんなさい。えっと、どこまで話していたっけ?」
奈津を安心させるように、自分とあまり変わらない妹の頭をそっと撫でた。
指通りが良く艶のある奈津の黒髪は、光加減によって青くも黒くも見える不思議な色をしている。
「姉上は上の空になる事が多くていらっしゃいますね」
苦笑しながら奈津は口元に手を添え、大人びた仕草をする。
「兄上のお稽古場所に行ってみたいんです。駄目ですか……?」
「兄上の?」
凛の困惑を感じ取ったのか、はたまた凛が稽古の場所を勘違いしていただけなのか──こればかりは後者だろう。
「私は大丈夫だけれど、伯父上のお屋敷よ? 以前お会いした時、奈津は怖がっていたと思うけれど」
尚士の兄である有楽は、大柄な体躯に低く野太い声を持っているからか初対面の相手、特に幼い子供から怖がられる事がままあった。
見た目に違わず本人は大の子供好きで、事ある毎に凛へ菓子をくれる。
それを稽古終わりの蒼馬と分け合う事が、凛のささやかな日課になっていた。
「……大丈夫、です。もう乳飲み子ではありませんから」
きゅっと両の手を握り締め、奈津はさも得意げに言う。
(と言っても、伯父上のお顔を覚えているか疑問なのだけれど)
有楽と出会った頃の凛は勿論、奈津もあまり伯父との記憶が無いはずだ。
(大方、兄上の愚痴で怖い方だと思っているのね……あんなに優しいのに)
無論、凛も有楽と顔を合わせた時期はここ数ヶ月の間だ。
最初こそ見た目で誤解してしまったが、甥姪を可愛がってくれ、稽古時には時に厳しく時に優しい伯父だった。
「では明日行きましょうか。でも、その前に兄上に言わなければならない事があるの。奈津も来てくれる?」
「はい……?」
凛の言葉の意味が分からなかったのか、奈津は小さく首を傾げた。
宮司の厳かな声音が、祝詞を紡ぐ。
古来より宮司は男が努め、女は巫女舞を披露する。
しかし、この桜羅神宮での巫女舞とは巫女は勿論、女装した男と共に舞うものだった。
異界とこの世を繋ぐ役目を持つ宮司──神宮寺尚士は、ゆったりとした低音で祝詞を唱える。
しゃらしゃらと二人の巫覡の手に持つ鈴が音を奏で、祝詞と合わさって空気がより張り詰められた。
凛はそのさまを、数間離れた場所からじっと見守っていた。
(やはり私の中の記憶と、父様はお変わりないみたい)
儀式を執り行う父の姿に、凛は自然と目頭が熱くなった。
寸分違わぬ父の声、顔立ち、儀式中の癖は凛の頭の中に染み付いている。
幼い頃からこの場所で育ち、十五になるまでずっと父の姿を見てきた。
尚士は良き父として、また良き宮司として、皆の支えになっていたと思う。
上京してからは一度も帰っていなかった為、その無事は分からないが、家族に何事もなく息災であれば幸いな事はない。
(先の戦争は酷い有様だったから)
思い出すのは、京での鳥羽・伏見から始まり、江戸で起こった戦争の事だった。
戦地から桜羅神宮までは距離がある為、凛が思うほど被害は無いだろうが、それでも一目顔を見ておけば良かったと後悔の念に駆られる。
(……此処は過去で、この先戦争が起こるとも限らないのだから)
過ぎてしまった出来事を懐古しても、今の自分には何も出来ないと凛は既に知ってしまった。
それ以上に何も出来ない自分に嫌気がさす事も、痛いほど分かっている。
凛は瞳に力を込め、尚士が紡ぐ祝詞に耳を澄ませる。
ゆったりとした低音は、幼い頃から聞き馴染みのあるものだ。
祝詞を読み上げる時に伏せられた睫毛は、男だというのに長く透き通っている。
儀式の無い時の尚士は厳格であるが、その実誰よりも心優しい。
「──どうか、この先が平和でありますように」
そっと口の中で呟きを落とす。
神に仕える宮司には、ごく稀に視える者が居るという。
ならば、凛の願いもどうか届けて欲しい。
言葉通り、争いの無い平和な世が続くように。
たとえ残酷な運命が待ち受けていようと、民に等しく幸いが訪れるように。
「──祓い給え清め給えと、白《まお》す事を聞こし食せと畏み畏みも白す」
尚士が最後の祝詞を紡ぎ終わると、一際大きく鈴が鳴り、長い余韻を残す。
異端と言ってもいいほど美しく荘厳な社を中心に、凛は両親や弟妹と共に日々を過ごしていた。
桜羅神宮のほど近くには、一際大きな屋敷が構えられている。
不思議と手を合わせたくなるような神聖さがあるそこに、凛は恐る恐ると足を踏み入れた。
「お帰りなさい、姉上!」
「わっ」
ぴょんと飛び付くように一つ下の妹──奈津が出迎えてくれた。
くりくりと大きな黒曜石の瞳は母に似て美しく、ほんのりと聡明さの片鱗が見え隠れしている。
「只今、奈津。母上は?」
「兄上とお話しています。それよりも姉上、私もお稽古へ連れて行ってください!」
「もうそこまで聞いているの……」
凛は苦笑するしかなかった。
蒼馬に連れられて屋敷に帰ったはいいものの、凛は尚士の祈祷を見つめていたのだ。
殆ど最初から居た為、そこから随分と時が経っていたらしい。
「だって狡いではないですか。いつもお二人だけで……奈津も姉上達と居たいです」
落胆した声音に加え、目に見えて落ち込んだ様子に凛は困惑した。
一つ下といっても、奈津は甘えたがりだ。
こうして隙あらば身内に飛び付き、それは成長した女人になっても変わらなかった。
(でも、ここまで過度ではなかったはず)
幼い頃から共に過ごしているとはいえ、成長した後の弟妹の姿は覚えていない。
つくづく自分の人生は、新選組やそれに関係する人間達で占められていたのだなと思う。
(皆の事もだけれど、八郎さんに会いたい……)
それまで考えないようにしていたが、凛は無性にこの時の八郎に会いたくなった。
しかし、八郎が試衛館へやってくる年は大分先だ。
幼い頃は書物に秀で、生家である道場には少しも顔を出していなかったと聞く。
仮に今が嘉永六年であれば、少なくともあと五年は会えず終いだろう。
(確か、初めてお会いしたのは……私が十になるかという時)
あの頃の凛は、総司と互角に戦えるまでになっていた。
免許皆伝の一歩手前というところで、八郎がやって来て少しずつ仲良くなっていったのが始まりだ。
元来剣術の腕があったであろう八郎は、めきめきと頭角を現していき、入門後僅か一年で『伊庭の小天狗』と称された。
出会った時は決戦の地まで共にするとは思わなかったが、それでも凛にとっては掛け替えのない出来事だった。
「姉上?」
黙ってしまった凛を不審に思ったのか、奈津が心配そうに眉尻を下げて問い掛けてくる。
「あ、ごめんなさい。えっと、どこまで話していたっけ?」
奈津を安心させるように、自分とあまり変わらない妹の頭をそっと撫でた。
指通りが良く艶のある奈津の黒髪は、光加減によって青くも黒くも見える不思議な色をしている。
「姉上は上の空になる事が多くていらっしゃいますね」
苦笑しながら奈津は口元に手を添え、大人びた仕草をする。
「兄上のお稽古場所に行ってみたいんです。駄目ですか……?」
「兄上の?」
凛の困惑を感じ取ったのか、はたまた凛が稽古の場所を勘違いしていただけなのか──こればかりは後者だろう。
「私は大丈夫だけれど、伯父上のお屋敷よ? 以前お会いした時、奈津は怖がっていたと思うけれど」
尚士の兄である有楽は、大柄な体躯に低く野太い声を持っているからか初対面の相手、特に幼い子供から怖がられる事がままあった。
見た目に違わず本人は大の子供好きで、事ある毎に凛へ菓子をくれる。
それを稽古終わりの蒼馬と分け合う事が、凛のささやかな日課になっていた。
「……大丈夫、です。もう乳飲み子ではありませんから」
きゅっと両の手を握り締め、奈津はさも得意げに言う。
(と言っても、伯父上のお顔を覚えているか疑問なのだけれど)
有楽と出会った頃の凛は勿論、奈津もあまり伯父との記憶が無いはずだ。
(大方、兄上の愚痴で怖い方だと思っているのね……あんなに優しいのに)
無論、凛も有楽と顔を合わせた時期はここ数ヶ月の間だ。
最初こそ見た目で誤解してしまったが、甥姪を可愛がってくれ、稽古時には時に厳しく時に優しい伯父だった。
「では明日行きましょうか。でも、その前に兄上に言わなければならない事があるの。奈津も来てくれる?」
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