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嘉永六年(1853)、春
試衛館の面々 肆
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幸いすぐさま離してくれたから良かったものの、蒼馬の怒りの沸点がどこに触れたのか検討がつかない。
(兄上ってこんなに感情が豊かでいらっしゃったかな……)
少なくとも、凛の知る蒼馬はいつだって冷静に物事を見る癖があった。
そこに私情を持ち込む事はなかったはずだが、やはり何かが少しずつ違うのだろうか。
「お、今日もやってるんですか」
「っ」
二間(約三六〇メートル)ほど先からまっすぐこちらに向かって歩いてくる男に、凛は目を瞠った。
「お帰りなさい。総司も庭掃除をありがとう」
低く野太い、けれどよく通る声を聞いた瞬間、どくりと凛の鼓動が早鐘を打っていた。
武士らしく頭を月代に結い上げ、きりりとした精悍な顔立ちはほんのりと日に焼けている。
がっしりとした肩には手拭いが掛けられている為、どうやら先程まで稽古をしていたらしい。
「近藤さん!」
男の姿が段々と鮮明になった瞬間、総司は一目散に駆け寄った。
「おっと」
それをなんなく受け止め、抱き着いてきた総司を柔らかく咎める。
「はははっ、お前は今日も元気だな。けど、危ないから止めようか。俺じゃなかったら怪我をする」
「ふふ、はいっ」
一切の反省もなく、寧ろ嬉しそうに総司は笑った。
(近藤、さん……)
凛は誰にも気付かれないよう、唇を噛み締める。
男の名は近藤勝太──後に勇と改名する──といい、後に新選組局長として数多の男達の上に立つ人間 だ。
先の戦争で非業な死を遂げるが、それは今から十年以上後の事だった。
そもそも今が何年なのか、漠然とした予想で嘉永年間以降だとしか分かっていない。
(大丈夫、まだ時間は沢山ある。今からゆっくり聞いていけばいい)
この時代に居る事は、凛にとって何よりも貴重なのだ。
ただ焦っていては、それこそ怪しまれてしまう。それくらいならば、束の間の平和な日常に身を任せ、今を堪能した方が幾分か気が楽だろう。
「儂のいない間、何も無かったか」
凛がそう決意した時、周助がやや低い声音で言った。
天然理心流の三代目塾頭は誰よりも強い──そんな噂をどこかから聞き付けたのか、周助の元には道場破りに来る者が後を絶たない。
門下生らがいくら「先生は留守です」と言っても一部には居座る人間が居る為、こうして周助が帰宅直後に訊ねる事が日課になっていた。
「稽古が終わってからは何も。ただ、これから出掛けるんですが……」
「彼奴か。その顔は」
義息の表情から何かを読み取ったのか、周助の眉間に深く刻み込まれた皺が僅かに緩んだ。
「はい。帰りは遅くなるかもしれないので──」
「いい、いい。儂や門下生のことは気にするな。もう子供じゃないんだ、お前の好きにしろ」
恐縮しきった義息の言葉に被せるように、周助は二度三度と手を振る仕草をする。
三代目宗家が不在の中、その息子も不在とあっては取り纏める者が一人減ってしまう。
試衛館に出入りする人間は血の気の多い者が多く、目を光らせておく事が常とされているのだ。
勝太はそれを危惧し、今の今まで周助の帰りを待っていたのだろう。
「ありがとうございます!」
周助から許可を貰ったことで、にっこりと微笑みを浮かべ勝太は礼を言った。
「近藤さん、出掛けるんですか?」
くいくいと勝太の着物の袂を摑み、総司が訊ねる。
その表情が、凛には捨てられた小動物のように見えた。
「ああ。総司も行くか?」
総司からまっすぐに目線が合うよう、少し屈みながら勝太が言う。
「行きませんよ。あの人……好きじゃないんで」
「話したら楽しいんだけどなぁ」
分かりやすく不機嫌になった総司に小さく笑いながら、勝太はやや急ぎ足で草履を履く。
(……沖田さんが近藤さんを慕っているのって、この頃からだったんだ)
総司は勝太に救ってもらった恩があるからか、試衛館に居る間は行く先々に着いて行こうとしていた。
浪士組を結成し、新選組として行動を共にするようになってからは控えられていたが、それでも総司の勝太に対する忠義心は本物だったように思う。
(記憶がやっぱり断片的過ぎるのかもしれない)
試衛館に出入りするようになった時期は、正直あまり覚えていない。
物心の付いた後ならば記憶に残っているはずだが、それも小さな欠片程度のものだ。
毎日稽古に打ち込み、時には痣を作って両親や蒼馬に怒られ、けれど楽しい日々を過ごしてきた。
(昔の私は、周りの事をあまり見ていなかったのかも)
そうでなければ、試衛館で過ごした日常を覚えていないはずがなかった。
胸を張って輝かしい日々とは言えないが、断片的とはいえ凛が確かに試衛館で過ごし、そこに存在した紛れもない事実は消えていない。
「あーあ、つまんないの」
勝太が出掛けた先に見当が着いているのか、総司は面白くなさそうに一つ伸びをする。
「こら、総司。先生の御前だ、それに間違ってもそんなことを言うもんじゃない」
「あ、お説教なら聞き飽きてるんで」
すかさず井上が咎めるも総司はひらひらと手を振り、どこ吹く風だ。
「……俺達も中に入るか」
それまで黙って傍観していた蒼馬が、凛にだけ聞こえるように小さく言った。
「は、はい」
改めて蒼馬に手を繋がれ、凛は試衛館の敷地内に足を踏み入れた。
(兄上ってこんなに感情が豊かでいらっしゃったかな……)
少なくとも、凛の知る蒼馬はいつだって冷静に物事を見る癖があった。
そこに私情を持ち込む事はなかったはずだが、やはり何かが少しずつ違うのだろうか。
「お、今日もやってるんですか」
「っ」
二間(約三六〇メートル)ほど先からまっすぐこちらに向かって歩いてくる男に、凛は目を瞠った。
「お帰りなさい。総司も庭掃除をありがとう」
低く野太い、けれどよく通る声を聞いた瞬間、どくりと凛の鼓動が早鐘を打っていた。
武士らしく頭を月代に結い上げ、きりりとした精悍な顔立ちはほんのりと日に焼けている。
がっしりとした肩には手拭いが掛けられている為、どうやら先程まで稽古をしていたらしい。
「近藤さん!」
男の姿が段々と鮮明になった瞬間、総司は一目散に駆け寄った。
「おっと」
それをなんなく受け止め、抱き着いてきた総司を柔らかく咎める。
「はははっ、お前は今日も元気だな。けど、危ないから止めようか。俺じゃなかったら怪我をする」
「ふふ、はいっ」
一切の反省もなく、寧ろ嬉しそうに総司は笑った。
(近藤、さん……)
凛は誰にも気付かれないよう、唇を噛み締める。
男の名は近藤勝太──後に勇と改名する──といい、後に新選組局長として数多の男達の上に立つ人間 だ。
先の戦争で非業な死を遂げるが、それは今から十年以上後の事だった。
そもそも今が何年なのか、漠然とした予想で嘉永年間以降だとしか分かっていない。
(大丈夫、まだ時間は沢山ある。今からゆっくり聞いていけばいい)
この時代に居る事は、凛にとって何よりも貴重なのだ。
ただ焦っていては、それこそ怪しまれてしまう。それくらいならば、束の間の平和な日常に身を任せ、今を堪能した方が幾分か気が楽だろう。
「儂のいない間、何も無かったか」
凛がそう決意した時、周助がやや低い声音で言った。
天然理心流の三代目塾頭は誰よりも強い──そんな噂をどこかから聞き付けたのか、周助の元には道場破りに来る者が後を絶たない。
門下生らがいくら「先生は留守です」と言っても一部には居座る人間が居る為、こうして周助が帰宅直後に訊ねる事が日課になっていた。
「稽古が終わってからは何も。ただ、これから出掛けるんですが……」
「彼奴か。その顔は」
義息の表情から何かを読み取ったのか、周助の眉間に深く刻み込まれた皺が僅かに緩んだ。
「はい。帰りは遅くなるかもしれないので──」
「いい、いい。儂や門下生のことは気にするな。もう子供じゃないんだ、お前の好きにしろ」
恐縮しきった義息の言葉に被せるように、周助は二度三度と手を振る仕草をする。
三代目宗家が不在の中、その息子も不在とあっては取り纏める者が一人減ってしまう。
試衛館に出入りする人間は血の気の多い者が多く、目を光らせておく事が常とされているのだ。
勝太はそれを危惧し、今の今まで周助の帰りを待っていたのだろう。
「ありがとうございます!」
周助から許可を貰ったことで、にっこりと微笑みを浮かべ勝太は礼を言った。
「近藤さん、出掛けるんですか?」
くいくいと勝太の着物の袂を摑み、総司が訊ねる。
その表情が、凛には捨てられた小動物のように見えた。
「ああ。総司も行くか?」
総司からまっすぐに目線が合うよう、少し屈みながら勝太が言う。
「行きませんよ。あの人……好きじゃないんで」
「話したら楽しいんだけどなぁ」
分かりやすく不機嫌になった総司に小さく笑いながら、勝太はやや急ぎ足で草履を履く。
(……沖田さんが近藤さんを慕っているのって、この頃からだったんだ)
総司は勝太に救ってもらった恩があるからか、試衛館に居る間は行く先々に着いて行こうとしていた。
浪士組を結成し、新選組として行動を共にするようになってからは控えられていたが、それでも総司の勝太に対する忠義心は本物だったように思う。
(記憶がやっぱり断片的過ぎるのかもしれない)
試衛館に出入りするようになった時期は、正直あまり覚えていない。
物心の付いた後ならば記憶に残っているはずだが、それも小さな欠片程度のものだ。
毎日稽古に打ち込み、時には痣を作って両親や蒼馬に怒られ、けれど楽しい日々を過ごしてきた。
(昔の私は、周りの事をあまり見ていなかったのかも)
そうでなければ、試衛館で過ごした日常を覚えていないはずがなかった。
胸を張って輝かしい日々とは言えないが、断片的とはいえ凛が確かに試衛館で過ごし、そこに存在した紛れもない事実は消えていない。
「あーあ、つまんないの」
勝太が出掛けた先に見当が着いているのか、総司は面白くなさそうに一つ伸びをする。
「こら、総司。先生の御前だ、それに間違ってもそんなことを言うもんじゃない」
「あ、お説教なら聞き飽きてるんで」
すかさず井上が咎めるも総司はひらひらと手を振り、どこ吹く風だ。
「……俺達も中に入るか」
それまで黙って傍観していた蒼馬が、凛にだけ聞こえるように小さく言った。
「は、はい」
改めて蒼馬に手を繋がれ、凛は試衛館の敷地内に足を踏み入れた。
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