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明治二年(1869)、五月

終わりの始まり 参

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「──ん、りん」

 どこか遠くで、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
 その声は幼く、けれど大人と子供の狭間にあるような、よく知った声だった。

「凛!」
「……っ」

 ゆさゆさと肩を揺すぶられ、加えて強く名を呼ばれた事で凛は驚きと同時に瞼を開けた。
 視界に入った人間は、困惑しきった兄──蒼馬だった。

「は、……? あに、うえ……?」

 しかし、凛の記憶にある蒼馬とは違った。
 きりりとした男らしい眉に、黒曜石こくようせきの瞳を持ち、凛以上に艶のある漆黒の髪。
 すらりとした長駆ちょうくに、しなやかな手足から繰り出される剣戟けんげきが美しい男だった。

「どうした、大丈夫か? どこか打ったか?」

 けれど、目の前で心配そうに問い掛けてくれる兄は、凛の知る

「ん?」

 応えがないことを疑問に思ったのか、蒼馬が小首を傾げる。

「いいえ、何も。……何もありません」

 蒼馬に己の心情が悟られないよう、凛はにこりと笑った。
 言えるわけがない。

(兄上が幼いなんて、きっと夢だ)

 年の頃からして十二、三ほどの蒼馬が「そうか」と笑い返した。


「これでよし」

 ぽん、と凛の小さく可愛らしい膝を叩き、蒼馬は満面の笑みで立ち上がった。

「ありがとう、ございます」

 どうやら自分は知らないうちに怪我をしていたらしく、軽く血が出ていたようだった。
 手当ては必要ない、大丈夫だと何度言っても「傷が残ったらどうする」の一点張りで、凛が折れるしかなくなってしまったのだ。

 目覚めた先は蒼馬が稽古場として使っている広間で、気を失っていたらしい。
 神宮寺家は、古来より神に仕える神主を輩出する家系だ。
 しかし、蒼馬だけは『歌舞伎役者になりたい』と言って、継ぐはずだった家を飛び出してきてしまった。

 今居る場所は父方の伯父が持つ屋敷で、蒼馬はそこで寝起きして日々稽古に勤しんでいるのだ。
 蒼馬が飛び出した理由を、その日のうちに伯父は父に伝えた。

 敬愛する兄からの進言となれば、強くは断れなかったのだろう──二つ返事で神社は次男に継がせると了解を得た。

 そこまでは覚えているが、あれから何年が経ったのだろうか。
 蒼馬の年頃や自分の身なりから、なんとなく予想は出来る。

(今が何年なのか、本当のところは兄上に聞かなければ分からないけれど)

 傍で薬箱を片付けている蒼馬に聞こえないよう、凛はひっそりと溜め息を吐いた。
 何も知らなかった無垢な頃とは違うのだ。

(傷なんか何度も重ねてきたのに)

 凛は小さな自分の手を、そっと天に掲げた。
 蒼馬に手当てをされている短い間だが、何度考えても自分は幼くなってしまったようだ。
 今の凛の手は剣を持つ重みも、人を殺す度胸も、何も知らない。

(この手では、何も持てない。何も……)

 あまりある命の灯火を奪ってきた。
 時には恨まれ、逆上した民から襲われそうにもなった。
 その度自身で応戦し、時には守ってくれる者があったから、凛は決戦の地まで来る事が出来たのだ。

 桐生に追い掛けられ、凛の意識が深い闇の中に沈んだところまでは覚えている。
 ただ、次に目が覚めるとそこは過去の地で、自分を含めて周りも幼くなっていると誰が思うのだろうか。

(まさかだけれど……)

 考えたくもない事実が頭をもたげた時、蒼馬に名を呼ばれた。

「わっ」

 のろのろと顔を上げると何かを投げられ、凛は咄嗟とっさにそれを受け止めた。

おうぎ……?」

 宵闇を閉じ込めたように深く、美しい扇は蒼馬の愛用するものだ。
 凛の手の何倍もあるそれは、丁度太陽に反射してきらきらと輝いている。

「ちゃんと持っててくれ」

 にこりと淡く微笑んだ蒼馬は、そう言うと広間の中央に立ち、稽古を再開しようとする。

(これは……)

 凛は僅かに目を見開いた。

「兄上!」
「うん?」

 そして、気付いた時には蒼馬を呼び止めていた。

「どうした、寂しくなったか」

 仕方ないな、という呆れともつかない声音に凛は嘆息しそうになるが、気力で持ち堪える。
 今は蒼馬の言葉に一喜一憂している場合ではない。

「違います! もう子供じゃないんですから!」
「じゃあどうしたんだ」

 益々分からない、と言ったふうで蒼馬が訊ねる。

「これ、四年の……えーっと。なんと読むのですか?」

 扇のかなめ部分を指差し、曖昧な問いを投げ掛ける。
 およそだが、今の凛は十にも満たない年頃だ。

 その当時は勧んで勉学をしていなかったからか、あまり難しい字は読めなかったのだ。
 その事を覚えていたからこその問いだった。
 そして、今の年号は──

嘉永かえい、だな」

 ゆっくりとした口調で蒼馬が言った。
 小さく彫られた字は職人の彫り方ではなく、寧ろ角張って無骨だ。
 伯父手ずからの贈り物に、これまた手ずから蒼馬に譲った時の年号を彫り留めたのだろう。

 歌舞伎役者になるのならば、という基本中の基本から叩き込まれた。
 日夜伯父から出される題目をこなし、日が沈んでも月が辺りを照らしても、蒼馬は稽古に打ち込んだ。

 その努力の甲斐もあり、やっとこの扇を贈られた事を凛は漠然と覚えていた。
 今が嘉永四年となると、戦争から何年前かおおよその検討は付く。

 しかし、それと同時に段々と自分の状況を飲み込んでいる自覚もあった。
 加えて『自分が過去に居る』という、信じたくない事実まで浮き出てきてしまい、凛は目眩を覚えかける。

「で、それがどうし──凛!?」

 くらりと身体が傾きそうになったのを、蒼馬がすんでのところで支えてくれた。
 このままもう一度意識を手放せば良かったのかもしれないが、状況が変わっていない確信もあった為出来なかった。

 五稜郭で一人泣き濡れていた自分が、どうして違う場所に居るのか。
 優しい兄の姿が、どうして記憶の中よりも幼いのか。

 目覚めて疑問に思ったことが現実味を帯びてきて、吐き気がしそうだが、この現実は最早受け入れるしかなかった。
 無闇矢鱈むやみやたらに人に『ここは何処だ』と聞くよりも、自分が受け入れてしまった方が早い。異端な目を向けられる事は分かっているのだから。

「ご、ごめんなさい。少し体調が優れなくて」

 苦し紛れの言い訳を紡ぎ出す。
 体調が思わしくないのは嘘ではないが、蒼馬の大きな手に支えられ、はたと気付いた。

(ここが本当に過去という事は、私の身体は今どこにあるの……?)

 意識が深い闇に沈みかける中、桐生もこうして支えてくれたはずだった。
 自分が過去に居るのならば、未来──凛の本来の身体はどうなっているのだろうか。

(いや、今考える事はそれじゃない。私が今成すべき事は)

 この世界を、自分の状況を、そして目の前の少年が「蒼馬」であることを受け入れる事。

 話はそれからだった。
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