3 / 23
明治二年(1869)、五月
終わりの始まり 参
しおりを挟む
「──ん、りん」
どこか遠くで、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
その声は幼く、けれど大人と子供の狭間にあるような、よく知った声だった。
「凛!」
「……っ」
ゆさゆさと肩を揺すぶられ、加えて強く名を呼ばれた事で凛は驚きと同時に瞼を開けた。
視界に入った人間は、困惑しきった兄──蒼馬だった。
「は、……? あに、うえ……?」
しかし、凛の記憶にある蒼馬とは違った。
きりりとした男らしい眉に、黒曜石の瞳を持ち、凛以上に艶のある漆黒の髪。
すらりとした長駆に、靱やかな手足から繰り出される剣戟が美しい男だった。
「どうした、大丈夫か? どこか打ったか?」
けれど、目の前で心配そうに問い掛けてくれる兄は、凛の知る兄ではない。
「ん?」
応えがないことを疑問に思ったのか、蒼馬が小首を傾げる。
「いいえ、何も。……何もありません」
蒼馬に己の心情が悟られないよう、凛はにこりと笑った。
言えるわけがない。
(兄上が幼いなんて、きっと夢だ)
年の頃からして十二、三ほどの蒼馬が「そうか」と笑い返した。
「これでよし」
ぽん、と凛の小さく可愛らしい膝を叩き、蒼馬は満面の笑みで立ち上がった。
「ありがとう、ございます」
どうやら自分は知らないうちに怪我をしていたらしく、軽く血が出ていたようだった。
手当ては必要ない、大丈夫だと何度言っても「傷が残ったらどうする」の一点張りで、凛が折れるしかなくなってしまったのだ。
目覚めた先は蒼馬が稽古場として使っている広間で、気を失っていたらしい。
神宮寺家は、古来より神に仕える神主を輩出する家系だ。
しかし、蒼馬だけは『歌舞伎役者になりたい』と言って、継ぐはずだった家を飛び出してきてしまった。
今居る場所は父方の伯父が持つ屋敷で、蒼馬はそこで寝起きして日々稽古に勤しんでいるのだ。
蒼馬が飛び出した理由を、その日のうちに伯父は父に伝えた。
敬愛する兄からの進言となれば、強くは断れなかったのだろう──二つ返事で神社は次男に継がせると了解を得た。
そこまでは覚えているが、あれから何年が経ったのだろうか。
蒼馬の年頃や自分の身なりから、なんとなく予想は出来る。
(今が何年なのか、本当のところは兄上に聞かなければ分からないけれど)
傍で薬箱を片付けている蒼馬に聞こえないよう、凛はひっそりと溜め息を吐いた。
何も知らなかった無垢な頃とは違うのだ。
(傷なんか何度も重ねてきたのに)
凛は小さな自分の手を、そっと天に掲げた。
蒼馬に手当てをされている短い間だが、何度考えても自分は幼くなってしまったようだ。
今の凛の手は剣を持つ重みも、人を殺す度胸も、何も知らない。
(この手では、何も持てない。何も……)
あまりある命の灯火を奪ってきた。
時には恨まれ、逆上した民から襲われそうにもなった。
その度自身で応戦し、時には守ってくれる者があったから、凛は決戦の地まで来る事が出来たのだ。
桐生に追い掛けられ、凛の意識が深い闇の中に沈んだところまでは覚えている。
ただ、次に目が覚めるとそこは過去の地で、自分を含めて周りも幼くなっていると誰が思うのだろうか。
(まさかだけれど……)
考えたくもない事実が頭をもたげた時、蒼馬に名を呼ばれた。
「わっ」
のろのろと顔を上げると何かを投げられ、凛は咄嗟にそれを受け止めた。
「扇……?」
宵闇を閉じ込めたように深く、美しい扇は蒼馬の愛用するものだ。
凛の手の何倍もあるそれは、丁度太陽に反射してきらきらと輝いている。
「ちゃんと持っててくれ」
にこりと淡く微笑んだ蒼馬は、そう言うと広間の中央に立ち、稽古を再開しようとする。
(これは……)
凛は僅かに目を見開いた。
「兄上!」
「うん?」
そして、気付いた時には蒼馬を呼び止めていた。
「どうした、寂しくなったか」
仕方ないな、という呆れともつかない声音に凛は嘆息しそうになるが、気力で持ち堪える。
今は蒼馬の言葉に一喜一憂している場合ではない。
「違います! もう子供じゃないんですから!」
「じゃあどうしたんだ」
益々分からない、と言ったふうで蒼馬が訊ねる。
「これ、四年の……えーっと。なんと読むのですか?」
扇の要部分を指差し、曖昧な問いを投げ掛ける。
およそだが、今の凛は十にも満たない年頃だ。
その当時は勧んで勉学をしていなかったからか、あまり難しい字は読めなかったのだ。
その事を覚えていたからこその問いだった。
そして、今の年号は──
「嘉永、だな」
ゆっくりとした口調で蒼馬が言った。
小さく彫られた字は職人の彫り方ではなく、寧ろ角張って無骨だ。
伯父手ずからの贈り物に、これまた手ずから蒼馬に譲った時の年号を彫り留めたのだろう。
歌舞伎役者になるのならば、という基本中の基本から叩き込まれた。
日夜伯父から出される題目をこなし、日が沈んでも月が辺りを照らしても、蒼馬は稽古に打ち込んだ。
その努力の甲斐もあり、やっとこの扇を贈られた事を凛は漠然と覚えていた。
今が嘉永四年となると、戦争から何年前かおおよその検討は付く。
しかし、それと同時に段々と自分の状況を飲み込んでいる自覚もあった。
加えて『自分が過去に居る』という、信じたくない事実まで浮き出てきてしまい、凛は目眩を覚えかける。
「で、それがどうし──凛!?」
くらりと身体が傾きそうになったのを、蒼馬がすんでのところで支えてくれた。
このままもう一度意識を手放せば良かったのかもしれないが、状況が変わっていない確信もあった為出来なかった。
五稜郭で一人泣き濡れていた自分が、どうして違う場所に居るのか。
優しい兄の姿が、どうして記憶の中よりも幼いのか。
目覚めて疑問に思ったことが現実味を帯びてきて、吐き気がしそうだが、この現実は最早受け入れるしかなかった。
無闇矢鱈に人に『ここは何処だ』と聞くよりも、自分が受け入れてしまった方が早い。異端な目を向けられる事は分かっているのだから。
「ご、ごめんなさい。少し体調が優れなくて」
苦し紛れの言い訳を紡ぎ出す。
体調が思わしくないのは嘘ではないが、蒼馬の大きな手に支えられ、はたと気付いた。
(ここが本当に過去という事は、私の身体は今どこにあるの……?)
意識が深い闇に沈みかける中、桐生もこうして支えてくれたはずだった。
自分が過去に居るのならば、未来──凛の本来の身体はどうなっているのだろうか。
(いや、今考える事はそれじゃない。私が今成すべき事は)
この世界を、自分の状況を、そして目の前の少年が「蒼馬」であることを受け入れる事。
話はそれからだった。
どこか遠くで、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
その声は幼く、けれど大人と子供の狭間にあるような、よく知った声だった。
「凛!」
「……っ」
ゆさゆさと肩を揺すぶられ、加えて強く名を呼ばれた事で凛は驚きと同時に瞼を開けた。
視界に入った人間は、困惑しきった兄──蒼馬だった。
「は、……? あに、うえ……?」
しかし、凛の記憶にある蒼馬とは違った。
きりりとした男らしい眉に、黒曜石の瞳を持ち、凛以上に艶のある漆黒の髪。
すらりとした長駆に、靱やかな手足から繰り出される剣戟が美しい男だった。
「どうした、大丈夫か? どこか打ったか?」
けれど、目の前で心配そうに問い掛けてくれる兄は、凛の知る兄ではない。
「ん?」
応えがないことを疑問に思ったのか、蒼馬が小首を傾げる。
「いいえ、何も。……何もありません」
蒼馬に己の心情が悟られないよう、凛はにこりと笑った。
言えるわけがない。
(兄上が幼いなんて、きっと夢だ)
年の頃からして十二、三ほどの蒼馬が「そうか」と笑い返した。
「これでよし」
ぽん、と凛の小さく可愛らしい膝を叩き、蒼馬は満面の笑みで立ち上がった。
「ありがとう、ございます」
どうやら自分は知らないうちに怪我をしていたらしく、軽く血が出ていたようだった。
手当ては必要ない、大丈夫だと何度言っても「傷が残ったらどうする」の一点張りで、凛が折れるしかなくなってしまったのだ。
目覚めた先は蒼馬が稽古場として使っている広間で、気を失っていたらしい。
神宮寺家は、古来より神に仕える神主を輩出する家系だ。
しかし、蒼馬だけは『歌舞伎役者になりたい』と言って、継ぐはずだった家を飛び出してきてしまった。
今居る場所は父方の伯父が持つ屋敷で、蒼馬はそこで寝起きして日々稽古に勤しんでいるのだ。
蒼馬が飛び出した理由を、その日のうちに伯父は父に伝えた。
敬愛する兄からの進言となれば、強くは断れなかったのだろう──二つ返事で神社は次男に継がせると了解を得た。
そこまでは覚えているが、あれから何年が経ったのだろうか。
蒼馬の年頃や自分の身なりから、なんとなく予想は出来る。
(今が何年なのか、本当のところは兄上に聞かなければ分からないけれど)
傍で薬箱を片付けている蒼馬に聞こえないよう、凛はひっそりと溜め息を吐いた。
何も知らなかった無垢な頃とは違うのだ。
(傷なんか何度も重ねてきたのに)
凛は小さな自分の手を、そっと天に掲げた。
蒼馬に手当てをされている短い間だが、何度考えても自分は幼くなってしまったようだ。
今の凛の手は剣を持つ重みも、人を殺す度胸も、何も知らない。
(この手では、何も持てない。何も……)
あまりある命の灯火を奪ってきた。
時には恨まれ、逆上した民から襲われそうにもなった。
その度自身で応戦し、時には守ってくれる者があったから、凛は決戦の地まで来る事が出来たのだ。
桐生に追い掛けられ、凛の意識が深い闇の中に沈んだところまでは覚えている。
ただ、次に目が覚めるとそこは過去の地で、自分を含めて周りも幼くなっていると誰が思うのだろうか。
(まさかだけれど……)
考えたくもない事実が頭をもたげた時、蒼馬に名を呼ばれた。
「わっ」
のろのろと顔を上げると何かを投げられ、凛は咄嗟にそれを受け止めた。
「扇……?」
宵闇を閉じ込めたように深く、美しい扇は蒼馬の愛用するものだ。
凛の手の何倍もあるそれは、丁度太陽に反射してきらきらと輝いている。
「ちゃんと持っててくれ」
にこりと淡く微笑んだ蒼馬は、そう言うと広間の中央に立ち、稽古を再開しようとする。
(これは……)
凛は僅かに目を見開いた。
「兄上!」
「うん?」
そして、気付いた時には蒼馬を呼び止めていた。
「どうした、寂しくなったか」
仕方ないな、という呆れともつかない声音に凛は嘆息しそうになるが、気力で持ち堪える。
今は蒼馬の言葉に一喜一憂している場合ではない。
「違います! もう子供じゃないんですから!」
「じゃあどうしたんだ」
益々分からない、と言ったふうで蒼馬が訊ねる。
「これ、四年の……えーっと。なんと読むのですか?」
扇の要部分を指差し、曖昧な問いを投げ掛ける。
およそだが、今の凛は十にも満たない年頃だ。
その当時は勧んで勉学をしていなかったからか、あまり難しい字は読めなかったのだ。
その事を覚えていたからこその問いだった。
そして、今の年号は──
「嘉永、だな」
ゆっくりとした口調で蒼馬が言った。
小さく彫られた字は職人の彫り方ではなく、寧ろ角張って無骨だ。
伯父手ずからの贈り物に、これまた手ずから蒼馬に譲った時の年号を彫り留めたのだろう。
歌舞伎役者になるのならば、という基本中の基本から叩き込まれた。
日夜伯父から出される題目をこなし、日が沈んでも月が辺りを照らしても、蒼馬は稽古に打ち込んだ。
その努力の甲斐もあり、やっとこの扇を贈られた事を凛は漠然と覚えていた。
今が嘉永四年となると、戦争から何年前かおおよその検討は付く。
しかし、それと同時に段々と自分の状況を飲み込んでいる自覚もあった。
加えて『自分が過去に居る』という、信じたくない事実まで浮き出てきてしまい、凛は目眩を覚えかける。
「で、それがどうし──凛!?」
くらりと身体が傾きそうになったのを、蒼馬がすんでのところで支えてくれた。
このままもう一度意識を手放せば良かったのかもしれないが、状況が変わっていない確信もあった為出来なかった。
五稜郭で一人泣き濡れていた自分が、どうして違う場所に居るのか。
優しい兄の姿が、どうして記憶の中よりも幼いのか。
目覚めて疑問に思ったことが現実味を帯びてきて、吐き気がしそうだが、この現実は最早受け入れるしかなかった。
無闇矢鱈に人に『ここは何処だ』と聞くよりも、自分が受け入れてしまった方が早い。異端な目を向けられる事は分かっているのだから。
「ご、ごめんなさい。少し体調が優れなくて」
苦し紛れの言い訳を紡ぎ出す。
体調が思わしくないのは嘘ではないが、蒼馬の大きな手に支えられ、はたと気付いた。
(ここが本当に過去という事は、私の身体は今どこにあるの……?)
意識が深い闇に沈みかける中、桐生もこうして支えてくれたはずだった。
自分が過去に居るのならば、未来──凛の本来の身体はどうなっているのだろうか。
(いや、今考える事はそれじゃない。私が今成すべき事は)
この世界を、自分の状況を、そして目の前の少年が「蒼馬」であることを受け入れる事。
話はそれからだった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サディストの飼主さんに飼われてるマゾの日記。
風
恋愛
サディストの飼主さんに飼われてるマゾヒストのペット日記。
飼主さんが大好きです。
グロ表現、
性的表現もあります。
行為は「鬼畜系」なので苦手な人は見ないでください。
基本的に苦痛系のみですが
飼主さんとペットの関係は甘々です。
マゾ目線Only。
フィクションです。
※ノンフィクションの方にアップしてたけど、混乱させそうなので別にしました。
下品な男に下品に調教される清楚だった図書委員の話
神谷 愛
恋愛
クラスで目立つこともない彼女。半ば押し付けれられる形でなった図書委員の仕事のなかで出会った体育教師に堕とされる話。
つまらない学校、つまらない日常の中の唯一のスパイスである体育教師に身も心も墜ちていくハートフルストーリー。ある時は図書室で、ある時は職員室で、様々な場所で繰り広げられる終わりのない蜜月の軌跡。
歪んだ愛と実らぬ恋の衝突
ノクターンノベルズにもある
☆とブックマークをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
愛娘(JS5)とのエッチな習慣に俺の我慢は限界
レディX
恋愛
娘の美奈は(JS5)本当に可愛い。そしてファザコンだと思う。
毎朝毎晩のトイレに一緒に入り、
お風呂の後には乾燥肌の娘の体に保湿クリームを塗ってあげる。特にお尻とお股には念入りに。ここ最近はバックからお尻の肉を鷲掴みにしてお尻の穴もオマンコの穴もオシッコ穴も丸見えにして閉じたり開いたり。
そうしてたらお股からクチュクチュ水音がするようになってきた。
お風呂上がりのいい匂いと共にさっきしたばかりのオシッコの匂い、そこに別の濃厚な匂いが漂うようになってきている。
でも俺は娘にイタズラしまくってるくせに最後の一線だけは超えない事を自分に誓っていた。
でも大丈夫かなぁ。頑張れ、俺の理性。
【R18 大人女性向け】会社の飲み会帰りに年下イケメンにお持ち帰りされちゃいました
utsugi
恋愛
職場のイケメン後輩に飲み会帰りにお持ち帰りされちゃうお話です。
がっつりR18です。18歳未満の方は閲覧をご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる