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第三部 四章
和解の果てに 5
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ジョシュアがメイドに連れられて行くのを見送ると、マリアは反対方向へ向けて歩き出した。
「え、ちょ」
このまま部屋に入るのかと思っていたため、アルトは慌てて後を追った。
頭一つ分ほどの身長差があるが、マリアはこちらの制止も聞かず背筋を伸ばしてずんずんと歩く。
時間が無いというのは分かっていても、こうも何も言わずにどこかへ行かれては困惑してしまう。
ただ、すぐに追い付く距離だったのを幸いに、アルトは小走りになりながら背後から声を掛けた。
「あの、どこへ行くんですか?」
「──貴方は王配殿下というご身分で、私はいち辺境伯の娘。敬語は結構です」
年頃の女性と話す機会はパーティー以外でほとんど無いため、ついいつもの癖が出てしまっていたようだ。
「あ、ごめん、なさい……?」
元の世界ではあまり異性と接する事が無かったというのもあるが、こうも直接諫められるのは新鮮で少し声が裏返って返事をする。
「えっ、と」
このままマリアの後ろを着いていくか、それとも横を歩けばいいのかしばらく迷う。
未婚の女性にどう対応したらいいのか分からず、こうなるならば一から礼儀作法を学ばなければいけないと思った。
「……王太子殿下の元です」
背後で考え込んでいるアルトに気付いてか、マリアは足を止めるとゆっくりとした声で言った。
「エルも……知った方がいい事、なのか?」
ふと聞こえた声にそれまでの思考を止め、怖々と問い掛ける。
ジョシュアにも言えないほどネロは遠くへ出向いている、そう言っているようにも聞こえた。
しかしマリアはアルトの問いに小さく首を振り、前を向いたまま続ける。
「正確にはお兄様の希望です。そうでなくとも殿下のお耳に入れておかなければ、後々面倒な事になりますから」
「面倒……?」
「ええ」
それきりマリアは口を閉じ、思い出したように歩を進めた。
足下までたっぷりとフリルを使ったドレスだというのに、先程よりも遥かにしっかりとした速い足取りで廊下を歩いていく。
「ちょ、ちょっとマリア嬢! ゆっくり歩きません……!?」
小動物を、それこそジョシュアを追い掛ける時のようにアルトは必死で後を追った。
半ば早歩きになりながら、アルトは頭の片隅で思う。
とてもではないが、こちらからマリアに話し掛ける勇気はない。
見えない壁でも張っているのか、会話をする隙を与えてくれないのだ。
ただ、先程のような身体を鋭利なもので刺し貫かれるような恐ろしさも、身震いしてしまうほどの寒気も感じなかった。
(気のせい、だった……のか?)
どこか釈然としない気持ちを抱え、マリアの後を追っているといつの間にか執務室の前に着いていた。
エルは国王の代わりに政務を行っているため、自室ではなく専らこの部屋に籠っているようだ。
いつでも来てくれていいと言ってくれたが、邪魔をする訳にもいかず今日まで脚を向けられずにいた。
「王配殿下」
先に着いていたマリアがこちらに視線を向け、ややあって唇を開く。
「申し訳ありませんが、先に入って頂いてもよろしいでしょうか」
私では驚かせるかもしれませんから、とマリアは瞳を伏せて続ける。
「あ、ああ。分かった」
未婚の女性がなんの断りもなく王太子の元へ向かうこと自体、あまり褒められたものではないのだろう。
「……エル。アルトだけど」
そっと扉を叩いて控えめに声を掛けると、すぐに中から何かが立て続けに落ちる音がした。
「──入って」
しかし物音がしたことを感じさせないほど静かな、どこか上擦った声が執務室の中から響く。
「ごめん、邪魔して。マリア嬢を連れて──っ!?」
身体を滑り込ませるようにして中へ入ると、その光景にアルトはじわりと目を見開いた。
「な、なんだよこれ……!?」
普段はライアンが使っているらしい机の上には、膨大な量の書類や本がこれでもかと積まれており、椅子に座っているであろうエルの顔が見えないほどだ。
その机の一角は雪崩でも起きたかのようで、床には書類が散らばっている。
エルは項垂れたままで立ち上がることはおろか、落ちたものを拾う気力も無いようだった。
「……ん」
こちらを見ないまま軽く手招きされ、どうやら傍に来てくれと言いたいらしい。
アルトは書類や本を踏まないよう気を付けながら、なんとか机の端に手を突くと続けた。
「言ってくれたら手伝ったのに……これ、一人でやってたのか?」
おおかたの政務は終わっていると思っていたため、部屋の惨状に困惑してしまう。
あまり国王側の執務室へ足を出向けないというのもあるが、それでも自分ならここまでの量を溜めようとは思わない。
つくづく元の世界での癖が抜け切っていないなと思いつつ、エルは今の今までこの量を一人でこなしていたと見受けられる。
「──だ」
「ん?」
ぽつりと落ちた小さな言葉に、アルトは首を傾げた。
「さくま、だ」
「え、っ」
ごく小さな声で名を呼ばれると同時にぐいと手を引かれ、踏ん張ろうとするよりも早くエルの腕の中に収まった。
いつも花の香りを纏っている男には珍しく、インクと少しの汗が鼻腔を擽る。
「ちょ、エルヴィズ……!?」
慌てて逃れようともがこうにも、そもそもただの一度もエルに腕力差で勝った事がなかった。
「……少しだけこうさせて」
反論するために口を開こうとするも、しっかりと抱き締められながら耳元で言われては堪らない。
柔らかな黒髪がさらりと揺れ、首筋に唇を寄せたかと思えば肩口に擦り寄られる。
その仕草がまるで幼い子供のようで、どこかむず痒い感情が頭をもたげた。
「そういうの、……ずるい」
王宮内に居るとはいえ、実に四日ぶりの触れ合いだ。
会話らしい会話も今日まで無いに等しく、甘えるように言われては何も言えなくなる。
アルトはエルに凭れ掛かるように体勢を変えると、控えめに腕を回した。
服越しに身体が密着し、触れ合ったところから温かくなっていく。
次第に速くなる心臓の音が聞こえやしないか心配になったが、それ以上に気がかりなことがあった。
(ちょっと痩せた……?)
エルは元々細身だが、心做しか身体が薄くなっているように思う。
それもこれも連日の疲労が蓄積している所以だと思うが、ほとんど寝ていないのに加えあまり食べていないのだろうか。
「エル……」
「──あの、もうよろしいでしょうか」
「っ……!」
不意に静かな声が部屋の外から聞こえ、アルトは小さく声を漏らす。
先程入った時に閉まっていなかったのか、かすかに開いた扉の隙間からマリアが顔を覗かせていた。
じっとこちらを見つめてくる瞳は仄暗さを含み、淡い笑みを浮かべているのが見えた。
「ぁ、ごめ……」
羞恥よりも遥かに強い悪寒が背筋に走り、アルトは無意識に謝罪の言葉を口にしようとする。
「──大丈夫」
するとエルの手の平が瞳を塞ぎ、目の前が暗くなった。
ぽんぽんと安心させるように背中を優しく叩かれ、たったそれだけでマリアに対する不安が霧散していく。
「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ない。……それで、私に何か用があるのでしょうか」
マリア様、とエルの冷たくも静かな声が執務室に響いた。
久しぶりの逢瀬の邪魔をされて苛立っているような、そんな声音にも感じられた。
しかしマリアは少しも臆する事なく笑みを形作り、ゆっくりと頭を下げる。
「こちらこそお邪魔をしてしまったようで、心より謝罪申し上げます。王太子殿下に一つ……いえ、二つほどお許し頂きたく参った次第です」
マリアはそろりと執務室に脚を踏み入れると、よく通る声で続けた。
「どうやら兄が単独で街へ出向いたようなのです」
その言葉に、ぴくりとエルの肩が揺れる。
(ネロが……?)
まさか王宮にいないとは思わず、暗闇の中ぱちぱちと目を瞬かせる。
今は最高権力者である国王が不在で、街でも何が起きるか分からないため、よっぽどの用がない限り外へは出るな──と戒厳令を敷いている。
それは王族も例外ではなく、公務はもちろんのこと街への視察も禁じていた。
アルトはアルトで辺境伯らが滞在するようになってから公爵邸にすら出向けておらず、現実味が湧かないのだが。
しかし現に王宮のバルコニーから街を見るとほとんど人の気配はなく、閑散としている。
ネロの取った行動に違和感を覚えつつも、アルトはそっとエルの手を外させて身体を起こした。
こちらを引き止める素振りはなかったが、まだ離れ難いのか服の裾をかすかに握られる。
そんな素振りも可愛いなと思いつつ、アルトは意識を切り替えた。
エルのことも気がかりだが、今はマリアの言葉に集中した方が良さそうだ。
マリアは静かに目を伏せており、しかし王太子から何も返答がないと分かるとまた口を開く。
「……今朝、『街の端へ行ってくる』と伝言を残していかれました。少し問いただしたのですが、どうやら周辺で何かが起こっている、と情報を摑んだようなのです」
本当か定かではありませんが、とマリアは一言断ってから言うと一歩脚を進めた。
柔らかくウェーブのかかった黒髪が揺れ動き、一歩二歩と近付くたびに部屋の空気がぴんと張り詰める。
やがてマリアは執務机の前で脚を止め、ふとアルトと視線が交わった。
自室の前で対面した時と同様、柔らかな微笑みを向けられる。
「うん……?」
その表情に邪気や怖気はないが、まだかすかな違和感が拭いきれない。
訳も分からないまま小さく笑みを返すと、ふいと何事もなかったように視線を逸らされた。
(なんなんだ……?)
マリアの性格はもちろんのこと、何を考えているのかまるで分からない。
ネロがいないとジョシュアから聞かされたのと同時に、ほとんどすぐにマリアが現れたのはあまりにもできすぎているのではないか。
この状況には何か裏がある、そう思うには十分だった。
(考え過ぎかもしれないけど)
兄妹でエルを嵌めようとしていると言われれば、それを疑わない方がおかしい。
もっとも、知り合って日の浅い己の考えなど当たっていない可能性の方が高いのだが。
「──つきましては私が兄を連れ戻す許可と、王配殿下と共に街へ出る許可を頂きたく思います」
小さな赤い唇から紡がれた言葉に、エルがかすかに息を呑んだのが分かった。
「どんなに遅くとも、あの男のことです。日付けが変わる前に戻ると思いますが」
そこで言葉を切ると、ややあってエルは笑みを浮かべた。
「……わざわざ貴方が出向く必要も、まして王配と共に街へ向かう必要もないかと」
口元は笑っているが、美しい水色の瞳が『あまりふざけた事を言うな』と暗に言っている。
建前上はマリアの身の安全を案じているようで、その実エルはアルトを街に出させたくないのだ。
それを分かっているからこそ、無闇に口を挟めない。
しかしそう言われるのは予想通りだったのか、目の前の女性の表情はあまり変わらない。
「けれど、私は周辺の土地勘が無いのです。誰かに案内を頼もうと思ったのですが……殿下はお忙しいでしょうし」
「っ」
マリアは緩く首を傾げ、エルを見てから一瞬だけこちらを見つめた──気がした。
まるで蛇に睨まれているような錯覚を覚え、無意識にエルの傍に身体を寄せる。
そんなアルトの不安を察したのか、軽く腰を抱かれる。
その仕草に大丈夫と言われている気がして安心する自分と、やはりマリアは危険だと思う自分がする。
(でも……エルがいてくれるから)
なんとか身体の震えを抑えられている自分に驚き、それと同時に気持ちを奮い立たせた。
あまり気弱になっていては、それこそエルを不安にさせると理解しているからだ。
「一度、衛兵や使用人の方も考えたのですが、私の我儘に付き合わせてはいけないでしょう?」
王家と血は繋がっていても所詮は部外者ですから、とマリアはどこか他人事のように続ける。
「貴方はきっとお許しにならないと分かっておりました。ただ、今日中に兄を連れ戻さなければいけないのは事実です」
マリアは今一度、今度は少し大股で歩を進めた。
机からひと一人分の距離を空けたところて脚を止めると、自然な所作でお辞儀をする。
「もし最悪の事態が起きた場合、困るのはエルヴィズ様だ──これは兄上からの伝言です」
マリアはそれまでの淡い笑みを消し、蠱惑的に微笑んだ。
「え、ちょ」
このまま部屋に入るのかと思っていたため、アルトは慌てて後を追った。
頭一つ分ほどの身長差があるが、マリアはこちらの制止も聞かず背筋を伸ばしてずんずんと歩く。
時間が無いというのは分かっていても、こうも何も言わずにどこかへ行かれては困惑してしまう。
ただ、すぐに追い付く距離だったのを幸いに、アルトは小走りになりながら背後から声を掛けた。
「あの、どこへ行くんですか?」
「──貴方は王配殿下というご身分で、私はいち辺境伯の娘。敬語は結構です」
年頃の女性と話す機会はパーティー以外でほとんど無いため、ついいつもの癖が出てしまっていたようだ。
「あ、ごめん、なさい……?」
元の世界ではあまり異性と接する事が無かったというのもあるが、こうも直接諫められるのは新鮮で少し声が裏返って返事をする。
「えっ、と」
このままマリアの後ろを着いていくか、それとも横を歩けばいいのかしばらく迷う。
未婚の女性にどう対応したらいいのか分からず、こうなるならば一から礼儀作法を学ばなければいけないと思った。
「……王太子殿下の元です」
背後で考え込んでいるアルトに気付いてか、マリアは足を止めるとゆっくりとした声で言った。
「エルも……知った方がいい事、なのか?」
ふと聞こえた声にそれまでの思考を止め、怖々と問い掛ける。
ジョシュアにも言えないほどネロは遠くへ出向いている、そう言っているようにも聞こえた。
しかしマリアはアルトの問いに小さく首を振り、前を向いたまま続ける。
「正確にはお兄様の希望です。そうでなくとも殿下のお耳に入れておかなければ、後々面倒な事になりますから」
「面倒……?」
「ええ」
それきりマリアは口を閉じ、思い出したように歩を進めた。
足下までたっぷりとフリルを使ったドレスだというのに、先程よりも遥かにしっかりとした速い足取りで廊下を歩いていく。
「ちょ、ちょっとマリア嬢! ゆっくり歩きません……!?」
小動物を、それこそジョシュアを追い掛ける時のようにアルトは必死で後を追った。
半ば早歩きになりながら、アルトは頭の片隅で思う。
とてもではないが、こちらからマリアに話し掛ける勇気はない。
見えない壁でも張っているのか、会話をする隙を与えてくれないのだ。
ただ、先程のような身体を鋭利なもので刺し貫かれるような恐ろしさも、身震いしてしまうほどの寒気も感じなかった。
(気のせい、だった……のか?)
どこか釈然としない気持ちを抱え、マリアの後を追っているといつの間にか執務室の前に着いていた。
エルは国王の代わりに政務を行っているため、自室ではなく専らこの部屋に籠っているようだ。
いつでも来てくれていいと言ってくれたが、邪魔をする訳にもいかず今日まで脚を向けられずにいた。
「王配殿下」
先に着いていたマリアがこちらに視線を向け、ややあって唇を開く。
「申し訳ありませんが、先に入って頂いてもよろしいでしょうか」
私では驚かせるかもしれませんから、とマリアは瞳を伏せて続ける。
「あ、ああ。分かった」
未婚の女性がなんの断りもなく王太子の元へ向かうこと自体、あまり褒められたものではないのだろう。
「……エル。アルトだけど」
そっと扉を叩いて控えめに声を掛けると、すぐに中から何かが立て続けに落ちる音がした。
「──入って」
しかし物音がしたことを感じさせないほど静かな、どこか上擦った声が執務室の中から響く。
「ごめん、邪魔して。マリア嬢を連れて──っ!?」
身体を滑り込ませるようにして中へ入ると、その光景にアルトはじわりと目を見開いた。
「な、なんだよこれ……!?」
普段はライアンが使っているらしい机の上には、膨大な量の書類や本がこれでもかと積まれており、椅子に座っているであろうエルの顔が見えないほどだ。
その机の一角は雪崩でも起きたかのようで、床には書類が散らばっている。
エルは項垂れたままで立ち上がることはおろか、落ちたものを拾う気力も無いようだった。
「……ん」
こちらを見ないまま軽く手招きされ、どうやら傍に来てくれと言いたいらしい。
アルトは書類や本を踏まないよう気を付けながら、なんとか机の端に手を突くと続けた。
「言ってくれたら手伝ったのに……これ、一人でやってたのか?」
おおかたの政務は終わっていると思っていたため、部屋の惨状に困惑してしまう。
あまり国王側の執務室へ足を出向けないというのもあるが、それでも自分ならここまでの量を溜めようとは思わない。
つくづく元の世界での癖が抜け切っていないなと思いつつ、エルは今の今までこの量を一人でこなしていたと見受けられる。
「──だ」
「ん?」
ぽつりと落ちた小さな言葉に、アルトは首を傾げた。
「さくま、だ」
「え、っ」
ごく小さな声で名を呼ばれると同時にぐいと手を引かれ、踏ん張ろうとするよりも早くエルの腕の中に収まった。
いつも花の香りを纏っている男には珍しく、インクと少しの汗が鼻腔を擽る。
「ちょ、エルヴィズ……!?」
慌てて逃れようともがこうにも、そもそもただの一度もエルに腕力差で勝った事がなかった。
「……少しだけこうさせて」
反論するために口を開こうとするも、しっかりと抱き締められながら耳元で言われては堪らない。
柔らかな黒髪がさらりと揺れ、首筋に唇を寄せたかと思えば肩口に擦り寄られる。
その仕草がまるで幼い子供のようで、どこかむず痒い感情が頭をもたげた。
「そういうの、……ずるい」
王宮内に居るとはいえ、実に四日ぶりの触れ合いだ。
会話らしい会話も今日まで無いに等しく、甘えるように言われては何も言えなくなる。
アルトはエルに凭れ掛かるように体勢を変えると、控えめに腕を回した。
服越しに身体が密着し、触れ合ったところから温かくなっていく。
次第に速くなる心臓の音が聞こえやしないか心配になったが、それ以上に気がかりなことがあった。
(ちょっと痩せた……?)
エルは元々細身だが、心做しか身体が薄くなっているように思う。
それもこれも連日の疲労が蓄積している所以だと思うが、ほとんど寝ていないのに加えあまり食べていないのだろうか。
「エル……」
「──あの、もうよろしいでしょうか」
「っ……!」
不意に静かな声が部屋の外から聞こえ、アルトは小さく声を漏らす。
先程入った時に閉まっていなかったのか、かすかに開いた扉の隙間からマリアが顔を覗かせていた。
じっとこちらを見つめてくる瞳は仄暗さを含み、淡い笑みを浮かべているのが見えた。
「ぁ、ごめ……」
羞恥よりも遥かに強い悪寒が背筋に走り、アルトは無意識に謝罪の言葉を口にしようとする。
「──大丈夫」
するとエルの手の平が瞳を塞ぎ、目の前が暗くなった。
ぽんぽんと安心させるように背中を優しく叩かれ、たったそれだけでマリアに対する不安が霧散していく。
「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ない。……それで、私に何か用があるのでしょうか」
マリア様、とエルの冷たくも静かな声が執務室に響いた。
久しぶりの逢瀬の邪魔をされて苛立っているような、そんな声音にも感じられた。
しかしマリアは少しも臆する事なく笑みを形作り、ゆっくりと頭を下げる。
「こちらこそお邪魔をしてしまったようで、心より謝罪申し上げます。王太子殿下に一つ……いえ、二つほどお許し頂きたく参った次第です」
マリアはそろりと執務室に脚を踏み入れると、よく通る声で続けた。
「どうやら兄が単独で街へ出向いたようなのです」
その言葉に、ぴくりとエルの肩が揺れる。
(ネロが……?)
まさか王宮にいないとは思わず、暗闇の中ぱちぱちと目を瞬かせる。
今は最高権力者である国王が不在で、街でも何が起きるか分からないため、よっぽどの用がない限り外へは出るな──と戒厳令を敷いている。
それは王族も例外ではなく、公務はもちろんのこと街への視察も禁じていた。
アルトはアルトで辺境伯らが滞在するようになってから公爵邸にすら出向けておらず、現実味が湧かないのだが。
しかし現に王宮のバルコニーから街を見るとほとんど人の気配はなく、閑散としている。
ネロの取った行動に違和感を覚えつつも、アルトはそっとエルの手を外させて身体を起こした。
こちらを引き止める素振りはなかったが、まだ離れ難いのか服の裾をかすかに握られる。
そんな素振りも可愛いなと思いつつ、アルトは意識を切り替えた。
エルのことも気がかりだが、今はマリアの言葉に集中した方が良さそうだ。
マリアは静かに目を伏せており、しかし王太子から何も返答がないと分かるとまた口を開く。
「……今朝、『街の端へ行ってくる』と伝言を残していかれました。少し問いただしたのですが、どうやら周辺で何かが起こっている、と情報を摑んだようなのです」
本当か定かではありませんが、とマリアは一言断ってから言うと一歩脚を進めた。
柔らかくウェーブのかかった黒髪が揺れ動き、一歩二歩と近付くたびに部屋の空気がぴんと張り詰める。
やがてマリアは執務机の前で脚を止め、ふとアルトと視線が交わった。
自室の前で対面した時と同様、柔らかな微笑みを向けられる。
「うん……?」
その表情に邪気や怖気はないが、まだかすかな違和感が拭いきれない。
訳も分からないまま小さく笑みを返すと、ふいと何事もなかったように視線を逸らされた。
(なんなんだ……?)
マリアの性格はもちろんのこと、何を考えているのかまるで分からない。
ネロがいないとジョシュアから聞かされたのと同時に、ほとんどすぐにマリアが現れたのはあまりにもできすぎているのではないか。
この状況には何か裏がある、そう思うには十分だった。
(考え過ぎかもしれないけど)
兄妹でエルを嵌めようとしていると言われれば、それを疑わない方がおかしい。
もっとも、知り合って日の浅い己の考えなど当たっていない可能性の方が高いのだが。
「──つきましては私が兄を連れ戻す許可と、王配殿下と共に街へ出る許可を頂きたく思います」
小さな赤い唇から紡がれた言葉に、エルがかすかに息を呑んだのが分かった。
「どんなに遅くとも、あの男のことです。日付けが変わる前に戻ると思いますが」
そこで言葉を切ると、ややあってエルは笑みを浮かべた。
「……わざわざ貴方が出向く必要も、まして王配と共に街へ向かう必要もないかと」
口元は笑っているが、美しい水色の瞳が『あまりふざけた事を言うな』と暗に言っている。
建前上はマリアの身の安全を案じているようで、その実エルはアルトを街に出させたくないのだ。
それを分かっているからこそ、無闇に口を挟めない。
しかしそう言われるのは予想通りだったのか、目の前の女性の表情はあまり変わらない。
「けれど、私は周辺の土地勘が無いのです。誰かに案内を頼もうと思ったのですが……殿下はお忙しいでしょうし」
「っ」
マリアは緩く首を傾げ、エルを見てから一瞬だけこちらを見つめた──気がした。
まるで蛇に睨まれているような錯覚を覚え、無意識にエルの傍に身体を寄せる。
そんなアルトの不安を察したのか、軽く腰を抱かれる。
その仕草に大丈夫と言われている気がして安心する自分と、やはりマリアは危険だと思う自分がする。
(でも……エルがいてくれるから)
なんとか身体の震えを抑えられている自分に驚き、それと同時に気持ちを奮い立たせた。
あまり気弱になっていては、それこそエルを不安にさせると理解しているからだ。
「一度、衛兵や使用人の方も考えたのですが、私の我儘に付き合わせてはいけないでしょう?」
王家と血は繋がっていても所詮は部外者ですから、とマリアはどこか他人事のように続ける。
「貴方はきっとお許しにならないと分かっておりました。ただ、今日中に兄を連れ戻さなければいけないのは事実です」
マリアは今一度、今度は少し大股で歩を進めた。
机からひと一人分の距離を空けたところて脚を止めると、自然な所作でお辞儀をする。
「もし最悪の事態が起きた場合、困るのはエルヴィズ様だ──これは兄上からの伝言です」
マリアはそれまでの淡い笑みを消し、蠱惑的に微笑んだ。
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