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第三部 三章
貴方は俺のもの 2
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「アルトにぃ、はやくはやく!」
庭園に行くのが楽しみなのか、ジョシュアはやや小走りで廊下を進んでいた。
「そんなに急がなくてもいいんだぞ?」
アルトは幼子の少し後ろを歩きながら、ジョシュアに声を掛ける。
あまり急いでしまうと転んでしまうため、こちらとしては気が気ではなかった。
「でも……はやくしないと、おひさまなくなっちゃうもん」
言いながらジョシュアが振り向き、じっと見上げてくる。
真正面から見つめられると、その容姿も相俟ってエルを彷彿とさせた。
(違うって言えないのが、もどかしい)
瞳の色は父親や祖父と同じ紫なのに、容姿はエルに似ているという事実がアルトの胸を刺す。
ジョシュアと過ごす日々が長くなる度に『エルの子供ではないか』という、あまり信じたくない事が頭をもたげているのだ。
有り得ないと思おうとしても、一度そう思ってしまった固定観念はすぐに覆せるものではないのだろう。
「……じゃあおいで。そしたらすぐに着くだろ?」
アルトはそれまでの考えを打ち消すように軽く頭を振った後、口元に淡く笑みを浮かべてその場に膝を突いた。
「うんっ!」
ジョシュアに向けて両手を広げると、すぐさまジョシュアはアルトの腕の中に収まる。
ぎゅうと抱き着き、小動物がするように首筋に擦り寄られるのも慣れたものだ。
ぽんぽんとジョシュアの小さな背中をあやしながら、アルトは庭園に続く廊下を歩く。
ネロの前では声が震えないよう気を付けていたが、昨日の事があるからか警戒してしまう。
(あいつは俺をどうしたいんだろう)
どこかのほほんとした雰囲気を纏い、しかしもう一度ネロの琴線に触れてしまえば昨日のような豹変をする事は確実だ。
それが昨日の結果で、あと少しノアが遅ければ──いやジョシュアが起きてくれていれば、ああはならなかったはずだ。
そうアルトは結論付けたが、ネロが何を考えているか分からないのは変わらない。
「ととさまきた!」
「ん?」
ジョシュアの声を追って背後を振り向くと、ゆったりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる男の姿が見えた。
「良かった、まだ近くに居てくれて」
ネロはアルトの隣りまでやってくると、淡く微笑んで続ける。
「メイドにお茶の用意を頼んできたんだ。だから急がなくても大丈夫だよ」
「そ、そうなのか。ごめんな、わざわざ」
王配である自分が頼まなければならないのに、とは続けられなかった。
アルトを見つめてくる紫の瞳が、どうしてか仄暗い色を帯びているように見えたからだ。
「沢山作って持っていくから待ってて、って言ってた。ゆっくりお散歩出来るね、ジョシュ」
アルトの腕に抱かれているジョシュアの頭を撫で、ネロが言った。
「おかし、たくさん?」
「うん、ジョシュが好きなクッキーも焼いてくれるって」
「やったぁ!」
その言葉を聞くと同時に、ジョシュアが大きく手を挙げる。
「こら、落ちるぞ」
アルトは慌ててジョシュアを抱き締め、ぽんと軽く頭を撫でる。
(あれ)
すると遠くから長身の人間が二人歩いて来るのが見え、アルトは反射的にネロの背後に隠れた。
「アルト? どうしたの?」
唐突な行動にネロは困惑した表情を見せており、ジョシュアもきょとんとしている。
「あ、いや……」
なんでもない、と続けようとしていると、その二人がすぐ傍を通り過ぎた。
王宮には使用人だけでなく貴族らが行き交っているため、ちらほらと知っている顔がある。
しかしなぜこんな行動をしようと思ったのか、自分でも分からなかった。
(隠れる必要なんかないだろ。気まずい相手なんかいない、し)
けれどすぐに脳裏にはエルの顔が浮かび、アルトはきゅうと唇を噛み締める。
朝からずっとこれでは、何もできないのと同じだ。
考えないように努めようとしても、ぐるぐるとエルの事ばかりを考えてしまう。
これほど想ってしまうのは愛なのか、それとも一種の呪いなのかと考えてしまうほどだ。
「──あ、そうだ」
するとネロが小さく声を上げ、アルトの肩をぽんと叩く。
「競走しよう」
「……は?」
何を言い出すのか、というのが顔に出ていたのだろう。
ネロは一瞬小さく微笑んだが、しかしその声音は真剣そのものだ。
「どっちが早く着くか競走。それで、先に着いた方はなんでも一つだけ言うことを聞くんだ」
「……なんだよ、いきなり。子供みたいな」
「アルトにぃ!」
「っ!」
すぐ傍から高い声が響き、アルトはその声にやや顔を顰める。
「はやくおにわ、いこ!」
ジョシュアのきらきらとした瞳を間近で浴び、加えて期待に満ちた声音を無碍に出来るほどの性格を持ち合わせていない。
ああ、とアルトは内心で溜め息を吐いた。
(これくらいの子って競走とか好きだよなぁ)
分かってしまうのが悔しく、そしてネロの考えていることを理解してしまい申し訳なく思う。
「……言っとくけど、俺は速いからな」
ジョシュアを抱く腕に力を込めながら、真正面の男を見つめる。
やんわりと紫の瞳を細め、ネロはゆっくりと口を動かした。
「決まりだね」
ふふ、とネロの楽しげな笑い声を合図に、庭園に続く廊下を足早に歩いていく。
使用人が見れば何かあったのかと思われそうだが、幸い前方には誰もいない。
ネロなりに元気付けてくれているようで、心が暖かくなった。
「……まぁ分かってたけど。分かってたけどさ!」
しかしすぐに勝敗は決したも同然で、段々とネロの背中を見ながら歩くことになった。
脚の長さに加えてジョシュアを抱いているためか、最初は同じくらいだったのが五メートルほどの差がついていた。
「ととさまはやい! もっと、もーっとゆっくり!」
腕の中でジョシュアが何かを言う度に『やっぱり止めよう』とはとても言えず、そして今になってこんな事をしている自分が恥ずかしくなる。
(早く着いてくれ……)
半ば諦めつつ足早に歩いていると、唐突にネロが立ち止まった。
「──あ、ごめんね。いきなり止まって」
ネロはこちらを振り向き、柔らかな笑みを浮かべる。
「歩くの早過ぎだろ、こっちはジョシュ抱いてるってのに……」
ジョシュアが居る手前ぶつぶつと形ばかりの悪態を吐き、そっと腕の中の子供の頭を撫でる。
怪我をしていないのを幸いに思う反面、指通りがよく艶のある黒髪はエルと同じで、胸の中に小さな棘が刺さったような錯覚を覚えた。
「お陰で追い付いたけどさ」
はぁ、と小さく息を吐いてネロの背中を軽く叩く。
「脚長くてごめんね?」
「馬鹿にしてるのか」
せめてもの意趣返しだったが、こちらを見つめるネロはのほほんとしていて、アルトの表情を楽しんでいるのがありありと感じられた。
部屋に来た時との落差に少し苛立ちつつも、これもネロなりの気遣いなのだと思う。
(まぁお陰でエルのことは考えなかったけど)
ネロはあまり寝ていないのか、歩いている時かすかにふらついていた。
時間がある時はアルトが見ているが、幼い息子の相手は大変なのだろう。
初対面の時はうっすらとあった隈もその時より少し濃くなっており、未だにあまり寝ていないのが見受けられる。
加えて次期辺境伯としての重圧もあり、今日は国王の元に顔を見せるだけとはいえナハトも同席しているはずだ。
エルからナハトは『ライアンよりも厳格で冷酷非情な男』だと教えられ、くれぐれも気を付けろと言われた。
『滞在中はほとんど顔は合わせないだろうけど、貴方も知っていた方がいい』
エルには珍しくどこか遠くを見つめる表情をして言われたが、果たして本当なのかと思う。
晩餐会の時に顔を合わせたきりだが、辺境伯という国にとって重要な地位は人を変えさせるのかもしれない。
「アルトにぃ、おろしてー!」
「はいはい、待ってな」
不意にジョシュアにぐいぐいと腕を摑まれ、降ろすようせがまれる。
「エルっ!」
アルトの腕から離れたジョシュアは一目散に長身の男──エルの脚にぎゅうと抱き着いた。
そこでようやくエルが居る事に気付き、アルトは何か言わねばならないという衝動に駆られる。
「い、今から行くのか?」
公務、と続けた声は少し上擦ってしまったが、不自然ではないだろうか。
当たり障りない会話をしようと努めても、知らず心臓が高鳴ってしまうのを抑えられない。
つい先程まで『会いたい』と思っていた手前、どんな顔をしていいのか分からないというのもあった。
「エル? ……どうしたんだ?」
しかし真正面に立つ男は何を言うでもなく、じっとこちらを見つめている。
普段ならば笑みを浮かべる唇も真一文字に引き結ばれており、髪を結んでいるというのもあって少しの違和感を感じた。
(ネロが居るから……?)
もしかして、という予想が合っている保証はどこにもない。
ただ、先程部屋を出て行った時よりもエルの纏う雰囲気が変わった気がして、頭に疑問ばかりが浮かぶ。
尚もアルトが口を開こうとするよりもわずかに早く、美しい水色の瞳がゆっくりと瞬くと形のいい唇がそっと開いた。
「──仲良いんだね」
「っ……?」
低く、そしてどこまでも冷たい声音に、図らずも背筋に汗が伝う。
かすかに口角を上げているが、その瞳は少しも笑っていなかった。
それと同時に、エルから放たれる言葉がこんなにも怖いと思ったのは久しぶりで、この場に居てはならないと思った。
しかし唇はおろか脚さえも動かず、糸で縫い付けられてしまったような錯覚に陥る。
「ねぇねぇ、エルもおにわ、いく?」
するとジョシュアが満面の笑みでエルを見上げ、丸く大きな瞳を煌めかせる。
純粋に王太子と遊びたいのか、その声音には期待が隠し切れていなかった。
「……ジョシュア様」
エルは幼子に目線を合わせるようにしてしゃがむと、そっと小さな肩に手を置いた。
「生憎と私は公務があるのです。王配と……お父上も一緒ですか?」
「うん! あのね、おはなみにいくの! エルがおはなそだてたって、ととさまがいってたから」
ジョシュアが花開くように笑い、今度はエルに抱き着いた。
「……そうですか」
しっかりと幼子の体重を受け止め、釣られたようにエルも微笑む。
しかしアルトには無理しているように感じられた。
(それに、さっき)
こちらを──正確にはネロを見て何かを呟いていた。
なんと言ったのか分からないため、この場でどういう反応をしたものか困惑してしまう。
それに、もしエルと一度でも視線が交わってしまえば最後、早ければ今夜にでも酷く怒られてしまう──そんな未来がありありと想像出来てしまうのだ。
(でも怒るってなんで……?)
ふと頭の中に浮かんだ疑問を考えているうちに、肩に誰かの手が触れた。
アルトはそれまでの考えを打ち消し、その手を辿ってそろりと顔を上げる。
「行こうか、アルト」
隣りに立っていたネロが、淡く微笑みながら言った。
「あ、ああ。ジョシュアもそろそろ……っ」
その後に続けようとした言葉を、アルトはすんでのところで飲み込む。
ふっと目の前に影が差し、恐る恐る視線を上げるとエルが冷めた瞳でこちらを見つめていた。
「っ」
どくん、と心臓が大きく高鳴る。
この感覚はつい先頃、第二王妃が主催したパーティーの時にも感じたものと同じだった。
「エ、ル……?」
その時よりも圧倒的な不安に襲われ、ただただ愛しい男の名を唇に乗せるしかできない。
「──王配のこと、よろしく頼む」
ふっと視線を逸らされ、すれ違いざまにネロに向けて短く言うと、エルは足早に廊下を歩いていく。
「エルっ……!」
アルトは慌ててエルの後を追おうとしたが、わずかに早く腕を引かれた。
「離せ! エルが……うっ」
渾身の力でネロの腕を振りほどこうとしたが思っていた以上に力量差があったようで、ぎりりと摑まれた腕が軋んだ。
その強さに知らず顔が歪む。
「エルヴィズは僕よりも忙しい。……それに、君には庭園まで案内してもらわないと困る」
「っ……!」
こちらの口を挟む隙すら与えないネロの態度に、どうしようもない苛立ちと不安が頭の中を支配する。
(昨日と同じだ)
いや、昨日以上に質が悪い。
その時は丁度よくノアが来てくれたが、今この場には使用人の影すら見えなかった。
不思議と一人だけこの場に取り残された錯覚に陥り、人目も気にせず頭を抱えたくなる衝動に駆られる。
しかし段々と遠ざかっていく愛しい男の背中をただただ見送る事しかできず、アルトはひっそりと溜め息を吐いた。
「……分かった」
(今はジョシュアを連れて行かないと。そう……ネロも言ってるんだ)
無理矢理自分を納得させて考えるのを止めようとしたが、脳裏には一瞬だけ見えたエルの悲しそうな顔が離れなかった。
庭園に行くのが楽しみなのか、ジョシュアはやや小走りで廊下を進んでいた。
「そんなに急がなくてもいいんだぞ?」
アルトは幼子の少し後ろを歩きながら、ジョシュアに声を掛ける。
あまり急いでしまうと転んでしまうため、こちらとしては気が気ではなかった。
「でも……はやくしないと、おひさまなくなっちゃうもん」
言いながらジョシュアが振り向き、じっと見上げてくる。
真正面から見つめられると、その容姿も相俟ってエルを彷彿とさせた。
(違うって言えないのが、もどかしい)
瞳の色は父親や祖父と同じ紫なのに、容姿はエルに似ているという事実がアルトの胸を刺す。
ジョシュアと過ごす日々が長くなる度に『エルの子供ではないか』という、あまり信じたくない事が頭をもたげているのだ。
有り得ないと思おうとしても、一度そう思ってしまった固定観念はすぐに覆せるものではないのだろう。
「……じゃあおいで。そしたらすぐに着くだろ?」
アルトはそれまでの考えを打ち消すように軽く頭を振った後、口元に淡く笑みを浮かべてその場に膝を突いた。
「うんっ!」
ジョシュアに向けて両手を広げると、すぐさまジョシュアはアルトの腕の中に収まる。
ぎゅうと抱き着き、小動物がするように首筋に擦り寄られるのも慣れたものだ。
ぽんぽんとジョシュアの小さな背中をあやしながら、アルトは庭園に続く廊下を歩く。
ネロの前では声が震えないよう気を付けていたが、昨日の事があるからか警戒してしまう。
(あいつは俺をどうしたいんだろう)
どこかのほほんとした雰囲気を纏い、しかしもう一度ネロの琴線に触れてしまえば昨日のような豹変をする事は確実だ。
それが昨日の結果で、あと少しノアが遅ければ──いやジョシュアが起きてくれていれば、ああはならなかったはずだ。
そうアルトは結論付けたが、ネロが何を考えているか分からないのは変わらない。
「ととさまきた!」
「ん?」
ジョシュアの声を追って背後を振り向くと、ゆったりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる男の姿が見えた。
「良かった、まだ近くに居てくれて」
ネロはアルトの隣りまでやってくると、淡く微笑んで続ける。
「メイドにお茶の用意を頼んできたんだ。だから急がなくても大丈夫だよ」
「そ、そうなのか。ごめんな、わざわざ」
王配である自分が頼まなければならないのに、とは続けられなかった。
アルトを見つめてくる紫の瞳が、どうしてか仄暗い色を帯びているように見えたからだ。
「沢山作って持っていくから待ってて、って言ってた。ゆっくりお散歩出来るね、ジョシュ」
アルトの腕に抱かれているジョシュアの頭を撫で、ネロが言った。
「おかし、たくさん?」
「うん、ジョシュが好きなクッキーも焼いてくれるって」
「やったぁ!」
その言葉を聞くと同時に、ジョシュアが大きく手を挙げる。
「こら、落ちるぞ」
アルトは慌ててジョシュアを抱き締め、ぽんと軽く頭を撫でる。
(あれ)
すると遠くから長身の人間が二人歩いて来るのが見え、アルトは反射的にネロの背後に隠れた。
「アルト? どうしたの?」
唐突な行動にネロは困惑した表情を見せており、ジョシュアもきょとんとしている。
「あ、いや……」
なんでもない、と続けようとしていると、その二人がすぐ傍を通り過ぎた。
王宮には使用人だけでなく貴族らが行き交っているため、ちらほらと知っている顔がある。
しかしなぜこんな行動をしようと思ったのか、自分でも分からなかった。
(隠れる必要なんかないだろ。気まずい相手なんかいない、し)
けれどすぐに脳裏にはエルの顔が浮かび、アルトはきゅうと唇を噛み締める。
朝からずっとこれでは、何もできないのと同じだ。
考えないように努めようとしても、ぐるぐるとエルの事ばかりを考えてしまう。
これほど想ってしまうのは愛なのか、それとも一種の呪いなのかと考えてしまうほどだ。
「──あ、そうだ」
するとネロが小さく声を上げ、アルトの肩をぽんと叩く。
「競走しよう」
「……は?」
何を言い出すのか、というのが顔に出ていたのだろう。
ネロは一瞬小さく微笑んだが、しかしその声音は真剣そのものだ。
「どっちが早く着くか競走。それで、先に着いた方はなんでも一つだけ言うことを聞くんだ」
「……なんだよ、いきなり。子供みたいな」
「アルトにぃ!」
「っ!」
すぐ傍から高い声が響き、アルトはその声にやや顔を顰める。
「はやくおにわ、いこ!」
ジョシュアのきらきらとした瞳を間近で浴び、加えて期待に満ちた声音を無碍に出来るほどの性格を持ち合わせていない。
ああ、とアルトは内心で溜め息を吐いた。
(これくらいの子って競走とか好きだよなぁ)
分かってしまうのが悔しく、そしてネロの考えていることを理解してしまい申し訳なく思う。
「……言っとくけど、俺は速いからな」
ジョシュアを抱く腕に力を込めながら、真正面の男を見つめる。
やんわりと紫の瞳を細め、ネロはゆっくりと口を動かした。
「決まりだね」
ふふ、とネロの楽しげな笑い声を合図に、庭園に続く廊下を足早に歩いていく。
使用人が見れば何かあったのかと思われそうだが、幸い前方には誰もいない。
ネロなりに元気付けてくれているようで、心が暖かくなった。
「……まぁ分かってたけど。分かってたけどさ!」
しかしすぐに勝敗は決したも同然で、段々とネロの背中を見ながら歩くことになった。
脚の長さに加えてジョシュアを抱いているためか、最初は同じくらいだったのが五メートルほどの差がついていた。
「ととさまはやい! もっと、もーっとゆっくり!」
腕の中でジョシュアが何かを言う度に『やっぱり止めよう』とはとても言えず、そして今になってこんな事をしている自分が恥ずかしくなる。
(早く着いてくれ……)
半ば諦めつつ足早に歩いていると、唐突にネロが立ち止まった。
「──あ、ごめんね。いきなり止まって」
ネロはこちらを振り向き、柔らかな笑みを浮かべる。
「歩くの早過ぎだろ、こっちはジョシュ抱いてるってのに……」
ジョシュアが居る手前ぶつぶつと形ばかりの悪態を吐き、そっと腕の中の子供の頭を撫でる。
怪我をしていないのを幸いに思う反面、指通りがよく艶のある黒髪はエルと同じで、胸の中に小さな棘が刺さったような錯覚を覚えた。
「お陰で追い付いたけどさ」
はぁ、と小さく息を吐いてネロの背中を軽く叩く。
「脚長くてごめんね?」
「馬鹿にしてるのか」
せめてもの意趣返しだったが、こちらを見つめるネロはのほほんとしていて、アルトの表情を楽しんでいるのがありありと感じられた。
部屋に来た時との落差に少し苛立ちつつも、これもネロなりの気遣いなのだと思う。
(まぁお陰でエルのことは考えなかったけど)
ネロはあまり寝ていないのか、歩いている時かすかにふらついていた。
時間がある時はアルトが見ているが、幼い息子の相手は大変なのだろう。
初対面の時はうっすらとあった隈もその時より少し濃くなっており、未だにあまり寝ていないのが見受けられる。
加えて次期辺境伯としての重圧もあり、今日は国王の元に顔を見せるだけとはいえナハトも同席しているはずだ。
エルからナハトは『ライアンよりも厳格で冷酷非情な男』だと教えられ、くれぐれも気を付けろと言われた。
『滞在中はほとんど顔は合わせないだろうけど、貴方も知っていた方がいい』
エルには珍しくどこか遠くを見つめる表情をして言われたが、果たして本当なのかと思う。
晩餐会の時に顔を合わせたきりだが、辺境伯という国にとって重要な地位は人を変えさせるのかもしれない。
「アルトにぃ、おろしてー!」
「はいはい、待ってな」
不意にジョシュアにぐいぐいと腕を摑まれ、降ろすようせがまれる。
「エルっ!」
アルトの腕から離れたジョシュアは一目散に長身の男──エルの脚にぎゅうと抱き着いた。
そこでようやくエルが居る事に気付き、アルトは何か言わねばならないという衝動に駆られる。
「い、今から行くのか?」
公務、と続けた声は少し上擦ってしまったが、不自然ではないだろうか。
当たり障りない会話をしようと努めても、知らず心臓が高鳴ってしまうのを抑えられない。
つい先程まで『会いたい』と思っていた手前、どんな顔をしていいのか分からないというのもあった。
「エル? ……どうしたんだ?」
しかし真正面に立つ男は何を言うでもなく、じっとこちらを見つめている。
普段ならば笑みを浮かべる唇も真一文字に引き結ばれており、髪を結んでいるというのもあって少しの違和感を感じた。
(ネロが居るから……?)
もしかして、という予想が合っている保証はどこにもない。
ただ、先程部屋を出て行った時よりもエルの纏う雰囲気が変わった気がして、頭に疑問ばかりが浮かぶ。
尚もアルトが口を開こうとするよりもわずかに早く、美しい水色の瞳がゆっくりと瞬くと形のいい唇がそっと開いた。
「──仲良いんだね」
「っ……?」
低く、そしてどこまでも冷たい声音に、図らずも背筋に汗が伝う。
かすかに口角を上げているが、その瞳は少しも笑っていなかった。
それと同時に、エルから放たれる言葉がこんなにも怖いと思ったのは久しぶりで、この場に居てはならないと思った。
しかし唇はおろか脚さえも動かず、糸で縫い付けられてしまったような錯覚に陥る。
「ねぇねぇ、エルもおにわ、いく?」
するとジョシュアが満面の笑みでエルを見上げ、丸く大きな瞳を煌めかせる。
純粋に王太子と遊びたいのか、その声音には期待が隠し切れていなかった。
「……ジョシュア様」
エルは幼子に目線を合わせるようにしてしゃがむと、そっと小さな肩に手を置いた。
「生憎と私は公務があるのです。王配と……お父上も一緒ですか?」
「うん! あのね、おはなみにいくの! エルがおはなそだてたって、ととさまがいってたから」
ジョシュアが花開くように笑い、今度はエルに抱き着いた。
「……そうですか」
しっかりと幼子の体重を受け止め、釣られたようにエルも微笑む。
しかしアルトには無理しているように感じられた。
(それに、さっき)
こちらを──正確にはネロを見て何かを呟いていた。
なんと言ったのか分からないため、この場でどういう反応をしたものか困惑してしまう。
それに、もしエルと一度でも視線が交わってしまえば最後、早ければ今夜にでも酷く怒られてしまう──そんな未来がありありと想像出来てしまうのだ。
(でも怒るってなんで……?)
ふと頭の中に浮かんだ疑問を考えているうちに、肩に誰かの手が触れた。
アルトはそれまでの考えを打ち消し、その手を辿ってそろりと顔を上げる。
「行こうか、アルト」
隣りに立っていたネロが、淡く微笑みながら言った。
「あ、ああ。ジョシュアもそろそろ……っ」
その後に続けようとした言葉を、アルトはすんでのところで飲み込む。
ふっと目の前に影が差し、恐る恐る視線を上げるとエルが冷めた瞳でこちらを見つめていた。
「っ」
どくん、と心臓が大きく高鳴る。
この感覚はつい先頃、第二王妃が主催したパーティーの時にも感じたものと同じだった。
「エ、ル……?」
その時よりも圧倒的な不安に襲われ、ただただ愛しい男の名を唇に乗せるしかできない。
「──王配のこと、よろしく頼む」
ふっと視線を逸らされ、すれ違いざまにネロに向けて短く言うと、エルは足早に廊下を歩いていく。
「エルっ……!」
アルトは慌ててエルの後を追おうとしたが、わずかに早く腕を引かれた。
「離せ! エルが……うっ」
渾身の力でネロの腕を振りほどこうとしたが思っていた以上に力量差があったようで、ぎりりと摑まれた腕が軋んだ。
その強さに知らず顔が歪む。
「エルヴィズは僕よりも忙しい。……それに、君には庭園まで案内してもらわないと困る」
「っ……!」
こちらの口を挟む隙すら与えないネロの態度に、どうしようもない苛立ちと不安が頭の中を支配する。
(昨日と同じだ)
いや、昨日以上に質が悪い。
その時は丁度よくノアが来てくれたが、今この場には使用人の影すら見えなかった。
不思議と一人だけこの場に取り残された錯覚に陥り、人目も気にせず頭を抱えたくなる衝動に駆られる。
しかし段々と遠ざかっていく愛しい男の背中をただただ見送る事しかできず、アルトはひっそりと溜め息を吐いた。
「……分かった」
(今はジョシュアを連れて行かないと。そう……ネロも言ってるんだ)
無理矢理自分を納得させて考えるのを止めようとしたが、脳裏には一瞬だけ見えたエルの悲しそうな顔が離れなかった。
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