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第三部 二章
不意打ちな告白 4
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普段よりも時間に余裕があったため、久しぶりに二人揃って朝食を摂った。
しかしどうしてかアルトは終始心ここに在らずで、あまり会話ができなかったのが少し寂しい。
(何かしたかな……)
エルは国王の執務室に続く廊下を歩きながら考える。
ただ『可愛い』と言っただけで照れるのはいつものことで、そんなところも含めて愛おしくて堪らない。
アルトに向ける言葉はすべて本心で、数え切れないほどの愛を与え、また与えられている。
そんな日々が永遠に続けばいいと思いつつも、やはり嫌われたくはなかった。
「とりあえず今日は早く終わる。夜明け前に父上たちの出立を見送るから……今日みたいな時間は取れる、か」
ぶつぶつと独り言ちながら廊下を歩いていると、見知った顔が前方から歩いてきた。
「あれ、エル?」
こちらの姿を見つけると、その人は軽く片手を上げた。
「ケイト」
エルはぽつりと男の名を呼んだ。
顔を合わせるのは実に晩餐会の後、なぜかジョシュアと共にアルトの部屋に居た時以来ぶりだ。
それ以外は部屋に居たのか、そもそも街へ出ていたのか分からないが、エルは笑みを浮かべているケイトをじっと見つめた。
一見しっかりと衣服を着ているが、一番上のボタンを掛け違えている。
クリーム色の髪は乱れており、それだけにしても細かなところに目がいった。
エルは呆れを隠そうともせず、小さく溜め息を吐いた。
「……第二王子であっても服装はきちんとしろ。叔父上がいらしてるんだ、お前も怒られるのは嫌だろう?」
言いながら傍に来たケイトの掛け違えているボタンを直し、髪も手ぐしでさっと梳く。
もしこの場にナハトが居れば叱り飛ばされ、一緒に居たエルまで叱責される。
ナハトは特に服装に厳しく、街だけでなく辺境伯領にも専属の仕立て屋を抱えている。
王宮に滞在する時も街から仕立て屋を呼び寄せ、その時の流行を取り入れた新しい服を何着も仕立てさせる事があった。
今回は呼んでいないようだが、仮にナハトと鉢合わせてこちらの服装まで指摘されるのは避けたい。
社交の場に出るのではないのだから、自分の好きな服装をしたいというのが本音でもある。
(あとは単に話が長い)
一度だけナハトに衣服の指摘をされたが、それだけにとどまらず一時間ほど『いかにお洒落が大事か』という話を聞かされた。
適当な理由を付けて切り上げるのも気が引けてしまい、加えて普段より冷える日だったため全身が冷え切ってしまったのは嫌な思い出だ。
ナハトは一度熱くなると回りが見えなくなるらしく、これを知っているのはケイト以外の身内だけではないかと思う。
だからか、普段は服装に頓着しないライアンもこの数日は小綺麗だった。
そうだとは知らないケイトはエルに終始されるがままで、髪を梳かれるのが好きなのか気持ちよさそうに目を細めている。
「ここんとこナハトの叔父上もネロも見ないし大丈夫、多分」
(こっちの気も知らないで呑気な)
無意識に舌打ちしそうになったが、きゅうと唇を噛み締めて耐えた。
自分だけ嫌な思いをしていない男には、一度エルと同じかそれ以上の目を見た方がいい。
自分でも幼稚な考えだが、次からはケイトの服装を正さないと心に決める。
「それより」
そんなほの暗いことをエルが考えているとは露知らず、ケイトはわずかに瞳を煌めかせて尋ねてきた。
「どうしたんだよ、いつも髪なんかそのままなのに」
「ああ、これか」
その問い掛けに、先程まで歪んでいた口角が緩く上がる。
「いいだろう。アルトが一生懸命してくれたんだ」
最初に気付いてくれたのがケイトで良かったと思いながら、エルは青いリボンが見えるように軽く首を左右に振った。
「うわぁ……」
「なんだ」
見る間に笑みが無くなっていくケイトに、エルは瞳を細めた。
心が浮き立っているのは事実だが、あからさまな態度を取られると少なからず腹は立つ。
(大人気ないとは分かってるけど)
自分が器の小さい男だと思いつつも、アルトのことになると思考が鈍るのは間違っていないと思う。
それにエルより短いもののケイトも髪を伸ばしており、誰かに結んでもらうあてがあるのか、とミハルドやレオン辺りが聞けば突っ込まれそうなことを頭の片隅で考える。
「いや、仲良いなぁって」
胸焼けしそう、とケイトはからかいを含んだ声で小さく笑った。
引いていないことに感謝しつつ、エルが口を開こうとしているとケイトはふっと視線を逸らした。
「けど──」
「ん?」
そこから先も何か言ったようだが、あまりに小さ過ぎて聞き取れない。
「なんでもない。今からどうするんだ?」
しかしケイトは何事もなかったように笑い、そのままにこにこと続ける。
「いつも通りだ。明日の事もあるし、日が暮れる前には終わると思う」
ケイトとは顔を合わせていない間も逐一情報を共有しており、ライアンとナハトが明日の早朝に辺境伯領に発つ事も知っている。
ネロやマリアは残るため、もちろんジョシュアも居る。
幼い子供が長く王宮に滞在する事に異論はないものの、まだアルトと満足に触れ合えないかと思うと大人気なく嫌悪感が湧き上がる。
「そっかぁ……あ、じゃあさ。終わったらちょーっとだけエルの時間くれる?」
「……何をしようとする気だ」
不覚にもぞくりと背筋が寒くなり、エルは反射的にケイトから距離を取る。
「そんな拒否しなくてもよくない?」
傷付くんだけど、とおどけた口調で話すのは久しぶりに聞くように思う。
時としてケイトは人をからかい、遊ぶ癖がある。
それはこちらに何か『お願い』がある時で、またその人の本心を引き出そうとしている時だった。
今回は前者のようで、エルは冷静を装いながら口を開く。
「時間を取らないなら今言ってもいいと思うんだが」
「……ごめん、ここじゃ今すぐには言えない。けど、お前にとっても悪くない話だと思うんだ」
そっと目を伏せ、含みのある笑みを浮かべたケイトにエルはかすかな違和感を覚えた。
そもそも産みの母親があれだったため、この男は幼い頃から人を信用していなかった節がある。
柔らかな口調で『こちらに敵意はない』と相手を油断させ、仲良くするためのケイトなりの術だと知っている。
そのため未だに同年代の人間に対してもエル以外には一線を画しており、王宮でのケイトの味方は少ない方だろう。
加えて角度によって紺碧にも紫にも見える不思議な瞳は、この国では珍しい。
それ以外にもライアンの血を分けた子ではないため、未だにケイトに対して良からぬ事を企てる者は多いのだ。
その都度エルが牽制し、ライアンがそれとなく忠告しているが、あの第二王妃の子というだけでケイトを襲う輩は存在する。
あまり酷いと寝込みを襲う者もおり、こちらはケイト自らが対処するしかないのだが。
(俺に比べれば、ってだけでケイトは十分強い……なんて思わないだろう)
後処理は必然的にエルの方に回り、その凄惨さはこちらが引いてしまうほどだった。
「っ」
不意にぐいと腕を引かれ、エルは転びそうになるのをすんでのところで耐える。
「──ほら、ぼうっとしてると危ないだろ?」
にこりと笑みを浮かべられ、見れば視界の端をメイドが通ったのが見えた。
どうやら知らないうちにぶつかりそうになったらしく、ケイトは助けてくれたらしい。
「……すまない」
エルはケイトに向けて短く謝罪した。
少し自分自身を俯瞰してみると、足元がふらついて視界が歪んでいる錯覚すら感じる。
辺境伯一行が来てからあまり寝ていないのは事実だが、昨日はよく眠れたと思った。
しかし思っているよりも身体は本調子ではないらしく、そんな自分に嫌気が差す。
「なんで謝るんだよ、お前らしくない。……あ、アルトとあんまり時間取れないとか?」
だからか、と一人で納得しているケイトに言葉一つ掛ける気力もない。
それは図星で、つい一時間ほど前に触れたいのを我慢したばかりだからだ。
そういえば、と思い返してみると、髪を結んでもらってからアルトの態度は明らかに昨日とは違ったように思う。
もしこちらが何か失言してしまったのなら早急に謝らねばならないが、それがただの杞憂であればいいと願わずにはいられない。
最悪嫌われでもしたらそれこそ生きて行けず、多少の事ですれ違いを起こしたくはなかった。
(朔真が何か隠すのはいつもの事だけど……)
今回ばかりは嫌な予感がしてならないのだ。
今この時もエルの寝室か図書室でのんびりとしているであろう、愛しい男の元に戻りたい衝動に駆られる。
けれど今から国王の公務を数日分引き継ぎ、また不在の間の防衛や騎士らの配置を議論しなければならない。
自領の事で心を痛めるナハトの手前ああ言ったが、街で暴動が起きる可能性が無いとは言えないのだ。
国王不在の中、王宮内外で何かあれば指揮を執るのは王太子だ。
同時に己の命よりも大事なアルトはもちろんのこと、数多の使用人を傷一つなく外へ逃がさねばならない。
(ケイトの用を終わらせて……早く朔真に会いたい)
朝から夕方まで貴方のことばかり考えていた、と言えば困らせるだろうか。
いっそ心の内が分かればと思うが、仮に分かったとてこちらに利点があるかは微妙なところだった。
己の言葉はすべて本心で、しかし不用意なことを言って怒らせたり嫌われるのだけは避けたいのだ。
「うげっ」
すると隣りを歩いていたケイトが短く声を上げた。
ややあってエルもそちらに視線を向けると、前方から長身の男が歩いてくるのが見えた。
黒いシャツとスラックスに身を包み、胸元には赤い薔薇のピンを付けている。
やや長い前髪から覗く紫の瞳はどこか翳りを帯び、しかし唇は緩く弧を描いていた。
「エルヴィズ」
ばちりと視線が交わると、男はにっこりと微笑んだ。
「……ケイトも一緒なの、珍しいね」
視線が隣りに向けられると、その人に見つめられたケイトは何も言わずエルの後ろに隠れた。
しかしエルはその光景に目を瞠り、わなわなと唇を震わせるしかできない。
「な、んで……」
ぽつりと呟いた言葉はすぐに消え、同時にエルの視界が黒く染まる。
「──あ、ごめんね。いきなり止まって」
くるりとネロは背後を振り向くと、足早にやってきた人物に柔らかく声を掛ける。
「歩くの早過ぎだろ、こっちはジョシュ抱いてるってのに……。お陰で追い付いたけどさ」
「アルトにぃ、おろしてー!」
「はいはい、待ってな」
柔らかな金髪を揺らして悪態を吐くその人はネロの隣りで脚を止め、腕の中でぐずる幼子──ジョシュアをそっと降ろした。
「エルっ!」
するとジョシュアはネロの後ろを通り、ぎゅうとエルの脚に抱き着く。
「っ……!」
反射的に脚に力を込めたためよろけることは無かったが、未だ己の視界に映る光景が信じられなかった。
「今から行くのか?」
エル、と自身を呼ぶ声音は明るく、ともすれば久しぶりに聞くほどだ。
(なんで、朔真が……ネロ、と)
朝はほとんど話せず、しかし髪を結んでもらっただけで嬉しい、と自分を騙していた。
その時の態度に違和感を感じたものの、数日分の引き継ぎもケイトの話も早く切り上げて、本音を言えばすぐにでも顔を見たかったのに。
「エル?」
どうしたんだ、と首を傾げて問い掛けてくるさまを普段ならば『可愛い』と言い、周囲に人が居るのも構わず照れさせていることだろう。
しかしそんな言葉が口を突いて出ることはなく、ただただ短く口の中で呟いた。
「──仲良いんだね」
それは自分で思っていた以上にずっと低く、冷たく廊下に響いた。
しかしどうしてかアルトは終始心ここに在らずで、あまり会話ができなかったのが少し寂しい。
(何かしたかな……)
エルは国王の執務室に続く廊下を歩きながら考える。
ただ『可愛い』と言っただけで照れるのはいつものことで、そんなところも含めて愛おしくて堪らない。
アルトに向ける言葉はすべて本心で、数え切れないほどの愛を与え、また与えられている。
そんな日々が永遠に続けばいいと思いつつも、やはり嫌われたくはなかった。
「とりあえず今日は早く終わる。夜明け前に父上たちの出立を見送るから……今日みたいな時間は取れる、か」
ぶつぶつと独り言ちながら廊下を歩いていると、見知った顔が前方から歩いてきた。
「あれ、エル?」
こちらの姿を見つけると、その人は軽く片手を上げた。
「ケイト」
エルはぽつりと男の名を呼んだ。
顔を合わせるのは実に晩餐会の後、なぜかジョシュアと共にアルトの部屋に居た時以来ぶりだ。
それ以外は部屋に居たのか、そもそも街へ出ていたのか分からないが、エルは笑みを浮かべているケイトをじっと見つめた。
一見しっかりと衣服を着ているが、一番上のボタンを掛け違えている。
クリーム色の髪は乱れており、それだけにしても細かなところに目がいった。
エルは呆れを隠そうともせず、小さく溜め息を吐いた。
「……第二王子であっても服装はきちんとしろ。叔父上がいらしてるんだ、お前も怒られるのは嫌だろう?」
言いながら傍に来たケイトの掛け違えているボタンを直し、髪も手ぐしでさっと梳く。
もしこの場にナハトが居れば叱り飛ばされ、一緒に居たエルまで叱責される。
ナハトは特に服装に厳しく、街だけでなく辺境伯領にも専属の仕立て屋を抱えている。
王宮に滞在する時も街から仕立て屋を呼び寄せ、その時の流行を取り入れた新しい服を何着も仕立てさせる事があった。
今回は呼んでいないようだが、仮にナハトと鉢合わせてこちらの服装まで指摘されるのは避けたい。
社交の場に出るのではないのだから、自分の好きな服装をしたいというのが本音でもある。
(あとは単に話が長い)
一度だけナハトに衣服の指摘をされたが、それだけにとどまらず一時間ほど『いかにお洒落が大事か』という話を聞かされた。
適当な理由を付けて切り上げるのも気が引けてしまい、加えて普段より冷える日だったため全身が冷え切ってしまったのは嫌な思い出だ。
ナハトは一度熱くなると回りが見えなくなるらしく、これを知っているのはケイト以外の身内だけではないかと思う。
だからか、普段は服装に頓着しないライアンもこの数日は小綺麗だった。
そうだとは知らないケイトはエルに終始されるがままで、髪を梳かれるのが好きなのか気持ちよさそうに目を細めている。
「ここんとこナハトの叔父上もネロも見ないし大丈夫、多分」
(こっちの気も知らないで呑気な)
無意識に舌打ちしそうになったが、きゅうと唇を噛み締めて耐えた。
自分だけ嫌な思いをしていない男には、一度エルと同じかそれ以上の目を見た方がいい。
自分でも幼稚な考えだが、次からはケイトの服装を正さないと心に決める。
「それより」
そんなほの暗いことをエルが考えているとは露知らず、ケイトはわずかに瞳を煌めかせて尋ねてきた。
「どうしたんだよ、いつも髪なんかそのままなのに」
「ああ、これか」
その問い掛けに、先程まで歪んでいた口角が緩く上がる。
「いいだろう。アルトが一生懸命してくれたんだ」
最初に気付いてくれたのがケイトで良かったと思いながら、エルは青いリボンが見えるように軽く首を左右に振った。
「うわぁ……」
「なんだ」
見る間に笑みが無くなっていくケイトに、エルは瞳を細めた。
心が浮き立っているのは事実だが、あからさまな態度を取られると少なからず腹は立つ。
(大人気ないとは分かってるけど)
自分が器の小さい男だと思いつつも、アルトのことになると思考が鈍るのは間違っていないと思う。
それにエルより短いもののケイトも髪を伸ばしており、誰かに結んでもらうあてがあるのか、とミハルドやレオン辺りが聞けば突っ込まれそうなことを頭の片隅で考える。
「いや、仲良いなぁって」
胸焼けしそう、とケイトはからかいを含んだ声で小さく笑った。
引いていないことに感謝しつつ、エルが口を開こうとしているとケイトはふっと視線を逸らした。
「けど──」
「ん?」
そこから先も何か言ったようだが、あまりに小さ過ぎて聞き取れない。
「なんでもない。今からどうするんだ?」
しかしケイトは何事もなかったように笑い、そのままにこにこと続ける。
「いつも通りだ。明日の事もあるし、日が暮れる前には終わると思う」
ケイトとは顔を合わせていない間も逐一情報を共有しており、ライアンとナハトが明日の早朝に辺境伯領に発つ事も知っている。
ネロやマリアは残るため、もちろんジョシュアも居る。
幼い子供が長く王宮に滞在する事に異論はないものの、まだアルトと満足に触れ合えないかと思うと大人気なく嫌悪感が湧き上がる。
「そっかぁ……あ、じゃあさ。終わったらちょーっとだけエルの時間くれる?」
「……何をしようとする気だ」
不覚にもぞくりと背筋が寒くなり、エルは反射的にケイトから距離を取る。
「そんな拒否しなくてもよくない?」
傷付くんだけど、とおどけた口調で話すのは久しぶりに聞くように思う。
時としてケイトは人をからかい、遊ぶ癖がある。
それはこちらに何か『お願い』がある時で、またその人の本心を引き出そうとしている時だった。
今回は前者のようで、エルは冷静を装いながら口を開く。
「時間を取らないなら今言ってもいいと思うんだが」
「……ごめん、ここじゃ今すぐには言えない。けど、お前にとっても悪くない話だと思うんだ」
そっと目を伏せ、含みのある笑みを浮かべたケイトにエルはかすかな違和感を覚えた。
そもそも産みの母親があれだったため、この男は幼い頃から人を信用していなかった節がある。
柔らかな口調で『こちらに敵意はない』と相手を油断させ、仲良くするためのケイトなりの術だと知っている。
そのため未だに同年代の人間に対してもエル以外には一線を画しており、王宮でのケイトの味方は少ない方だろう。
加えて角度によって紺碧にも紫にも見える不思議な瞳は、この国では珍しい。
それ以外にもライアンの血を分けた子ではないため、未だにケイトに対して良からぬ事を企てる者は多いのだ。
その都度エルが牽制し、ライアンがそれとなく忠告しているが、あの第二王妃の子というだけでケイトを襲う輩は存在する。
あまり酷いと寝込みを襲う者もおり、こちらはケイト自らが対処するしかないのだが。
(俺に比べれば、ってだけでケイトは十分強い……なんて思わないだろう)
後処理は必然的にエルの方に回り、その凄惨さはこちらが引いてしまうほどだった。
「っ」
不意にぐいと腕を引かれ、エルは転びそうになるのをすんでのところで耐える。
「──ほら、ぼうっとしてると危ないだろ?」
にこりと笑みを浮かべられ、見れば視界の端をメイドが通ったのが見えた。
どうやら知らないうちにぶつかりそうになったらしく、ケイトは助けてくれたらしい。
「……すまない」
エルはケイトに向けて短く謝罪した。
少し自分自身を俯瞰してみると、足元がふらついて視界が歪んでいる錯覚すら感じる。
辺境伯一行が来てからあまり寝ていないのは事実だが、昨日はよく眠れたと思った。
しかし思っているよりも身体は本調子ではないらしく、そんな自分に嫌気が差す。
「なんで謝るんだよ、お前らしくない。……あ、アルトとあんまり時間取れないとか?」
だからか、と一人で納得しているケイトに言葉一つ掛ける気力もない。
それは図星で、つい一時間ほど前に触れたいのを我慢したばかりだからだ。
そういえば、と思い返してみると、髪を結んでもらってからアルトの態度は明らかに昨日とは違ったように思う。
もしこちらが何か失言してしまったのなら早急に謝らねばならないが、それがただの杞憂であればいいと願わずにはいられない。
最悪嫌われでもしたらそれこそ生きて行けず、多少の事ですれ違いを起こしたくはなかった。
(朔真が何か隠すのはいつもの事だけど……)
今回ばかりは嫌な予感がしてならないのだ。
今この時もエルの寝室か図書室でのんびりとしているであろう、愛しい男の元に戻りたい衝動に駆られる。
けれど今から国王の公務を数日分引き継ぎ、また不在の間の防衛や騎士らの配置を議論しなければならない。
自領の事で心を痛めるナハトの手前ああ言ったが、街で暴動が起きる可能性が無いとは言えないのだ。
国王不在の中、王宮内外で何かあれば指揮を執るのは王太子だ。
同時に己の命よりも大事なアルトはもちろんのこと、数多の使用人を傷一つなく外へ逃がさねばならない。
(ケイトの用を終わらせて……早く朔真に会いたい)
朝から夕方まで貴方のことばかり考えていた、と言えば困らせるだろうか。
いっそ心の内が分かればと思うが、仮に分かったとてこちらに利点があるかは微妙なところだった。
己の言葉はすべて本心で、しかし不用意なことを言って怒らせたり嫌われるのだけは避けたいのだ。
「うげっ」
すると隣りを歩いていたケイトが短く声を上げた。
ややあってエルもそちらに視線を向けると、前方から長身の男が歩いてくるのが見えた。
黒いシャツとスラックスに身を包み、胸元には赤い薔薇のピンを付けている。
やや長い前髪から覗く紫の瞳はどこか翳りを帯び、しかし唇は緩く弧を描いていた。
「エルヴィズ」
ばちりと視線が交わると、男はにっこりと微笑んだ。
「……ケイトも一緒なの、珍しいね」
視線が隣りに向けられると、その人に見つめられたケイトは何も言わずエルの後ろに隠れた。
しかしエルはその光景に目を瞠り、わなわなと唇を震わせるしかできない。
「な、んで……」
ぽつりと呟いた言葉はすぐに消え、同時にエルの視界が黒く染まる。
「──あ、ごめんね。いきなり止まって」
くるりとネロは背後を振り向くと、足早にやってきた人物に柔らかく声を掛ける。
「歩くの早過ぎだろ、こっちはジョシュ抱いてるってのに……。お陰で追い付いたけどさ」
「アルトにぃ、おろしてー!」
「はいはい、待ってな」
柔らかな金髪を揺らして悪態を吐くその人はネロの隣りで脚を止め、腕の中でぐずる幼子──ジョシュアをそっと降ろした。
「エルっ!」
するとジョシュアはネロの後ろを通り、ぎゅうとエルの脚に抱き着く。
「っ……!」
反射的に脚に力を込めたためよろけることは無かったが、未だ己の視界に映る光景が信じられなかった。
「今から行くのか?」
エル、と自身を呼ぶ声音は明るく、ともすれば久しぶりに聞くほどだ。
(なんで、朔真が……ネロ、と)
朝はほとんど話せず、しかし髪を結んでもらっただけで嬉しい、と自分を騙していた。
その時の態度に違和感を感じたものの、数日分の引き継ぎもケイトの話も早く切り上げて、本音を言えばすぐにでも顔を見たかったのに。
「エル?」
どうしたんだ、と首を傾げて問い掛けてくるさまを普段ならば『可愛い』と言い、周囲に人が居るのも構わず照れさせていることだろう。
しかしそんな言葉が口を突いて出ることはなく、ただただ短く口の中で呟いた。
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