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第三部 二章
不意打ちな告白 3
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エルと共に執務室を出てからしばらく。
隣りを同じ速度で歩いてくれる男を見つめながら、アルトはぽつりと呟くように言った。
「俺……ちゃんと、出来るかな」
ライアンの言葉はあまりに現実味がなく、しかし一つの可能性としては十分に有り得るのだと思う。
貴族が今の現状に不満を持ち、暴動を決起するのは珍しくないという。
元の世界でも時々そうした映像を見る事があったが、それは自分の知らない所の出来事であって、頭の片隅で客観視していた部分もある。
数日国王が不在の間だけであっても、常に気を張っていなければいけない──先程はなかった漠然とした不安も合わさって、段々と状況が現実味を帯びてくる。
だからか、脚を動かしていないとこの場で倒れてしまいそうだった。
同時に指先が冷えていく感覚があり、いくつもの冷たい汗が背中を伝う。
「大丈夫だよ」
こちらの気持ちを察したのか、そっと手の平に慣れ親しんだ温もりが触れてくる。
その拍子にアルトは立ち止まり、改めてエルを見上げた。
フリルの付いた白いシャツに深い藍色のウエストコートを纏い、同色のスラックスに身を包んでいる。
艶のある黒髪は鎖骨の下まで伸びており、結えるほどの長さになっていた。
その都度『結って欲しい』と懇願されているが、普段以上に朝はゆっくりできないのが難点だった。
簡素な出で立ちだが小さな仕草一つ取っても洗練され、改めてこれほどの男が自分を好いてくれているのが奇跡だと思う。
「何があっても貴方のことは俺が守るから。……でも、父上は怖がらせ過ぎだな」
エルはゆっくりと目を伏せ、繋いでいる手に力を込める。
そこから確かな熱となって手の平から身体を巡り、じんわりと頬が熱くなっていくのが分かる。
「……酷い顔だ」
「っ」
そろりと繋いでいた手を外すと両手で顔を上向かされ、水色の瞳と視線が交わった。
壊れ物を扱うように頬を包む手の平は温かく、同時に心配させている事に罪悪感が増していく。
(俺が弱いだけなのに)
ライアンからの言葉は『もしもの時』であって、何もそれが現実になるわけではないと分かっている。
婚約前から今までのほとんどを王宮で過ごしているためか、それまで良くしてくれた者たちを危険に晒してしまいやしないかと不安でならないのだ。
「──叔父上たちが来てから寝てないだろう。それにジョシュアの相手もしてるんだ、このままじゃ倒れてしまう」
「や、大丈夫だから」
そこまでヤワじゃない、とアルトは曖昧に濁す。
「でも」
「お前は心配し過ぎだ。そんなんじゃ、陛下のことも悪く言えないぞ?」
尚も言い募ろうとするエルの言葉を遮り、にこりと微笑んだ。
エルの言う通りジョシュアほどの子供は大変だが、それほど苦ではない。
むしろ毎日のように癒されており、感謝しているほどだった。
しかしエルはあまり納得していないようで、目線を逸らしたかと思えば何か言いたそうに口を開いては閉じてを繰り返す。
「俺は……こういうの慣れてるから。だから、エルが心配するほどじゃ」
「貴方はよくても俺が嫌なんだ」
ない、と言う前に今度は自分が遮られる。
じっと見つめてくる水色の瞳は苦悩で満ちており、それ以上に申し訳なかった。
(本当に平気なんだけど。言っても分かってくれない、か)
元の世界では寝る暇もなく、寝られたとしても一時間にも満たなかった。だから今の暮らしはまだマシだ。
そう口を滑らせてしまえば最後、エルから何を言われるか分かったものではなかった。
文字通り馬車馬の如く働き、その間の食事は自分が用意しなければならない。
こちらにとってはそれが普通だったが、エルからしてみれば恐ろしいことこの上ないと言われるのは想像に難くない。
「そう、だな」
アルト曖昧に微笑むと、ゆっくりと続けた。
「でも今日は早く寝る。……それで、起きたら髪の毛弄らせてくれ」
約束しただろ、とエルの瞳を見つめながら問い掛ける。
「……本当?」
見る間に目を見開き、どこか信じられないような口調でエルの形のいい唇が動いた。
「ああ、本当。けど絶対下手だと思うから……その、笑わないでくれると助かるな、って」
目線を伏せると段々と語尾も小さくなり、最後の方は聞こえたかどうかも怪しい。
けれどエルは嬉しそうに笑みを浮かべ、さも愛おしそうな声で言った。
「ありがとう。明日が楽しみだ」
そのままエルの顔が迫ってきて額や瞼、鼻先に短く口付けられた。
やがて至近距離で微笑み合い、それと同時にアルトはただただこの優しい日常が壊れぬように願った。
◆◆◆
「──どう、かな」
鏡の前に座り、エルは愛しい男の自信なさげな顔をじっと見つめる。
昨日ライアンに呼び出された時は鬱屈としていたが、アルトの顔を見ると一瞬でそんな感情も塗り変わるから不思議なものだと思う。
(俺のために一生懸命で、なのに不器用で可愛くて。……ずっと飽きないんだろうな)
何度か『髪を結って欲しい』と言っていたが、その度に邪魔が入っていた。
部屋付きのメイドを後ろに従えてジョシュアはアルトを、レオンは幼子が来る時間を見計らっているかのようにエルを迎えにくる。
互いの時間が合わない事に苛立ちながらも、叔父らが王宮へ滞在するようになってからこうも忙しくなるとは思わなかったというのもある。
辺境伯領の開発や軍事に始まり、交易や整備費などを高官らを混じえて議論し、数日。
この費用は抑えるべきだというお偉い方がその都度出張り、互いが納得するまで部屋に籠る事もしばしばだった。
アルトほどではないが疲れは溜まっている。
しかし寝室や自身の執務室へ戻ると眠らずに帰りを待っていてくれるため、申し訳ないと思う。
だからか、髪を結ってもらうのは早くても帰った後だと思っていたため少し動揺してしまった。
エルはそっと後ろに手をやり、左右に首を振る。
耳から前の髪は少し長さが足りなかったのかそのまま垂らされ、青いリボンで一つに纏められている。
リボンは結びにくかったのか少し緩いと感じたが、あまり動かなければ解けないだろう。
それ以上に己を想って一生懸命にしてくれたことが嬉しく、エルは内心浮き足立っていた。
「うん、上手だ。朔真は器用だね」
鏡越しににこりと微笑むと、見る見るうちにやや白い頬が赤くなっていく。
「そ、そっか。なら良かった」
未だエルから褒められることには慣れていないようで、そんなところも愛おしかった。
「今日はこのまま公務に行くけどいい?」
椅子に座ったままくるりと振り向き、頬を染めて固まったままの男を真正面から見つめる。
(自慢したいから)
声には出さず、そっと心の中で呟く。
するとエルから目を逸らし、両手で控えめに顔を隠すとそのまましゃがみ込んだ。
「朔真?」
どうしたの、とエルもその場に膝を突き顔を覗き込む。
頬だけでなく耳まで赤くさせ、こちらを遠慮がちに見つめる深い海のような瞳と視線が交わった。
「好きにしてくれ……」
だからいちいち言わなくていい、とでもいうかのようにアルトは小声で囁く。
「──っ」
とくん、と心臓が小さく跳ねる。
思い返せばこうして二人でゆっくり出来る日はほとんどなく、今日のように互いが早起きでもしなければ無理なのだ。
それもこれもナハトらが滞在している間、と思えば安いものだが如何せん満足に触れ合えていない。
だからか、せめて朝食の時間までに少しでもこの男に触れたい──そう思う心とは裏腹に、理性は『駄目だ』と警鐘を鳴らしている。
(これからジョシュアが来るんだ、疲れさせちゃいけない)
毎日必ずメイドを引き連れてやってくる幼子が邪魔だとは思っていないが、もし鉢合わせてしまえば教育に悪いのは確かだ。
それこそ回り回ってネロに伝わり、嫌味を言われるかもしれない。
幼い頃から親交はあるがとても仲が良いとは言えず、むしろ苦手な人間の一人だ。
何を考えているか分からないのはケイト以上で、しかしケイトの方が遥かに可愛いものだと思う。
こちらの気持ちを見透かすような口調に、父親と同じ紫の瞳は柔和なものの、その実感情が見えない。
辺境伯領で何かが起きると分かっていたのか、幼い子供と共に王宮に来たのは幸いだった。
けれどその妻がいないのは気になり、しかし直接問おうにもあまり顔を合わせたくはない。
その代わりとでもいうのか、妹であるマリアがやってきたが辺境伯領の公爵家の男と近々結婚式を挙げる身だ。
王宮に居てもいいのか、と疑問が残る反面マリアはマリアで晩餐会の日から顔を見ていなかった。
部屋に居るのだと思うが、王太子とて安易に未婚の女性の部屋に訪ねてはならない。
(でもマリアには挨拶しないとだし、メイドに頼むか)
「……うん?」
他のことを考えているうちに己の中に燻る熱も下がり、同時にくいと袖を引かれる。
ややあってエルは伏せていた瞼を上げた。
「えっ、と」
見ればアルトはもごもごと口を小さく動かし、胸の前で指先をくるくると回していた。
「なに?」
あくまでアルトの口から聞きたくて、努めて優しく続きを促す。
「髪、梳いてくれるか……?」
「え」
ぽつりと蚊の鳴くような声で放たれた言葉に、エルは瞬きを繰り返す。
先程に比べて頬の赤みは薄くなっているが、それでもまだほんのりと桃色に染まっている。
上目遣いになった瞳はわずかに潤んで、小さく開かれた唇から舌が覗いていた。
無意識に喉が上下し、しかしぐっと手の平を握り締めて耐える。
先程抑え込んだというのにすぐに熱を取り戻そうとする自身に半ば呆れつつも、エルは緩く口角を上げた。
「それくらいいくらでもするよ。座って」
言いながら手を伸ばし、アルトを立ち上がらせると椅子に座るよう促す。
「貴方の……『アルト』の髪は柔らかいね」
そっと金色の髪をひと房摘み、二人の時は呼ばない名を口にする。
ぴくりと肩が揺れたのに気付かない振りをしつつ、エルは思う。
(本当の朔真にも会えたらいいのに)
見た目は『アルト・ムーンバレイ』その人だが、エルの目にははっきりと『朔真』として映っている。
少し不思議な気持ちになりつつも、やはりどうしても本来の『朔真』をこの目で見てみたいと時々考えてしまうのだ。
『アルトではない』と打ち明けられた時、思ったよりも落胆していない自分に驚いた。
今思えば既に『朔真』が好きで、この人と一緒になりたいと『アルト』の時よりも強く願ったのだ。
そのため、婚約してから一年は準備が掛かるところを半年で結婚式を挙げ、誰にも取られないようにと国内外に宣言した。
結果として、国中では『王配に害を成そうとする者は王太子に殺される』という噂がまことしやかに囁かれている。
実際、誰であれ傷一つ付けようものなら己でも何をするか分からないため、間違っていないのだが。
「──早く帰ればいいのに」
ぼそりと低く呟いた言葉に、今度こそ愛しくて堪らない男の肩が大きく揺れる。
「や、やっぱり嫌だったか? ごめん、無理言って」
しかしどう取ったのか自分に言われたと思ったようで、アルトは慌てて謝罪の言葉を口にした。
(ああ、また)
エルは内心で溜め息を吐いた。
一定の動きでブラシを通していた手を止め、アルトの前に回り込んだ。
「貴方に言ったんじゃないんだ。朔真は悪くないから……だから謝らないで」
悪いのはこんなことを考える自分自身だ、と心の中で付け足す。
このまま誰の目にも晒す事なく自分だけを見て欲しい、という感情が久しぶりに頭をもたげたのだ。
もしそれを露わにしてしまえば、それこそ嫌われてしまうだろう。
十数年越しに対面し、逃げられないよう理由を付けて王宮に留め、公爵邸へ帰ろうとするのを阻止した。
それだけでは飽き足らず小屋に監禁し、怖い思いをさせてしまった。
けれど最後には己のことも受け入れてくれ、こうして今も隣りに居てくれる。
それは『朔真』だったからであって、普通ならば婚約破棄されてもおかしくはないほどだ。
(嫌われたら生きていけない)
エルは膝に置かれている手をそっと握り、神に祈るかのように懇願する。
「……だから、俺から離れないで」
ぎゅうと手の平の力を込めて言うと、アルトはぱちぱちと目を瞬かせた。
「いや、離れないけど」
むしろ俺の方が離されそうだ、とアルトは憂いを帯びた瞳で続ける。
「──でもそうだな、俺が嫌って言っても止めてくれない奴は嫌いだ」
にこりと笑みを浮かべられ、エルはその言葉の意味をしばらく考える。
どこか他人事のような、しかし照れを含んでいない表情や声でさぁっと血の気が引いていくのが分かった。
「それは……えっと、ね。可愛い貴方が悪いと思うんだけど」
だから煽る方が悪い、と今度はエルが目を泳がせる番だった。
「煽ってないが!? あと俺は可愛くない!」
するとそれまでの威勢はどこにいったのか、顔だけでなく首までが赤く染まる。
「可愛いよ、本当に」
ふふ、と小さくエルは微笑むと、ブラシを通して艶を増した頭を撫でる。
ふわふわとした髪は指先に馴染み、いつまでも触っていたくなるほどだ。
「あー、もう! なんでこうなるんだ……!」
エルにはどう言っても無駄だと悟ったのか、アルトの絶叫が寝室にこだました。
隣りを同じ速度で歩いてくれる男を見つめながら、アルトはぽつりと呟くように言った。
「俺……ちゃんと、出来るかな」
ライアンの言葉はあまりに現実味がなく、しかし一つの可能性としては十分に有り得るのだと思う。
貴族が今の現状に不満を持ち、暴動を決起するのは珍しくないという。
元の世界でも時々そうした映像を見る事があったが、それは自分の知らない所の出来事であって、頭の片隅で客観視していた部分もある。
数日国王が不在の間だけであっても、常に気を張っていなければいけない──先程はなかった漠然とした不安も合わさって、段々と状況が現実味を帯びてくる。
だからか、脚を動かしていないとこの場で倒れてしまいそうだった。
同時に指先が冷えていく感覚があり、いくつもの冷たい汗が背中を伝う。
「大丈夫だよ」
こちらの気持ちを察したのか、そっと手の平に慣れ親しんだ温もりが触れてくる。
その拍子にアルトは立ち止まり、改めてエルを見上げた。
フリルの付いた白いシャツに深い藍色のウエストコートを纏い、同色のスラックスに身を包んでいる。
艶のある黒髪は鎖骨の下まで伸びており、結えるほどの長さになっていた。
その都度『結って欲しい』と懇願されているが、普段以上に朝はゆっくりできないのが難点だった。
簡素な出で立ちだが小さな仕草一つ取っても洗練され、改めてこれほどの男が自分を好いてくれているのが奇跡だと思う。
「何があっても貴方のことは俺が守るから。……でも、父上は怖がらせ過ぎだな」
エルはゆっくりと目を伏せ、繋いでいる手に力を込める。
そこから確かな熱となって手の平から身体を巡り、じんわりと頬が熱くなっていくのが分かる。
「……酷い顔だ」
「っ」
そろりと繋いでいた手を外すと両手で顔を上向かされ、水色の瞳と視線が交わった。
壊れ物を扱うように頬を包む手の平は温かく、同時に心配させている事に罪悪感が増していく。
(俺が弱いだけなのに)
ライアンからの言葉は『もしもの時』であって、何もそれが現実になるわけではないと分かっている。
婚約前から今までのほとんどを王宮で過ごしているためか、それまで良くしてくれた者たちを危険に晒してしまいやしないかと不安でならないのだ。
「──叔父上たちが来てから寝てないだろう。それにジョシュアの相手もしてるんだ、このままじゃ倒れてしまう」
「や、大丈夫だから」
そこまでヤワじゃない、とアルトは曖昧に濁す。
「でも」
「お前は心配し過ぎだ。そんなんじゃ、陛下のことも悪く言えないぞ?」
尚も言い募ろうとするエルの言葉を遮り、にこりと微笑んだ。
エルの言う通りジョシュアほどの子供は大変だが、それほど苦ではない。
むしろ毎日のように癒されており、感謝しているほどだった。
しかしエルはあまり納得していないようで、目線を逸らしたかと思えば何か言いたそうに口を開いては閉じてを繰り返す。
「俺は……こういうの慣れてるから。だから、エルが心配するほどじゃ」
「貴方はよくても俺が嫌なんだ」
ない、と言う前に今度は自分が遮られる。
じっと見つめてくる水色の瞳は苦悩で満ちており、それ以上に申し訳なかった。
(本当に平気なんだけど。言っても分かってくれない、か)
元の世界では寝る暇もなく、寝られたとしても一時間にも満たなかった。だから今の暮らしはまだマシだ。
そう口を滑らせてしまえば最後、エルから何を言われるか分かったものではなかった。
文字通り馬車馬の如く働き、その間の食事は自分が用意しなければならない。
こちらにとってはそれが普通だったが、エルからしてみれば恐ろしいことこの上ないと言われるのは想像に難くない。
「そう、だな」
アルト曖昧に微笑むと、ゆっくりと続けた。
「でも今日は早く寝る。……それで、起きたら髪の毛弄らせてくれ」
約束しただろ、とエルの瞳を見つめながら問い掛ける。
「……本当?」
見る間に目を見開き、どこか信じられないような口調でエルの形のいい唇が動いた。
「ああ、本当。けど絶対下手だと思うから……その、笑わないでくれると助かるな、って」
目線を伏せると段々と語尾も小さくなり、最後の方は聞こえたかどうかも怪しい。
けれどエルは嬉しそうに笑みを浮かべ、さも愛おしそうな声で言った。
「ありがとう。明日が楽しみだ」
そのままエルの顔が迫ってきて額や瞼、鼻先に短く口付けられた。
やがて至近距離で微笑み合い、それと同時にアルトはただただこの優しい日常が壊れぬように願った。
◆◆◆
「──どう、かな」
鏡の前に座り、エルは愛しい男の自信なさげな顔をじっと見つめる。
昨日ライアンに呼び出された時は鬱屈としていたが、アルトの顔を見ると一瞬でそんな感情も塗り変わるから不思議なものだと思う。
(俺のために一生懸命で、なのに不器用で可愛くて。……ずっと飽きないんだろうな)
何度か『髪を結って欲しい』と言っていたが、その度に邪魔が入っていた。
部屋付きのメイドを後ろに従えてジョシュアはアルトを、レオンは幼子が来る時間を見計らっているかのようにエルを迎えにくる。
互いの時間が合わない事に苛立ちながらも、叔父らが王宮へ滞在するようになってからこうも忙しくなるとは思わなかったというのもある。
辺境伯領の開発や軍事に始まり、交易や整備費などを高官らを混じえて議論し、数日。
この費用は抑えるべきだというお偉い方がその都度出張り、互いが納得するまで部屋に籠る事もしばしばだった。
アルトほどではないが疲れは溜まっている。
しかし寝室や自身の執務室へ戻ると眠らずに帰りを待っていてくれるため、申し訳ないと思う。
だからか、髪を結ってもらうのは早くても帰った後だと思っていたため少し動揺してしまった。
エルはそっと後ろに手をやり、左右に首を振る。
耳から前の髪は少し長さが足りなかったのかそのまま垂らされ、青いリボンで一つに纏められている。
リボンは結びにくかったのか少し緩いと感じたが、あまり動かなければ解けないだろう。
それ以上に己を想って一生懸命にしてくれたことが嬉しく、エルは内心浮き足立っていた。
「うん、上手だ。朔真は器用だね」
鏡越しににこりと微笑むと、見る見るうちにやや白い頬が赤くなっていく。
「そ、そっか。なら良かった」
未だエルから褒められることには慣れていないようで、そんなところも愛おしかった。
「今日はこのまま公務に行くけどいい?」
椅子に座ったままくるりと振り向き、頬を染めて固まったままの男を真正面から見つめる。
(自慢したいから)
声には出さず、そっと心の中で呟く。
するとエルから目を逸らし、両手で控えめに顔を隠すとそのまましゃがみ込んだ。
「朔真?」
どうしたの、とエルもその場に膝を突き顔を覗き込む。
頬だけでなく耳まで赤くさせ、こちらを遠慮がちに見つめる深い海のような瞳と視線が交わった。
「好きにしてくれ……」
だからいちいち言わなくていい、とでもいうかのようにアルトは小声で囁く。
「──っ」
とくん、と心臓が小さく跳ねる。
思い返せばこうして二人でゆっくり出来る日はほとんどなく、今日のように互いが早起きでもしなければ無理なのだ。
それもこれもナハトらが滞在している間、と思えば安いものだが如何せん満足に触れ合えていない。
だからか、せめて朝食の時間までに少しでもこの男に触れたい──そう思う心とは裏腹に、理性は『駄目だ』と警鐘を鳴らしている。
(これからジョシュアが来るんだ、疲れさせちゃいけない)
毎日必ずメイドを引き連れてやってくる幼子が邪魔だとは思っていないが、もし鉢合わせてしまえば教育に悪いのは確かだ。
それこそ回り回ってネロに伝わり、嫌味を言われるかもしれない。
幼い頃から親交はあるがとても仲が良いとは言えず、むしろ苦手な人間の一人だ。
何を考えているか分からないのはケイト以上で、しかしケイトの方が遥かに可愛いものだと思う。
こちらの気持ちを見透かすような口調に、父親と同じ紫の瞳は柔和なものの、その実感情が見えない。
辺境伯領で何かが起きると分かっていたのか、幼い子供と共に王宮に来たのは幸いだった。
けれどその妻がいないのは気になり、しかし直接問おうにもあまり顔を合わせたくはない。
その代わりとでもいうのか、妹であるマリアがやってきたが辺境伯領の公爵家の男と近々結婚式を挙げる身だ。
王宮に居てもいいのか、と疑問が残る反面マリアはマリアで晩餐会の日から顔を見ていなかった。
部屋に居るのだと思うが、王太子とて安易に未婚の女性の部屋に訪ねてはならない。
(でもマリアには挨拶しないとだし、メイドに頼むか)
「……うん?」
他のことを考えているうちに己の中に燻る熱も下がり、同時にくいと袖を引かれる。
ややあってエルは伏せていた瞼を上げた。
「えっ、と」
見ればアルトはもごもごと口を小さく動かし、胸の前で指先をくるくると回していた。
「なに?」
あくまでアルトの口から聞きたくて、努めて優しく続きを促す。
「髪、梳いてくれるか……?」
「え」
ぽつりと蚊の鳴くような声で放たれた言葉に、エルは瞬きを繰り返す。
先程に比べて頬の赤みは薄くなっているが、それでもまだほんのりと桃色に染まっている。
上目遣いになった瞳はわずかに潤んで、小さく開かれた唇から舌が覗いていた。
無意識に喉が上下し、しかしぐっと手の平を握り締めて耐える。
先程抑え込んだというのにすぐに熱を取り戻そうとする自身に半ば呆れつつも、エルは緩く口角を上げた。
「それくらいいくらでもするよ。座って」
言いながら手を伸ばし、アルトを立ち上がらせると椅子に座るよう促す。
「貴方の……『アルト』の髪は柔らかいね」
そっと金色の髪をひと房摘み、二人の時は呼ばない名を口にする。
ぴくりと肩が揺れたのに気付かない振りをしつつ、エルは思う。
(本当の朔真にも会えたらいいのに)
見た目は『アルト・ムーンバレイ』その人だが、エルの目にははっきりと『朔真』として映っている。
少し不思議な気持ちになりつつも、やはりどうしても本来の『朔真』をこの目で見てみたいと時々考えてしまうのだ。
『アルトではない』と打ち明けられた時、思ったよりも落胆していない自分に驚いた。
今思えば既に『朔真』が好きで、この人と一緒になりたいと『アルト』の時よりも強く願ったのだ。
そのため、婚約してから一年は準備が掛かるところを半年で結婚式を挙げ、誰にも取られないようにと国内外に宣言した。
結果として、国中では『王配に害を成そうとする者は王太子に殺される』という噂がまことしやかに囁かれている。
実際、誰であれ傷一つ付けようものなら己でも何をするか分からないため、間違っていないのだが。
「──早く帰ればいいのに」
ぼそりと低く呟いた言葉に、今度こそ愛しくて堪らない男の肩が大きく揺れる。
「や、やっぱり嫌だったか? ごめん、無理言って」
しかしどう取ったのか自分に言われたと思ったようで、アルトは慌てて謝罪の言葉を口にした。
(ああ、また)
エルは内心で溜め息を吐いた。
一定の動きでブラシを通していた手を止め、アルトの前に回り込んだ。
「貴方に言ったんじゃないんだ。朔真は悪くないから……だから謝らないで」
悪いのはこんなことを考える自分自身だ、と心の中で付け足す。
このまま誰の目にも晒す事なく自分だけを見て欲しい、という感情が久しぶりに頭をもたげたのだ。
もしそれを露わにしてしまえば、それこそ嫌われてしまうだろう。
十数年越しに対面し、逃げられないよう理由を付けて王宮に留め、公爵邸へ帰ろうとするのを阻止した。
それだけでは飽き足らず小屋に監禁し、怖い思いをさせてしまった。
けれど最後には己のことも受け入れてくれ、こうして今も隣りに居てくれる。
それは『朔真』だったからであって、普通ならば婚約破棄されてもおかしくはないほどだ。
(嫌われたら生きていけない)
エルは膝に置かれている手をそっと握り、神に祈るかのように懇願する。
「……だから、俺から離れないで」
ぎゅうと手の平の力を込めて言うと、アルトはぱちぱちと目を瞬かせた。
「いや、離れないけど」
むしろ俺の方が離されそうだ、とアルトは憂いを帯びた瞳で続ける。
「──でもそうだな、俺が嫌って言っても止めてくれない奴は嫌いだ」
にこりと笑みを浮かべられ、エルはその言葉の意味をしばらく考える。
どこか他人事のような、しかし照れを含んでいない表情や声でさぁっと血の気が引いていくのが分かった。
「それは……えっと、ね。可愛い貴方が悪いと思うんだけど」
だから煽る方が悪い、と今度はエルが目を泳がせる番だった。
「煽ってないが!? あと俺は可愛くない!」
するとそれまでの威勢はどこにいったのか、顔だけでなく首までが赤く染まる。
「可愛いよ、本当に」
ふふ、と小さくエルは微笑むと、ブラシを通して艶を増した頭を撫でる。
ふわふわとした髪は指先に馴染み、いつまでも触っていたくなるほどだ。
「あー、もう! なんでこうなるんだ……!」
エルにはどう言っても無駄だと悟ったのか、アルトの絶叫が寝室にこだました。
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思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
異世界転生先でアホのふりしてたら執着された俺の話
深山恐竜
BL
俺はよくあるBL魔法学園ゲームの世界に異世界転生したらしい。よりにもよって、役どころは作中最悪の悪役令息だ。何重にも張られた没落エンドフラグをへし折る日々……なんてまっぴらごめんなので、前世のスキル(引きこもり)を最大限活用して平和を勝ち取る! ……はずだったのだが、どういうわけか俺の従者が「坊ちゃんの足すべすべ~」なんて言い出して!?

お荷物な俺、独り立ちしようとしたら押し倒されていた
やまくる実
BL
異世界ファンタジー、ゲーム内の様な世界観。
俺は幼なじみのロイの事が好きだった。だけど俺は能力が低く、アイツのお荷物にしかなっていない。
独り立ちしようとして執着激しい攻めにガッツリ押し倒されてしまう話。
好きな相手に冷たくしてしまう拗らせ執着攻め✖️自己肯定感の低い鈍感受け
ムーンライトノベルズにも掲載しています。
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