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第三部 一章

似た者同士 4

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 その声音は父親としてのそれで、早くジョシュアに会いたいというのが全面に出ていた。

「──って言っても離してくれないんだろうね、君は」

「へ」

「当たり前だ。お前が心配しなくても、使用人があやしてくれる」

 ぼそりと呟かれた低い言葉は、どうやらエルに向けられたものらしい。

 横を見ると、エルがやや冷ややかな瞳でネロに視線を向けていた。

「確かにそうだけど」

「昼間も同じことを言ったのにもう忘れたのか」

 尚もネロが歯切れ悪くも言い募ろうとすると、エルの言葉に被せるように少し高い音を立ててカトラリーが置かれた。

「──エルヴィズ、せっかくの席だ。それくらいにしろ」

 ライアンはやんわりと息子を諫めると、グラスに注がれていたシャンパンを一息に煽った。

 すかさず傍に控えていたミハルドの手から、新たな酒が注がれる。

「……は、申し訳ございません」

 エルは短く謝罪し、同時に繋いでいた手がそっと外された。

(これ、昼間と同じだ)

 温もりが離れていった寂しさよりも、相手をどこか下に見ているような、いつになくエルらしくない声音にいくつも疑問が浮かぶ。

 それはノアに対する時とは随分違い、むしろ敵と見なしているような気さえした。

「陛下の言う通りだ。お前も今はジョシュアのことは考えず、ゆっくり食べなさい。せっかく料理長が腕によりを掛けてくれたんだ、急いではもったいない」

「……はい」

 ライアンに続きナハトも自身の息子を諭す。

 ネロは小さく頷くと、俯きがちに料理を食べ始める。

(もしかしなくても、二人ともすっごく仲が悪い……?)

 エルとネロの間には見えない何かがあるのか、空気が張り詰めているのを嫌でも感じる。

 テーブルを挟んだ斜め向かいではあるが、二人が近付くとどうなってしまうのか改めて身が竦む思いだった。

(にしても……心配、か)

 アルトは料理を口に運びながら、先程ネロが言った言葉を考える。

 ジョシュアは見たところ五つに満たないと思うが、やや過保護過ぎるのではないかと思う。

 しかし同時に羨ましい、という感情が頭をもたげた。

 元の世界ではまともな親孝行もできず、ただただ自分の置かれている状況に着いていくのに精一杯で、次に目を覚ました時にはこの国の公爵だった。

 それからあれよあれよといううちに王太子と結婚して今に至るが、時々両親の事も考えてしまう。

 会いたくても会えない者のことを考えても仕方ないが、何かが引き金になっているのは事実だ。

(でも、俺はもう戻れない)

 この世界で唯一と言ってもいいほどの愛しい男が出来て、今更元の世界に帰りたいとは強く思えなかった。

 事実、エルと婚約してからは元の世界に帰る手掛かり一つすら調べていない。

 それ即ち『朔真』がこの世界で生きると決めたも同義で、一つの覚悟だった。

(エルと生きるって決めたから)

 ごめん、と今ではぼんやりとしか顔を思い出せなくなった両親に謝罪する。

 両親から見れば親不孝な息子で申し訳なく思うが、既に決めてしまったことなのだ。

 始まりよりもほんの少し空気が張り詰め、ある者にとってはしんみりとした、ささやかな晩餐会はゆっくりと終わった。




 ◆◆◆




『ごめんね、もう少し待ってて』

 晩餐会もつつがなく終わり、そうエルに言われてから数時間が経った。

 次期国王としてライアンの補佐も兼ねており、一ヶ月は多忙な日々が続くと事前に聞いていたためすぐに頷いた。

『……本当なら貴方と部屋に戻ってるんだけど』

 別れ際、エルは離れたくないという声音を隠すことなく数分粘った。

 しかし音もなくエルの背後に陣取っていたミハルドからやんわりと急かされ、さも不満そうな表情をしていた。

『ほら、行きますよ』

 ミハルドに腕を摑まれていると普段よりも幼い印象を受け、可愛らしいと思ったものだ。

「……にしても遅いな」

 アルトは自室でエルの訪れを待ちながら、久しぶりに本を読んでいた。

 丁度読みたい書籍があった事を思い出し、それから少しも休むことなく没頭していたのだが、一冊に留まらず続きである二冊目を読み切ってもまだ来ない。

 ここ数日は忙しく、文字通り寝る間も惜しいはずだ。

 しかし、エルは時間さえあれば傍に居てくれる。

『貴方と一緒だと元気になるんだ』

 疲れているはずなのに柔らかな笑みを向けてくれ、身体を休めて欲しいのに触れてくる。

 それに応えてしまう己もだが、ここのところエルの体力は無尽蔵なのではないのかと思うほどだった。

(一回だけって言ったのに、結局昨日は……)

 そこまで考えるとアルトは頭を振り、考えを打ち消す。

「俺も、俺だ」

 頭ではしっかりと分かっているというのに、いざ愛しい男を目の前にすると身体をゆだねてしまうのだ。

 形ばかりの抵抗すら無意味に等しく、気付けばエルの下で快感を享受している。

 いつも止めなければと思うのに、理性はそれすら上回ってしまうらしかった。

「……よし」

 気を取り直してまた別の書籍を本棚から選ぼうとした時、扉を控えめに叩く音が聞こえた。

「入ってくれ」

 短く声を掛けたが、扉の向こうから人が入ってくる気配はない。

「……うん?」

 いぶかしみつつもアルトが扉に近付こうとすると同時に、がばりと扉が開いた。

「っ!」

「よ、アルト!」

「ケイ、ト……か。びっくりするだろ」

 片手を上げ、上機嫌に部屋へ入ってきた人物はこの国の第二王子だった。

 先程の晩餐会で顔を見たが、席に着く事なく早々にどこかへ行ってしまったため、今の今まで話せずにいたのだ。

 その時は柔らかなクリーム色の髪を耳の後ろで結い、黒いフロックコートに身を包んでいた。

 しかし今は髪を下ろし、簡素なシャツとスラックスに着替えている。

「悪い悪い。けどもう一人いるぞ」

「もう一人?」

 ケイトの視線の先を追うと、小さく丸い頭──ジョシュアが本棚に駆け寄っているのが見えた。

「ねぇねぇ、これぜんぶ、おにーちゃんの?」

 振り返って尋ねてくるさまは好奇心でいっぱいで、図らずも拍子抜けしてしまう。

「へ、そう……だけど」

 ぱちくりと目を瞬かせつつも、アルトは短く応える。

 ジョシュアの身長ではせいぜい一段目の棚が見える程度だが、それでも興味津々なのかきらきらと紫の瞳を輝かせていた。

「文字、読めるのか?」

 アルトはジョシュアの傍に膝を突くと、ゆっくりと尋ねた。

「えっとね、ちょっとだけ。あ、ジョシュこれよめるよ! 『おうぞく』!」

 言いながらジョシュアは背表紙を指さし、元気よく言った。

 確かにそこには『リネスト国王族名鑑』という、この国を創った初代国王やその伴侶の名から始まり、前々王の名までつらねられている。

 この世界、ひいてはリネスト国のことをもっと深く知るため、エルから部屋と本棚を贈られてからアルトが最初に手に取った本でもあった。

「ジョシュは勉強好きだもんなぁ」

 どこか間延びしたケイトの声が背後から聞こえ、ジョシュアがその脚に駆け寄る。

「でもね、いろんなことおしえてくれる、ケイトにぃのほうがもーっとすき!」

 ぎゅうと脚に抱き着くと、ジョシュアは上目遣いでケイトを見つめた。

 アルトにはジョシュアの後ろ姿しか見えないが、ケイトの表情はこれ以上ないほど優しい。

(よかった、笑ってる)

 思い返せばケイトが心から笑っているところはあまり見たことがなく、いつも作り物めいていたように思う。

 無理して笑っているような、そんな雰囲気がケイトから滲み出ていた。

 しかし生みの母──レティシアがいなくなってから、ケイトは憑き物が取れたようによく笑い、明るくなった。

(でも……なんで一緒に食べなかったんだろう)

 建前上であってもケイトは第二王子のため、晩餐会に出席出来る。

 だというのにケイトは顔を見せただけですぐにどこかへ行き、それを誰も止めなかったのは違和感があった。

 加えてなぜアルトが部屋に居ると知っており、ジョシュアを連れているのか。

(いや、多分ネロさんがいなかったからか)

 どうやら父の姿を探し、一人で廊下へ出たのだろうと予想する。

 それを使用人かケイトが見つけ、部屋に戻らせず好きにさせているのではないか。

「……ととさまは、あんまりひとりになるなっていうから」

 ふとジョシュアが拗ねたようにケイトから目を逸らし、その場で膝を突いたままだったアルトの傍に戻ってくる。

「おにーちゃん」

 小さな手の平はきゅうと握り締められており、ジョシュアは丸く大きな瞳をそっと伏せた。

「あのね、きょう」

「──ああ、ここに居たのか」

 するとジョシュアの言葉を追って、開け放っていた扉から低い声が聞こえた。

「あ、っ……」

 ジョシュアは小さく悲鳴じみた声を上げ、慌ててアルトの後ろに隠れる。

 その人はケイトの横を突っ切り、アルトの目線の先に膝を突いた。

 花に似た香りがふわりと鼻腔を擽り、艶のある黒髪が間近で揺れ動く。

「お部屋に戻りましょう、ジョシュア様」

 普段より少し高く、けれど有無を言わせぬ声音は紛れもない王太子としてのものだ。

 エルはゆっくりとジョシュアに手を伸ばし、しかしその手はアルトの上着の裾を弱々しく摑んでいる。

「……ととさま、おこってる?」

 けれどエルには逆らえないと幼心に悟ったのか、それとも無断で出てきてしまったため父親が怖いのか、ジョシュアはおずおずとアルトの背後から顔を覗かせた。

 紫の瞳からは今にも大粒の雫が零れ落ちそうで、見ているこちらまではらはらしてしまう。

「いえ、心配されています。なので早く戻りましょう、ジョシュア様」

 エルはもう一度幼い子供の名を呼び、安心させるためか緩く口角を上げた。

 ジョシュアは未だ眉を歪めているものの、諦めがついたのかエルの指先を控えめながらきゅうと握る。

 ふっとエルが小さく息を吐き、それまで背後で静観していたケイトを肩越しに振り返る。

「ケイト、後を頼めるか」

「あ、俺? ……いいけど、あいつ苦手なんだよなぁ」

 軽く頬を掻きつつケイトは悪態を吐く。

「お前が見つけてくれたんだろう。……責任持って送り届けろ、とは言わないから」

 エルはどこか歯切れ悪く言い、ジョシュアの背を押してケイトの傍に行くよう促す。

「んー……まぁ、それなら。でもミハルドかレオンが居たら捕まえるけど、いいよな?」

「そこは任せる」

「よぉし、じゃあ行くか。ジョシュ、おいで」

 エルと何度か言葉を交わすと、ケイトはジョシュアに向けて両手を広げる。

「……うん」

 ジョシュアはすぐに腕の中に収まると、ぎゅうと首筋に抱き着いた。

「──ごめんな。アルト、また来るから」

 ケイトはぽんぽんとジョシュアの頭を撫で、抱き上げる。

 申し訳なさそうなケイトの横顔を最後に、ゆっくりと扉が閉まった。

「あ、ああ。おやすみ」

 未だ床に膝を突いていたアルトの声が扉の音に紛れて虚しく響き、やがてしんとした静寂が落ちる。

 ごく短い間だったが、先程ジョシュアが言いかけていた言葉がなんなのか気になった。


(もしかして父親といたくない、のか……?)

 先程言いかけていたことも、エルが部屋に入ってきた時の怯えようも、ケイトから離れまいと抱き着いていたことすら不思議だった。

 怒られるかもという不安からなら分からなくもないが、そもそも幼い子供を王宮に連れてきた事に疑問が沸き起こる。

「──朔真」

「っ」

 すると頬に手を添えられ、不意打ちにぴくりと肩が揺れる。

 気遣わしげにこちらを見つめるエルの表情が視界に入り、慌てて唇を開いた。

「お、遅かったな。あと一時間くらい経ったらもう寝ようと思って……っ」

 すべて言い終わる前にぐいとおとがいを摑まれ、唇を塞がれた。

 それは短く触れて離れたかと思えば、また重ね合わされる。

 柔らかく下唇をみ、軽く吸われただけでぞくぞくとした愉悦が甘く脳を支配した。

「ぁ、まっ……て、エル……や、だ」

 ぐいと肩を押して離れようとしても、キスが深くなるだけで知らず鼻にかかった甘い声が出る。

 本棚から部屋の出入口まで距離があるとはいえ、扉一枚隔てた向こうにはまだケイトとジョシュアが居るかもしれない。

 そうでなくても使用人が通り、何をしているのか聞こえているかもしれない。

 いくつも嫌な予感が頭の中を巡るのに、エルは聞く耳を持ってくれないようだった。

「黙って」

 短く放たれた声音は冷たく、やがて唇よりも熱い舌先が己のそれに触れる。

「ぃ、やだ……って、言って」

 しかし、抵抗虚しくわずかに開いた唇の隙間から舌が侵入し、奥で縮こまっているそれを絡め取られた。

 ぬるりと表面を撫でられ、そっと上顎を擽られる。

 頬の内側から歯の一本一本まであますことなく舌がうごめき、快感にがくがくと膝が震えた。

 その拍子に身体が後ろに傾き、そのまま背中が何か硬いものに当たる。

「っ、あ……」

 本棚か、と思った時にはエルの腕の中に閉じ込められており、身体が花に似た香りに包まれていた。

「──の」

 同時に唇を解かれ、艶を帯びた言葉が耳元に吹き込まれる。

「どうして嫌なの」

 ぎゅうと抱き締める力が強くなり、少し苦しい。

 しかし腕に比べて口調は優しく、何もかもをさらけ出してしまいそうになる。

(俺、は……)

 嫌だなんて本当は思っていない。

 むしろ恥ずかしく、このまま酷くして欲しいとさえ思うほどだった。

 ただ、そんな事を己の口からはとても言えない。

 普段でさえ好意を伝えるのには慣れず、キスすら頬にするのが精一杯なのだ。

 それをエルは分かっているのかいないのか、真正面から見つめてくる。

 甘く微笑んだ表情は、アルトが何を望んでいるのか既に理解している者のそれだ。

 あくまでこちらの口から言って欲しくて、意地悪をするエルが今は恨めしい。

「……貴方も疲れてるだろうし、もう寝ようか」

「ちが……っ」

 すっと身体から温もりが離れていき、アルトは無意識にエルの手を摑んだ。

「寝ようとしてたんじゃないの?」

 立ち上がろうと腰を上げた体勢のまま、エルはこてりと首を傾げる。

 先程早口に言った言葉を真に受けたのか、それとも試しているのかどちらとも付かない表情に苛立ちが募る。

(なんなんだ、本当……!)

 数時間前の『待ってて』という言葉を律儀に守っていたのが馬鹿らしくなり、同時に昼間の出来事が脳裏を掠める。

「……お、前が」

「うん」

 エルはもう一度床にしゃがみ、目線を合わせてきた。

 柔らかく細められた水色の瞳には、頬を染めた自分が映っている。

 それを見たくなくて目を伏せ、戦慄く唇を叱咤する。

「続き、するって……言ったんだろ」

 羞恥に耐えるように、きゅうと一度唇を噛み締めて尚も続ける。


「さっき、のは……びっくりしただけ。……恥ずかしくて、嫌だった、だけで」

 途切れ途切れながら自分の言葉で言うのは羞恥心が大きく、しかしこうでもしないとエルは納得してくれないだろう。

 握っている手の力を強め、頬を染めながらそろそろと顔を上げた。

「けど俺、エルのことずっと待ってて、っ……!」

「──全部言えていい子だね、朔真」

 最後まで言うことなく、次第にあえかになっていく言葉はエルの唇に吸い込まれた。
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