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第三部 一章

似た者同士 3

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「──い」

 不意にノアが口の中で呟いた。

「え、何?」

 何を言ったのか知りたくて、アルトはノアの口元に耳を寄せる。

「……ずるい。ずるい、ずるい! 殿下ばっかり独り占めして! 俺だって、俺だってアルト様と一緒にいたいのに……!」

「……え?」

 唐突な叫びに驚いた反面、やや幼さの残る口調はノアの素なのだろう。

 しかし放たれた言葉に理解が追い付かず、アルトは慌ててノアの目の前に回り込んだ。

「で、でも迎えに来てくれたんだろ? そしたらその間──」

「それでも短すぎるんです! そもそも朝のお世話は俺の役目なのに、いつも殿下が服を着せてしまってるから……! 今日なんか特に酷く、て」

 半ば無理矢理遮ってきた言葉も次第に勢いをなくし、段々と語尾が小さくなる。

 やがてノアの掠れた声がむなしくこだました。

「……もしかして、朝機嫌悪かったのもそれが理由か?」

 アルトの言葉にノアはかすかに首を縦に振り、そのまま顔を俯ける。

(まぁ……納得出来る、けど)

 そもそも最初は『服くらい自分で着る』と言ってもエルは一切聞く耳を持ってくれず、今となっては身を任せているのが現状なのだ。

 ほとんど毎日エルの手によってシャツを着せられ、アルトが完全に眠りから覚めた時には既に身支度を済ませていた。

 その後時間があればメイドが持ってきた朝食を摂り、日課となっている紅茶をエルが供してくれる。

 一日の最初から最後まで、改めて考えるとノアが出る幕は無いに等しく、しかし最近はエルと共に公式な場に出る事が多い。

 必然的にノアの顔を見る事も多くなっていたが、それだけでは到底足りないらしかった。

(あ、でも前言ってたっけ)

『何かお困り事がある時は一番に私をお呼びください。貴方様のためならば、いつでも参りますので』

 そう、きらきらとした瞳で言っていたのを思い出す。

 あれから困り事という困り事は無く、あっても些細なことで呼ぶのは迷惑だろうからと遠慮していたのだ。

「すみま、せん……俺。いや、私は……侍従失格です」

 見る間に顔色が青くなり、ノアの白い肌が更に白くなっていく。

 きゅうと握り締められた両手は爪が食い込むほど強く、血が滲まないか心配になってしまう。

「あの、アルト様……?」

 微かに身体を震えさせ、こちらを見つめてくる瞳は幼子というよりも子犬のようだった。

 アルトは一歩距離を詰め、ゆっくりと口を開く。

「それがお前の本性なのか」

「っ、申し訳、ございません。仮にも声を荒らげるなど」

 そっと細い肩に手を置くと、びくりと大きく震えた。

 同時に子犬の耳と尻尾の幻覚が見え、それがおかしくて小さく笑う。

(怒ってないんだけど)

 失態を犯したと思うのは分からなくもないが、こちらとしてはノアの知らない一面を知れて嬉しいほどだ。

 黒い瞳を潤ませ、このままでは泣き出してしまいそうなノアに目線を合わせる。

「楽な方で話してくれると嬉しいんだが、無理……かな」

 ノアを刺激しないよう、アルトは努めて声を落として問うた。

 本当に幼い子供を相手にしているような気がしてしまうが、誰であれ泣いている姿は見たくないのが本音だ。

 感情に身を任せたノアには少し驚きがあったものの、嫌だとは思わなかった。

 それよりも己に気を許してくれ、ここまで想ってくれることが限りなく嬉しい。

「……俺、もっとノアと仲良くなりたいんだけど」

 一介の侍従に何を言うのか、と真面目な者──特にレオンであれば即座に固辞するだろう。

 けれどやっと気を持ち直した青年は、潤んだ瞳を大きく見開いた。

「いい、のですか……? しかし無礼では」

 その声は期待で満ちていたが、ほんの少し遠慮する声が混じっている。

「なら二人の時は楽に話そう。あ、でもエルには内緒な」

 あいつに知られたら怒られるから、とアルトは続ける。

 実際エルがこの場におり、会話を聞いていたならば即離されるだろう。

 しかしノアと仲良くなりたいのは本心で、もし許してくれるのならば嬉しい。

 そんな思いを込めて言葉にすると、ノアはゆっくりと口角を上げた。

「わかり、ました」

 おずおずと顔を上げた青年の頬はほんのりと赤く、その顔立ちも相俟って異性かと思うほどだ。

(いや、ノアは男だろ! ……エルもだけど)

 この男がエルとはまた違った美形だということを思い出し、アルトは頭を抱えたい衝動をぐっと耐える。

「……あの、アルト様」

 するとかすかに袖を引かれる感覚があり、ややあってノアに視線を向ける。

「貴方に似合いそうなお衣装を見つけたのです。なので、早くお部屋へ参りましょう。時間が無くなってしまう」

 口調こそあまり変わらないが、不思議とノアが前よりも気安く接してくれているように感じた。



 ◆◆◆



「……これ、変じゃないか?」

 鏡の前でくるりと回り、そのまま背後でこれ以上ないほどの笑顔を浮かべる男を見つめる。

 かれこれ二時間ほど、ノアが選びに選んだシャツや上下を着て、かと思えば脱いでを幾度となく繰り返していた。

「いいえ、よくお似合いです! それはもう、殿下が惚れ直してしまうほどに」

 ノアはアルトが先程着ていた上着を両手に持ちながら、ずいと一歩距離を詰める。

「ああ……でもあの方に見せるのが惜しい。やっぱりこちらにしましょうか? それともフリルのあるものにします?」

「いや、これでいい」

 こちらにそれを差し出される前に遮り、ちらりとノアの腕に掛けられているシャツを見た。

 アルトはかっちりとした揃いの紫紺の上下に、その中には簡素な白いシャツと深碧のベストを着ている。

 胸元には瞳の色と同じ青いブローチが輝き、柔らかく整えられた金髪は、少し動く度にふわふわと揺れていた。

 今着ているこの服装はまだいいとしても、同じ白とはいえふんわりとしたフリルに袖を通したくはなかった。

(着たら着たで何かが終わる気がする)

 貴族の世界では普通なのだろうが、あまりこうした服装には縁がなかったためか、自分でも知らずのうちに萎縮しているようだった。

 フリルが嫌という訳ではないが、ただただ『似合わなかったら』という不安が心の奥深くにあるのだ。

「では本日はこちらで。──それから、お約束のものです」

 ノアはなんら気にしたふうなく言いながら、傍のテーブルに置いていた指輪を手に取り、手早く鎖を外して手渡される。

「ありがとう」

 アルトはそれを受け取ると、左手の薬指に嵌めた。

 それはエルから贈られてから肌身離さず首に掛けているもので、着替えているうちにノアが磨いてくれたのかいつもより鈍く光っていた。

「なぁ、ノア」

 じっと指輪を見つめながら、アルトはぽそりと口を開いた。

「はい?」

 手際よく服や細かな装飾品を片付けながら、ノアが声だけで応える。

「エル、喜んでくれるかな」

「──アルト様は時々弱気になられますね」

「え、あ……ごめん」

 無意識に謝罪するとノアは小さく苦笑し、手を動かしたまま顔だけをちらりとこちらに向けた。

「先程俺に嬉しい言葉をくれた貴方とは大違いだ」

 淡く、けれどなんの混じり気もない笑みを向けてくる青年にアルトは瞠目する。

(また、俺は……)

 ノアなりに精一杯元気付けようとしてくれているのを感じ取り、小さく唇を噛み締めた。

 正直なところ、未だにこの状況が信じられないから出た言葉だ。

 自分が本当の『アルト』ではないのはもちろん、なぜ婚約から逃げ出そうと思ったのか時々考えてしまうのだ。

 それは既に答えが出ているようで永遠に本心は分からず、きっと奇跡でも起きない限り『アルト』には会えないのだという結論に至った。

 しかしすべてを言えるはずもなく、ただ『王太子が自分を見てどう思うか』という意味で捉えられ、少しだけ罪悪感が募る。

「貴方が殿下の大切な方だというのに変わりはない。……だから、何も怖がられる必要はないのです」

「そう、だな」

 アルトは曖昧に微笑み、ノアの傍に寄った。

「一人じゃ大変だろ、手伝うよ」

 部屋の周囲、特にテーブルの上にはシャツやコートにスラックスが山積みで、小ぢんまりとしたベッドの上にも様々な衣装が散乱している。

 いくつもある透明なケースからは装飾品が出されているがごちゃごちゃしており、何がどこに入っていたのか分からないほどだ。

(毎回すごいな……)

 アルトは内心で苦笑した。

 エルから身の回りの世話を命じられたのは分かっているが、何か行事がある度にこれなのだ。

 加えてノアは他の使用人を寄せ付けず一人でやろうとするため、最終的にはとても一人では片付けられない量になっていた。

「すみません。……ではお願いします」

 それでも今日ばかりは無理と悟ったのか、それとも頼ってもいいと思ってくれたのか、ノアが苦笑いする。

 仮にも王配が使用人、それも侍従と共に片付けるなど本来ならば有り得ないが、ノアは何も言わなかった。




 縦に長いテーブルの上には、肉や魚を初めとした様々な料理が一人ずつ並べられている。

 ゆったりとした音楽を聴きながら、アルトはその人物にぎこちなく笑みを浮かべていた。

「君がエルヴィズの伴侶とは。いやはや、あの剣術馬鹿も立派になって……」

 目元に手をあて、その人は涙を拭う仕草をする。

 アルトから見て真正面、その左側には上機嫌に笑みを浮かべた老齢な男が座っていた。

 胸ほどまである黒髪をリボンで緩く結い、胸元に垂らしている。

 前髪は後ろに撫で付け、柔らかく口角を上げたさまは品があった。

「叔父上、お口が過ぎますよ」

 すかさず隣りに座っていたエルがやんわりと口を開き、微笑む。

 その声音は普段よりもずっと低く、しかしいさめる口調は穏やかでなぜか空恐ろしさが増した。

「おっと、これは申し訳ない。アルト、だったかな」

 その人──ナハトは右目を細め、淡く微笑する。

「は、はい!」

 名指しされたアルトは慌てて返事をした。

 少し声が裏返ってしまったが、ナハトは気にすることなく口を開いた。

「……あまり硬くならないで欲しいんだけどね。私は仮にも王族だけれど、君たちより位が低い」

 川のせせらぎに似て穏やかで優しげな声は、ライアンとはまた違った洗練さがあった。

 辺境伯は言わば伯爵よりも上の位だが、侯爵ほどの地位はない。

 しかし国境を守る貴族であるため、年に何度も王宮に参上する務めがあった。

 加えて外交の面でも辺境の貴族は重要で、アルトが知らなかっただけでナハトは二ヶ月に一度の頻度で参上していたという。

 政治の事は分からないが、それでもリネスト国にとってなくてはならない存在に、アルトはじっと男を見つめる。

(国王陛下の双子の弟って聞いたけど……この人はこの人で)

 怖い、と思った。

 紫の瞳は、その態度と同じく柔和な目元をしている。

 しかし言葉以上に表情は何を考えているか分からず、腹の底が見えない。

 加えて左目に黒い眼帯をしており、露出している右目だけではあまり感情が予想できなかった。

(下手したらミハルドさんより分からない)

 ライアンの傍には銀髪の青年がおり、かすかに目が合うと緩く首を傾げられた。

『何かありましたか?』とでも言いたげな表情に、アルトは小さく首を振って誤魔化した。

 ミハルドも最初こそ腹の底に何かあるのではないか、と疑った頃もあったが今では感情が豊かな方だと思う。

 常に細められている瞳が開き、血のようにどす黒い色が現れるのだけはどうしても慣れないが、それを抜きにしてもミハルドは優しい。

 果たして好々爺然としているナハトはどちらなのか、この場にはあまり似つかわしくない事を考える。

「──アルト」

 不意に柔らかな声と共に、肩にエルの手が触れた。

 そちらを見ると同時に、同性にしては細く長い指先が安心させるように己のそれと絡め合わされた。

 手の平を通してじんわりと広がる熱は、無意識のうちに恐怖していた心を溶かしていく。

「大丈夫だよ」

 ごく小さな声は優しく、さながら守られている錯覚に陥る。

「叔父上の言葉にすべて反応していたら、それこそ日が暮れてしまう」

 だから話半分に聞ていい、とエルは続けた。

「聞こえているぞ」

 するとナハトの口から低い声が聞こえ、びくりと知らず肩が震える。

(あ、やっぱり怖い)

 今度こそはっきりと恐怖が感情をもたげ、アルトは笑みを浮かべたまま固まる。

 これは怒らせたら一瞬で終わるな、と理性が告げていた。

「──それにしても、本当に仲がいいな」

 やがてナハトはどこか眩しいものを見るような瞳をエルに向け、アルトに目を滑らせる。

「けれど、馬鹿な甥に何かされたら私に言いなさい。すぐに駆け付けよう」

「え、あ……どう、も」

 たった今『怖い』と思ったばかりの相手の、本当かどうかも分からない言葉に曖昧に返す。

「よもや『鬼神』と恐れられる貴方に、そんなことを言われるのは心外ですね。……今まで信じておられなかったのですか」

 ふっとエルは口元を歪め、ナハトを見つめる。

 その瞳は剣呑に細められ、二人の間に入っている身としてはどうしたものか分からなかった。

「いいや、想像以上でこちらまで胸焼けしそうだ」

 なぁ、とナハトは隣りに座る男──ネロに視線を投げ掛けた。

「……そう、ですね」

 まさか声を掛けられるとは思わなかったのか、それまで黙々と料理を口に運んでいたネロが小さく呟く。

 あまり会話に入らない性分なのか、はたまた腹が減っていたのか、ネロはその言葉を最後に料理を口に入れる。

 このままでは一番に食べ終わりそうで、アルトはふと唇を開いた。

「ジョシュア、が……気になるんですか」

 ネロの隣りには幼い子供の姿はなく、代わりに女性が座っている。

 その人も艶のある黒髪で、柔らかなウェーブのかった髪を背に垂らし、ネロと同じく黙々と料理を食べていた。

 話し掛けられたネロはぱちくりと目を瞬かせ、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。

 その表情はエルと同じで、不思議な感覚を呼び起こす。

「少し遊んで、パンを食べさせてから寝かせたんだけど、起きたらどうしようかなって。……あの子は僕がいないと泣いてしまうから」
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