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第三部 一章

似た者同士 2

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「──あと少ししたら終わるから……それまでいい子で待っててくれる?」

「へ、っ……?」

 何を言われたのかすぐには理解できず、ぼうっとエルを見つめる。

 そんなアルトの頬を撫で、エルは安心させるように微笑んだ。

「さっきあいつ……ネロが来ただろう? 一緒に叔父上もいらしてるから、対応しないといけないんだ」

 ごめんね、とエルは申し訳なさそうに謝罪する。

「──んで」

「ん……?」

「なんで、いつも生殺しにするんだ……!?」

 正確にはごく稀にだが、それでも今日は特に酷いのではないか。

 しかし、それは少しでもその先を期待してしまった己を恥じる気持ちと、ここまでの事をされ『お預け』された事への八つ当たりに他ならない。

 アルトは頬を更に赤くさせ、尚も言い募った。

「途中でやめる、の……嫌だって言ってる、のに」

 ただの我儘でしかないが、それでも一度触れてしまえばもう歯止めが効かないとエルも理解しているのだろう。

 だからといって、その気にさせた責任が無くなった訳ではないのだが。

「あ、そうか」

「っ……!」

 さらりと艶のある黒髪が揺れたかと思えば唐突な浮遊感に襲われ、視界が高くなった。

「ごめん、こうしたらよかったね」

 至近距離で水色の瞳に微笑まれ、アルトはわなわなと唇を震わせる。

「ちが……いや、合ってるんだけどそうじゃない……!」

「でも立てないんだろう? それに、ずっとここにいたら風邪引くよ」

「うっ……」

 緩く首を傾げて問われ、一瞬言葉に詰まる。

(お前があんなキスするからだろ……!)

 春とはいえ暖かいが、確かにエルの言う通り風邪を引いてしまう可能性は十二分にある。

 けれど身体の火照りと腰の甘い疼きが収まり次第、すぐに王宮内のどこかの部屋に入ろうとしていたため、ここまでされるいわれはなかった。

「──部屋に戻るから片付けてくれるか」

 エルはアルトを抱えたまま歩き出すと廊下を歩いていたメイドを呼び止め、軽く庭先に視線を向けた。

「はい、かしこまりました。……あの、何か必要なものがあればお持ちしましょうか?」

 王太子に抱き上げられている王配を見上げ、メイドがさも心配そうに問い掛けてくる。

(そんな、そんな目で見ないでくれ……)

 どうやら怪我をしていると思われたらしく、アルトは弁明したいのを必死で堪える。

 まさかキスだけで腰が抜けてしまい、抱き上げられているとは思わないだろう。

「いや、その時は呼ぶからいい。それよりも準備はどうなっている」

「そちらでしたら、既にノア様がお待ちです。……本当に何もございませんか」

 尚もメイドが再三言い、しかしはっとしたように口を噤んだ。

「すみません、不躾なことを……すぐに片付けますので」

 メイドはエルの言葉を待たず一礼し、慌ただしく庭先へ向かった。

「……なぁ。準備、って」

 ゆったりとした足取りは規則正しく、けれど普段とは違う廊下を歩いていることに気付き、ふとアルトは問い掛ける。

 あまり通らない廊下を視界の端に捉えながら、なぜか薄ら寒い心地がした。

「待って、何も聞いてなかったの? 今日の朝、俺やノアが言ってたことも?」

 するとエルは脚を止め、まっすぐに前に向けていた視線をこちらに寄越した。

 エルには珍しく困惑したような、信じられないという瞳で問うてくる。

「いや、その……だって昨日、あんまり寝てない……から」

 ぼそぼそと口の中で呟き、そこでエルはやっと合点したというように微笑んだ。

「……ごめんね?」

「絶対悪いと思ってないだろ、馬鹿」

 エルが寝室に戻ったのは夜もとうに更けた頃で、アルトは夢現ゆめうつつの中出迎えたのだ。

 そこまでは良かったが、あろうことかエルは『悪戯』をしてきた。

 最初こそ額や頬に触れるだけのキスをして、それで終わるのかと思えば耳元を甘く噛んできた。

 エルからは普段の花と石鹸の混じる香りに加え、ほんの少し酒の匂いがしていた。

 今思えば酔っていたのだと思うが、誘いに乗った自分も自分だ。

 結局のところ眠りに就いたのは明け方で、エルに至ってはほとんど寝ていないに等しい。

 だというのにすっきりとした顔色は普段通りで、少しばかり悪態を吐きたくもなる。

(嫌って言わなかった俺も悪いけど)

 どちらにしろ、エルには一生敵わないのだと思う。

 本当に嫌がる素振りを見せれば止めてくれると思うが、ただの一度も己の口が『止めろ』と言った事は無かった。

 けれど、改めて言われると慌ただしく寝室を出たエルと入れ違いになるようにノアが入ってきて、何かを長々と言っていた気もする。

 その時も継続して睡魔に襲われており、半分ほど寝ているうちにノアの『起きてください』という声と共に肩を揺すられた。

 それを合図にぼんやりと覚醒したが、いつになく不機嫌なノアに疑問を抱いた。

 とても『もう一回言ってくれ』とは言えず、今の今までノアには聞けず終いで、エルの言葉で思い出したと言ってもいい。

「──もしかして予定入れてる?」

 ふと低い声が聞こえ、アルトはそれまでの思考を切り替えた。

「ない、けど……っ」

 すると至近距離で瞳が交わり、思ったよりも近い距離に今更ながら羞恥心が湧き上がる。

「お、降ろしてくれ。もう歩けるから」

「駄目」

 間髪入れず遮られ、にこりと微笑まれる。

 どこに向かうのかは分からないが、既に腰の疼きも下腹部の熱も治まっている。

 だというのに否と言われるとは思わず、アルトの頭にいくつもの疑問が浮かぶ。

「離れたら叔父上の所に行かないといけないだろう? 大丈夫、言い訳はいくらでもある」

「さっき『あと少ししたら終わる』って言ってたのは誰だよ!?」

 その『叔父上』は国王の兄弟で、当たり前だが王族だ。

 けれどエルはなんら気にしておらず、むしろアルトと離れたくないと言う。

 今も刻一刻とエルの到着を待っており、やきもきしているかもしれないというのに、自ら時間を遅らせている。

 先程の言葉を忘れている訳ではないはずだが、最悪の場合痺れを切らし、この場を見られる可能性も少なからずあるというのに。

「……夜まで待ってろ、って言ったのはエルの方だろ」

 よもや『待て』もできないのか、とやや批難の眼差しを向ける。

「そうだね。でも──先に煽ったのは貴方だ」

「っ」

 ちゅ、とこめかみに短いキスが落とされる。

 それはじわりと顔から全身に広がり、ゆっくりと体温が上がっていく。

(ああ、もう……!)

 都合の悪い時ははぐらかし、かと思えば思わせぶりな態度を取る。

 エルの行動は予測出来るようで時々斜め上を行き、高確率で己が振り回されてばかりだ。

 しかし、それでも身体は意思に反してしまうのだから、人間とは分からないものだと思う。

ほだされる俺も悪いけど、お前の方がもっとたちが悪い)

 そう言えたらどんなにいいか、と思いこそすれ結局のところエルの誘いに乗ってしまっているから同罪なのだ。

 エルは楽しそうに鼻歌まで歌い出し、歩を進める。

 やがて王宮の正面階段へ差しかかろうとしていると、こちらへ足早にやってくる影があった。

「ずっと、ずっとお待ちしていたのですが……!?」

 耳の下で切り揃えられた黒髪を振り乱し、わずかに息を乱した青年が声高に言った。

「……なんだ、ノアか」

 はぁ、とエルは不快感を隠そうともせず溜め息を吐く。

 アルトに対しては常に柔らかな弧を描く柳眉が今は顰められ、心底鬱陶しそうな瞳を青年──ノアに向けていた。

(エルってこんな顔もするのか)

 その表情は今まで知らなかったもので、胸が不思議な感情に支配される。

 間近で顔を見ているからか、余計にそう思うのかもしれないなと頭の片隅で思った。

「なんだ、ではございません!」

 するとノアはきっと目尻を上げ、声を荒らげる。

「アルト様を着飾るのは私の役目だ、と今朝方申し付けたのは殿下でしょう。……その長いおみ足でどこへ向かおうとしているのですか!?」

「どこへ向かうも何も、お前の待つ部屋だ。……それよりも、持ち場を離れる事が使用人にあるまじき事だと知らないのか」

 低い声音はどこまでも冷たく、自分に言われている訳ではないのに背筋が寒くなった。

「あまりにも遅いので迎えに来たのです。本来であれば既に着替えを済ませて辺境伯様の元へいるのですよ、貴方は!」

 ノアは丸く黒い瞳を更に大きくさせ、心做しか頬も赤くさせている。

「え、ちょ、ノア……」

 ここまで感情を全面に出して怒っている侍従を見るのは初めてで、アルトは内心気が気ではなかった。

「私の予定まで把握しているのか」

 ひくりと頬を引き攣らせ、エルが短く呟いた。

 王太子に対して言い過ぎではないかと手を伸ばしかけるが、エルに抱えられているためあまり大きくは動けない。

「わ、っ」

 そんなアルトに気付いてか、エルが丁重に降ろしてくる。

 しかし、ようやく降ろされた事を喜ぶよりもノアが何をするのかが気になり、無意識にエルの前に立った。

「……時間が無いのは分かった。だが」

「まだ何かあるのですか」

 エルの言葉を遮り、ノアがじとりと睨み付ける。

 二人とも常に穏やかで、時に怒る事はあってもここまで感情を出す人間ではない。

 この二人の間には他の使用人以上の何かがある、と思わざるを得なかった。

「アルト」

「っ」

 すると肩にエルの手が置かれたかと思えば、やや高く甘い声が耳朶に吹き込まれ、図らずもぴくりと身体が震えた。

「これ、ちゃんと付けてきて」

 背後から腕が伸び、軽く胸の中心を押されてそこで気付く。

 服の中にはエルから贈られた指輪が鎖に通されており、それを付けるという事は己もおおやけの場に顔を出す、というに等しい。

 時に王族としての公務があれば、エルは必ずと言っていいほど『絶対に指輪を付けて』と言ってきかない。

 それ即ち自分のものであると言っているも同然で、改めて言われると恥ずかしさがあった。

「……返事は?」

 さらりと黒髪が首筋に触れ、アルトは無意識に首を竦める。

「分かった、分かったから早く行け……!」

 真正面から浴びるノアの呆れた視線がいたたまれず、アルトは半ば投げやりに叫んだ。

「ふふ、じゃあね」

 エルの笑いを含んだ囁き声を最後に温もりが離れ、やはりどこか機嫌よく来た道を戻っていく。

(なんだ……なんなんだよ、本当!)

 たった数分の間だというのに、どっと疲れてしまいその場にくずおれそうになった。

 しかし気合いで持ち堪え、アルトはノアに視線を向ける。

「の、ノア?」

「……はい?」

 ノアはむすりと不機嫌な顔のまま、こちらを見つめた。

 その表情は未だ怒っているがどこか幼く、ともすれば何か悪戯をしてバレた時の子供がする顔に似ていた。

「えっ、と……迎えに来てくれたんだよな? ありがとう」

 どうにかして笑ってほしくて、アルトは思ったままの言葉を口にする。

 実際遅くなってしまったのは事実のため、謝罪すべきなのだろうがこの際それは後だ。

 今はただ、目の前の侍従をどうにかして笑顔にしたかった。

(じゃないとやりにくいし)

 元の世界でも事情は違えど似たような事が頻繁したため、相手が怒っているとこちらも萎縮してしまい、どう接したらいいか分からないのだ。
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